広島文学館設立運動の軌跡：1987年〜2009年

成定　薫（広島大学）

1　原爆文学

　1945年8月6日・９日、広島と長崎に対する原子爆弾投下の結果生じた悲惨と苦悩を描いた文学作品は原爆文学（Atomic Bomb Literature）と総称される。原爆文学は、短歌、詩、小説、戯曲の他、記録や評論などのジャンルから成る。子供も含めて一般の人びとによって膨大な量の原爆文学作品が書かれてきたし、その中には貴重なだけでなく感動的な作品も多い。

　職業的あるいは半職業的な詩人や作家よる原爆文学としてよく知られているものには次のようなものが挙げられる。

　1-1　被爆作家とその作品

　1-1-1　広島の作家と作品

　原民喜（1905～1951）

　　『夏の花』（1947）

　大田洋子（1906～1963）

　　『屍の街』（1948）、『人間襤褸』（1951）、『半人間』（1953）

　峠三吉（1917～1953）

　　『原爆詩集』(序詩「ちちをかえせ　ははをかえせ」)(1951)

　栗原貞子（1913～2005）

　　「生ましめんかな」(創作ノート「あけくれの唄」19頁、1945)、

　　『黒い卵』1946、『栗原貞子全詩篇』（2005）、詩集、評論多数

　正田篠枝（1910～1965）

　　『さんげ』(1947)

　竹西寛子（1929～）

　　『儀式』（1964）、『管弦祭』(1978)

　1-1-2　長崎の作家と作品

　林京子（1930～）

　　『祭りの場』(1975)、『林京子全集　全8巻』（2006）

1-2 非被爆作家とその作品

　佐多稲子（1904-1998）

『樹影』（1972）

　井上光晴（1926-1992）

『地の群れ』（1963）

　井伏鱒二（1898～1993）

　　『黒い雨』（1965）

　大江健三郎（1935～）

　　『ヒロシマ・ノート』（1965）、編集『日本の原爆文学』（全15巻）（1983）

　小田実（1932～2007）

　　『Hiroshima』(1981)

1-3 原爆文学の困難

　原爆文学は、本来、「筆舌に尽くしがたい」事実、体験を言葉で表象しようと努めているが、そのような努力を通じて生み出された作品は、既存の文学観、文学概念に馴染まないという根本的な困難性を抱えている。実際、過去に何度も原爆文学をめぐって文学者および批評家による論争が生じた。総じて、文壇的権威および出版界・読書界は、原爆文学を「文学」として評価せず、無視ないし否定している。

1-4 原爆文学の重要性

　近代科学技術の所産＝成果として、原爆が製造されただけでなく、実際に二つの都市（広島と長崎）に投下されたことによって近代文化・近代文明は全体として倫理的に破綻したと言うこともできる。「二度ある事は三度ある」という諺があるように、遅かれ早かれ（数年後、数十年後ではなく、数百年後、さらには数千年後であることを望むが）、人類の滅亡は不可避となった、と言わざるを得ない。いずれにせよ、ヒロシマ・ナガサキの以前と以後とで人類史は区分されることになろう。ドイツの思想家Ｔ・アドルノーは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは不可能である」と言ったが、全く同様に、ヒロシマ・ナガサキの後に、近代的価値を刻印された人間観＝ヒューマニズムに安易に依ることはできないし、伝統的な文学観を踏襲することもできないだろう。

　原爆以前のヒューマニズムや文学観からすれば、原爆文学は、一つの災厄に関するローカルでマイナーな表現に過ぎないが（原爆文学の困難性はここに由来する）、我々が生きている原爆以後の時代＝核時代は、（あり得るならば）新しい人間観＝新しいヒューマニズムを構築せねばならないし、（あり得るならば）新しい文学観を構築せねばならないだろう。

　「筆舌に尽くしがたい」事実と経験をあえて言葉に紡いできた原爆文学は、新しいヒューマニズムや新しい文学観を構築するために必要な手がかりを与えてくれるのではなかろうか。原爆文学は、より広く読まれ、より深く研究されねばならないと考えられる。原爆投下から65年が経過し、被爆者の多くが亡くなり、高齢化している今日、原爆がもたらした悲惨を語り伝える原爆文学の意義は、第三の原爆投下を防ぐ意味でも非常に大きいといえよう。

　しかしながら、原爆文学を収集し、調査・研究するとともに広く市民に開放展示する場としての文学館は、広島にも長崎にも存在しない。

２　広島文学館設立運動

2-1 日本の文学館

　日本には文学館（Literature Museum）と名付けられた大小の施設は約550ある。大部分は個人ないし少数の人びとの努力によって設立された非常に小規模なものである。自治体や財団に基礎を置く比較的有力な文学館約80館が「全国文学館協議会」を結成している。「全国文学館協議会」に加盟している文学館の数80は、日本の行政単位（1道1都2府43県計47、および政令指定都市18市、合計65）を少し上回っているので、計算上、日本の主要な都市は、その都市および周辺地域出身の文学者に関連する資料を調査・収集・展示することによって、文学者の功績をたたえる施設としての文学館を有していることになる。

2-2 広島市には文学館がない

　広島県についていえば、広島県の西に位置する福山市（人口46万人）に「ふくやま文学館」がある。「ふくやま文学館」は、福山市出身で『黒い雨』の作者である井伏鱒二（1898〜1993）を中心に福山市にゆかりのある作家たちの生涯と作品を紹介している。『黒い雨』は原爆文学の中で最も有名な文学作品の一つであり、1965年に出版され、現在でも広く読まれており、英語訳をはじめ多くの外国語訳もある。

　しかし、西日本の有力な都市であると同時に、人類史上最初の原爆攻撃＝都市殲滅（policide）の対象となった広島市（原爆投下時の人口35万人、1945年末までの犠牲者14万〜15万人、現在の人口116万人）には文学館は一つもない。また、第二の被爆都市である長崎市（原爆投下時の人口24万人、1945年末までの犠牲者7万〜8万人、現在の人口44万人）には、日本におけるキリスト教の土着化を主題にした『沈黙』で知られる著名な文学者遠藤周作（1923〜1996）を記念する文学館が長崎市郊外にある。しかし、原爆文学をテーマにした文学館は存在しない。

　広島市には「平和記念資料館」（Hiroshima Peace Memorial Hall）があり、長崎市には「長崎原爆資料館」（Nagasaki City Peace and Atomic Hall）があり、ともに多くの被爆資料を実物展示しており、原爆による被害の実情をよく伝えている。両館は毎年、多くの入館者を迎えており、特に8月6日、9日の前後は、日本全国および世界中から多くの人々がやってきて、遺族とともに平和を願う場となっている。しかし、両館とも原爆文学に関連する資料の収集・展示は行っていない。

2-3 第一次広島文学館設立運動：1987年〜

　広島市に原爆文学を中心とした文学館がないことを残念に思う人々が1987年に行動を起こした。広島で文化運動に関わってきた人びと、文学者、大学教員たちが立ち上がったのである。彼らは、「広島文学資料保全の会」を結成し、原爆投下によって生じた悲惨を、文学者あるいは一般の人々が、さまざまな文学作品（詩、短歌、小説、戯曲、マンガ、評論）によって表現してきた記録を調査・収集・展示するとともに、その重要性を世界に向けて発信する場が必要ではないか、と広島市と広島市民に訴えたのである。広島だけでなく、東京在住の著名な文学者の支援を受けた運動は一定の盛り上がりをみせ、6千人の署名も集まった。

　1987年7月、「広島文学資料保全の会」は、当時の荒木広島市長に原爆文学を中心とした文学館の設立を要請した。市長は「保全の会」のメンバーに「広島の文学資料というが、どのようなものがどれくらいあるのか」と問い返した、という。広島は児童文学者の鈴木三重吉（1982〜1936）をはじめとして戦前から多くの作家を輩出していたこと、また、原爆文学の多くが広島の作家たちによって書かれたことを、市長は認識していなかっただけでなく、文学資料の調査収集を広島市の責任とは考えていなかったわけである。

　「広島文学資料保全の会」は、市長の反問に答える形で、自らの力で文学資料の収集に乗り出し、短期間に２万点以上の文学資料を収集し、これを広島市に寄贈した。これらの資料は広島市立中央図書館に収蔵されるとともに、1987年10月、図書館内に「広島文学資料室」が設置された。「広島文学資料室」には原爆文学作家、原民喜、峠三吉、太田洋子も含めて、広島に関係する作家の写真、年表、著作などが展示された。「広島文学資料保全の会」の運動は、文学館設立へ向けて大きな成果を挙げたように思われた。

　しかしながら、「広島文学資料室」は多くの図書館利用者が気付かないような奥まった場所に位置しており、実際、訪れる人はほとんどいなかった。また、文学資料を整理し、さらに研究する専門の担当者も配置されなかった。そのため、寄贈された多くの資料は書庫の奥で箱詰めにされたまま放置され、目録作りもなされなかった。見かねた「広島文学資料保全の会」のメンバーが、ボランティアで目録作りを細々と続けるしかなかった。このような状況が2000年まで十数年続いた。

2-4 第二次広島文学館設立運動：2000年〜

　2000年の暮、「文学資料保全の会」の中心メンバーだった好村冨士彦氏（広島大学名誉教授、ドイツ文学者）は、日本銀行広島支店だった古い建物（被爆建物）が広島市に管理が任され、広島市はその利用法について市民から意見を聞こうとしていることを知った。好村氏および水島裕雅氏（広島大学教授、比較文学者）らは、「広島に文学館を！市民の会」を結成し、旧広島支店を広島文学館として活用するよう広島市に働きかけることにした。好村、水島両氏の友人であった報告者（成定）も、この運動に加わることになった。

　「広島に文学館を！市民の会」（代表、水島氏）は2001年から活動を開始し、2001年夏、日本銀行旧広島支店を会場に2週間にわたって、「原爆文学展　5人のヒロシマ」と題する文学展を開催し、栗原貞子、原民喜、峠三吉、大田洋子、正田篠枝の文学資料を多数展示した。「原爆文学展」には多数の来場者があり、「旧広島支店を文学館に」という「市民の会」の願いは達成されるかと期待したが実現しなかった。結局、旧広島支店は、ギャラリーないし会場としてさまざまな展示やイベントに利用されることになったからである。また、一部は平和公園などの寄せられた膨大な千羽鶴の保存展示場となっている。

　その後も、広島市（秋葉広島市長）は、「博物館の建設計画が優先されており、その博物館建設計画が頓挫している現状では、文学館設立を考慮する余地はない」という姿勢を崩さなかった。広島市民の側からも文学館設立について、広島市の姿勢を変えさせるような強い要望は起こらなかった。秋葉広島市長は、「平和市長会議」(Mayors for Peace)の議長として「核廃絶」を世界に訴えているようだし、世界中の大学に対して「広島・長崎講座」を設置して平和教育を推進するよう呼びかけているようである。さらに、秋葉市長は二○○四年八月六日の平和宣言で「残念なことに、人類は未だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています」と世界に向けて訴えている。このような活動や発言を裏付けるものとして、原爆がもたらした人間的悲惨を描いた原爆文学を中心とする広島文学館設立は必要不可欠だと思われるのだが、なぜか、文学館設立を求めるわれわれの声には耳を貸そうともしないのである。

　このような厳しい状況にもかかわらず、「広島に文学館を！市民の会」は、HP「広島文学館」（http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/）を開設し、原爆文学に関する論説や資料（原民喜の「原爆被災時の手帳」、栗原貞子の「自筆ノート　生ましめんかな」、峠三吉の「スケッチブック」「原爆詩集（最終草稿）」、中山茂「世界の原爆文学」など）を掲載するとともに、毎年のように文学展示を開催して、原爆文学の重要性と文学館設立の必要性を訴え続けてきた。新聞やテレビなど報道機関も、「市民の会」の活動を伝えた。そのような運動ないし圧力の成果だと思われるが、市立中央図書館の「広島文学資料室」の資料整理が少し進み、現在は、「広島文学資料室」収蔵されている図書や雑誌の目録が図書館のHPから見ることが出来るようになった。しかし、文学資料として最も重要な、原稿、手紙などは未整理のままのようである。

　この間、1987年に「広島文学資料保全の会」を組織し、2000年には「広島に文学館を！市民の会」の立ち上げを呼びかけた好村氏が2002年に逝去し、原爆文学の重要性を自らの作品を通じて長年訴えてこられた栗原貞子氏も2005年に逝去された。日本銀行旧広島支店を文学館として活用するという提案の実現性がほとんどなくなった現在、「広島に文学館を！市民の会」による広島文学館設立の運動は大きな壁にぶつかっていると言わざるをえない。

　2-5新しい動き：現在

　広島市に文学館を設置しようという運動が展望を見出せない中で、新しい動きがでてきた。

　一つは、広島大学文書館による活発な資料収集活動である。広島大学文書館は、広島大学に直接関係する資料の収集に留まらず、広島出身および広島で活躍した作家や平和運動家の資料収集に乗り出している。すでに文書館は、山代巴（1912〜2004、作家）、平岡敬（1927〜、中国新聞社編集局長、前広島市長）、大牟田稔（1930〜2001、中国新聞社論説主幹、平和文化センター理事長）、梶山季之（1930〜1975、作家）の資料を入手した。これらの資料は、戦後の広島における文学運動と平和運動に関する貴重な資料群であり、本来なら広島文学館が収集、整理すべきものであったと思われるが、文学館が存在しない現状からすれば、広島大学文書館に収蔵されたことは喜ぶべきことと言えよう。しかし、広島大学文書館は東広島市にあって、広島市から遠方にある上、文書館という性格上、特に一般利用者による資料の閲覧・利用には厳しい制約がある。

　2005年に逝去された栗原貞子氏が残した膨大な文学資料については、その一部が一旦は広島市に寄贈され、広島市立中央図書館に収蔵された。しかし、寄贈にあたってご遺族と交わされた約束（残存資料の早急な整理と引き取り）が果たされなかったため、ご遺族の強い希望で返却されることになった。この顛末は、広島市が文学資料を大切に扱っていないかを端的に示している。その後、「広島に文学館を！市民の会」のメンバーが仲介し、栗原資料は広島女学院大学図書館に一括寄贈されることになった。女学院大学は、2008年「栗原貞子記念平和文庫」を開設し、平和教育に役立てようとしている。

　文学資料が個人の所蔵から、広島大学や広島女学院大学など、教育機関に移されたことは、資料の保全、整理、活用、研究の面から見て、非常に喜ばしい動きであり、特に若い世代の教育に役立てられれば、資料提供者も満足されるだろう。今後も同じようなことが続く可能性が高い。

　しかし、このような動きを通じて、文学資料が散逸しつつあることも否めない。報告者は、数年来、原爆文学研究における重要な著作John Whittier Treat, Writing Ground Zero: Japanese Literature and the Atomic Bomb, The University of Chicago Press, 1995に取り組んできたが、著者トリート氏が膨大な日本語文献を使って執筆していることに驚いた。翻訳にあたって、文献をチェックするために、広島大学図書館、広島県立図書館、広島市立図書館などをさがしたものの、遂に該当文献を見つけることができなかったこともある。「広島文学館があれば」と何度思ったか知れない。

　原爆文学に関して、アメリカ人研究者が利用している日本語文献を広島に住んでいる者が読むことができない、という皮肉な状況は解消されねばならないのではなかろうか。やはり、「広島文学館」は設立されるべきであろう。