ウォッチング科学技術

  • 1998年の科学技術:ニュートリノに質量・テポドン・TMD・偵察衛星

  • 1997年の科学技術:クローン羊ドリーと臓器移植法の間

  • 1996年の科学技術:科学技術基本法と科学技術基本計画

  • 1995年の科学技術:カルト教団と科学技術者・もんじゅの事故

  • 1994年の科学技術:トップクォークの発見・きく6号の失敗

  • 1993年の科学技術:SSCの建設中止・ヒトゲノム計画

  • 1992年の科学技術:ソ連解体と科学技術者・プルトニウムとあかつき丸

  • 1991年の科学技術:科学技術番組・百周年の電総研・国立大学の危機

  • 1990年の科学技術:研究開発費の政府負担・原子力船むつ・ファジー家電

  • 1989年の科学技術:常温核融合・HFSP・地球環境問題

  • 1988年の科学技術:日米科学技術協定・原子力発電・知的所有権

  • 1987年の科学技術:脳死と臓器移植・高温超伝導・利根川進のノーベル賞受賞

  • 1986年の科学技術:SDIへの参加決定・二つの巨大事故

  • 1985年の科学技術:科学技術の動向・科学技術政策の新展開・ニューサイエンス


    一九八五年の科学技術

    最近の科学技術の動向

      科学技術ブーム:「国土が狭く資源に乏しい日本が、今後とも経済の安定成長と国民生活の 向上を図っていくためには、積極的に技術革新を促進し、科学技術立国を目指すことが不可欠で ある」(『科学技術庁年報二八(一九八四年版)』)との主張、すなわち第二次大戦後、科学者 および科学技術に強い信頼を寄せる人々によって主張されてきた「科学技術立国論」は、ここ数 年来、マスコミおよび科学技術ジャーナリズムの啓蒙活動を通じて国民一般の広い同意を得るに 至ったかにみえる。その結果、一九八○年代になって、七○年代の科学技術に対する批判的な雰 囲気とはまったく逆に、一種の「科学技術ブーム」が到来した。
      八五年三月から九月までの半年間、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに筑波研究学 園都市で開催され、約二千万人の観客を動員することに成功した「国際科学技術博覧会(科学万 博)」とその前宣伝が科学技術ブームに拍車をかけたことはいうまでもない。科学技術立国論の 鼓吹や科学万博の開催は行政サイドによる一種の科学技術政策とみることもできるが、このよう に政府の科学技術政策は近年いっそうきめ細かさを増してきている。たとえば、「創造科学技術 推進制度」や「次世代産業基盤技術研究開発制度」は、世界の中での日本の経済および科学技術 の位置や役割が新しい局面を迎えたとの認識に立った画期的な施策とみることができる。
      もう一つの科学技術:一方、上記のような華やかな科学技術ブームの背後には、七○年代に 大きな社会問題となった公害・環境汚染をはじめとして、科学技術と社会の接点で生じる多くの 問題が依然として解決されずに残っているし、八○年代になると、バイオテクノロジーや遺伝子 工学の発展に伴って新しい医療倫理(バイオエシックス)の確立の必要性が論じられるようにな ったり、科学技術の巨大化に伴う大事故の発生(たとえば、ボパールの化学工場のガス漏れ事故、 ジャンボジェット機墜落事故)など新たな問題も次々に提起されている。そのため、科学技術の ありかたに根本的な疑念を抱く人々は既存の科学技術に取って代わる、ないしはそれを補完する ものとしての「もう一つの科学技術」を求める思想運動・実践運動を粘り強く継続している。エ ントロピー概念の重要性の指摘やエコロジー運動はそのような運動を代表するものであろうが、 最近ではニューサイエンス論が耳目を集めている。
      ここでは以上のような現状認識に立って、最近の科学技術の動向を、創造科学技術の推進と ニューサイエンス論に則して概観することにしたい。

    科学技術政策の新展開

      創造科学技術の推進:科学は新しいパラダイム paradigm が古いパラダイムに取って代わる ことによって、すなわち科学革命によって発展してきた。現代では、科学と技術が一体化し、科 学革命の成果はすばやく技術に応用されるし、逆に技術上の課題が科学革命を引き起こす場合も しばしば生じる。現代が科学技術革命の時代と呼ばれるゆえんである。
      第二次大戦後の日本の経済発展を可能にした要因の一つが、欧米における科学技術革命のす ばやい導入とスムーズなキャッチアップの成功にあったことはいうまでもない。そして、日本は 戦後四○年の歩みを通じて、平和憲法の下、軍事的な科学技術に資源と人材を浪費することのな かったためもあって、経済力および科学技術力において、多くの分野で欧米と肩を並べるように なり、場合によっては欧米を追い越してトップに立つに至った。最近は、ごく一部の分野(たと えば、軍事関連分野)を除いて先端科学技術の分野でも、日本はもはやトップランナーだ、とい った自信にあふれた強気の論議さえ聞かれるようになった。
      とはいえ、日本の研究開発は、七兆円に達する研究費および三○万人を超える研究者の配分 ・配置から明らかなように、従来の欧米の科学技術革命の導入方式を反映して、民間部門の応用 開発が大きなシェアを占めており、直接的な利益につながるかどうかの保証のない、その意味で リスクをはらんだ基礎研究はややもすれば軽視されがちである。その結果、日本では独創的な科 学技術革命はめったに生じないし、科学技術情報は大幅な輸入超過の状態にとどまっている。こ のため諸外国から「日本は、自前の研究開発を怠りながら欧米の科学技術革命の成果をタダで利 用している」との批判が寄せられるようになり、欧米追従型の科学技術から脱皮・方向転換が必 要だとの論議がこれまでにも増して高まってきたのである。このような状況を背景に打ち出され てきた新しい科学技術政策が、基礎的研究の重視および創造的な開発研究に対する支援である。
      たとえば、「創造科学技術推進制度」は、「科学技術立国を志向する日本にとって、従来の 導入技術依存型の体質からの脱却を図り、自らの力で革新技術の源泉となる科学技術の芽(シー ズ)の探索に努める」(『科学技術白書』一九八四年版)ために設けられた。この制度は、総花 的で硬直的だとの批判をこうむりがちな日本の研究体制の限界・制約を打破すべく、産・官・学 の交流・協力を前提に、流動的な研究システムを大幅にとりいれている。具体的にいえば、1.プ ロジェクトリーダー制、2.組織横断的な研究員システム、3.一定期間、契約による研究参加、 4.弾力的な運営、5.(研究者派遣機関に対する)インセンティブの配慮などといったユニークな 方式が採用された。すなわち、従来、科学者、技術者の自発的な創意・工夫に任されていた科学 技術革命の出現を積極的に奨励し、その展開をより効率的に誘導しようとする政策が意図的に採 用されはじめたのである。
      創造科学技術推進制度によって、八一年度には「超微粒子」「特殊構造物質」「ファインポ リマー」「完全結晶」の四つのプロジェクトが発足し、以後、「バイオホロニクス」「生物情報 伝達」「特殊環境生物」が順次発足した。それぞれのプロジェクトは、研究費総額二○億円、研 究者数二○人で研究期間五年をめどに研究がすすめられている。
      特別研究員制度の発足:日本の自主的な研究開発能力のポテンシャルを高めることを狙いと した創造科学技術推進制度は、科学政策の新しい方向を象徴するものであり、この制度の成功い かんにかかわらず、今後、研究投資の重点配分がいっそう進行するのは間違いあるまい。しかし、 どのような研究テーマを「創造科学技術」として取り上げるのかという判断を誰がするのか、ま た、プロジェクトの研究成果をどのように査定するのか、という問題がある。これは他の研究分 野・テーマに比べて多額の研究費を要する、いわゆるビッグ・プロジェクト(核融合の開発研究 や高エネルギー物理学の実験的研究など)の取り扱いや優先順位の決定にも通ずる問題である。
      研究テーマの優先順位の決定や研究成果の査定に関する明確なルールがなければ、当該分野 の重要性や緊急性を科学政策の立案者および世論に的確にアピールする能力をもった有能なスポ ークスマンに恵まれた分野にばかり日が当たり、そうでない分野は、たとえ多くの国民(納税者) にとって重要なものであっても日の目を見ない、ということにもなりかねないからである。また、 創造科学技術のような、明確なパラダイムをもたない、換言すれば失敗の可能性を多分にはらん だ研究テーマ(プロジェクトの遂行を通じてパラダイムを確立しようとしているわけだが)にす すんで携わろうとするような、冒険心と進取の気性に富んだ研究者をどのようにして確保し養成 するかというやっかいな問題もある。
      この意味では、日本学術振興会が八五年度から「特別研究員制度」を発足させたことは注目 に値する。この制度は、博士課程を修了したにもかかわらず研究職につけない人々(いわゆるオ ーバードクター)の救済策という側面もないではないが、むしろ優秀な若手研究者を積極的に発 掘し、彼らに自由で流動的な研究条件を提供してその才能を十二分に発揮させることを目的とし て創設されたものである。八五年度は一四○名の研究員が採用された。創造科学技術推進制度や 特別研究員制度など、日本の研究体制にとって異質な要素を持ち込んだ新しい科学政策が、日本 の科学技術活動にどのようなインパクトを与えるか興味深いところである。
      なお、八五年六月二四日、臨時行政改革審議会の科学技術分科会は「科学技術行政のあり方」 について報告したが、当然のことながら、科学技術立国論に立って「追いつき型の研究体制から、 創造的な基礎研究を重視した体制への転換」をうたい、「産・学・官の研究交流の促進」や「研 究開発の基盤・条件の整備」を提案している。

    ニューサイエンスをめぐる論議

      科学技術立国論の焦眉の課題が創造的科学技術の推進にあるとすれば、科学技術の現状に批 判ないし疑問を抱く人々の注目を集めているのは和製英語でニューサイエンスと総称されている 科学論、文明論である。最近は、ニューサイエンスに関連する多くの著作が出版され、また有力 な思想・哲学雑誌もニューサイエンスを正面から論じた特集を組むなど一種のブームの観を呈し ている。
      カプラとケストラー:よく知られているように、日本におけるニューサイエンス・ブームの 先駆けとなったのは理論物理学者(だった)F・カプラの著作『タオ自然学』の邦訳出版であっ た。カプラは現代の物理学の主流が、物質は究極的な粒子とされているクォークから成っている とみなしていることや、次々により基本的だとされる粒子を探しだそうとする還元主義的方法に 依拠していることに疑問を投げかけ、この観点から、素粒子の相互の関連性に着目した物理学の 新しい理論「ブーツストラップ(靴ひも)理論」の有効性を主張した。さらにこのブーツストラ ップ理論には東洋の伝統的な自然観と合い通じるものがあることを指摘した。カプラは『タオ自 然学』以後、『ターニング・ポイント』『緑の政治』と思索を展開して、システム論やエコロジ ー運動に共鳴する立場から近代科学技術をトータルに批判しながら、それに取って代わる新しい 文明や政治システムを模索している。
      事物の関連性を強調し、部分と全体の調和を説くのは、もちろんカプラにはじまったことで はなく、カプラが着目した東洋思想も含めて、古今東西の思想に多数の先駆をみることができる。 近年では、A・ケストラーが『ホロン革命』で、自然と社会を貫く「ホロン(全体子)」概念を 提唱しており、この意味でケストラーはニューサイエンスの先達といえるだろう。
      ケストラーやカプラなどニューサイエンスにかかわる代表的な論者の著作の邦訳者、田中三 彦によれば、ニューサイエンスは「東洋思想と現代物理学の相似性の強調、還元主義に対する包 括的理論の提唱、そしてその両極をつなぐすべてのベクトルの根底にある神秘主義的アプローチ」 という三つの要素を共有している。このうち第二の要素、すなわち還元主義批判と包括的理論の 提唱は、前述した創造科学技術推進制度による研究プロジェクト「バイオホロニクス」にも反映 していることにもみられるように、既存の科学者・科学界からも一定の評価を獲得している。し かし、他の二つの要素、東洋思想への傾倒と神秘主義的アプローチに関しては、当然のことなが ら、科学界から強い反発を招いている。ニューサイエンスは新しい装いに身を包んだ反科学・非 科学にすぎないというわけである。またエコロジストから実践運動と無縁の観念論だとの批判も 表明されている。
      シンポジウムで討議:アカデミズム科学者や運動家の危惧や反発にもかかわらず、ニューサ イエンス・パラダイムは一般の人々の好意的な反応を獲得している(カプラやケストラーなどニ ューサイエンス関連の書物はしばしばベストセラーになる)だけでなく、しだいにさまざまな分 野に属する専門家の真剣な討議の対象になりつつある。たとえば、七九年十月のコルドバ・シン ポジウム「科学と意識」を受けて、八四年十一月には筑波大学で「科学・技術と精神世界」と題 された日仏協力シンポジウムが開催された。このシンポジウムではニューサイエンスの論客たち (物理学者で直接観察できないがより根本的な実在としての「暗在系」の重要性を主張している D・ボーム、地球的・宇宙的な観点から生命をとらえようとした『生命潮流』の著者L・ワトソ ン、ホログラフィーと大脳の機能との類比を指摘しているK・プリブラムなど)がビデオ映像で 参加したほか、ニューサイエンスに肯定的な論者と否定的な論者が多数参加して激しい論戦を展 開した。また、八五年四月には京都で開催された「国際トランスパーソナル学界」で「伝統と科 学の融和」と題されたシンポジウムがもたれ、そこでもニューサイエンス・パラダイムが論議の 対象となった。筑波シンポジウムの参加者の一人である伊東俊太郎も指摘しているように、ニュ ーサイエンスをめぐる論議は「安易に全会一致になるのではなく、意見の対立がありこの間に討 論がはげしく行われることが健全」であろう。

    平凡社『1986年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九八六年の科学技術

    科学技術政策の転換?:SDIへの参加決定

      SDI(Strategic Defence Initiative、通常「戦略防衛構想」と訳されている) とは、一 九八三年三月のレーガン大統領のテレビ演説に端を発する新しい防衛システムである。具体的に は、敵国から発射された弾道ミサイルを人工衛星によって早期に発見し、レーザー兵器やビーム 兵器で(すなわち非核兵器で)破壊することによって核兵器を無力化するシステムを完成するた めに必要な研究や技術開発を意味する。アメリカでは、国防省に新しくSDI局が置かれすでに 多額の予算をSDIの完成に必要とされる研究や技術開発に投入し始めている。また、アメリカ 政府は西側同盟諸国に対して、SDIに参加することを強く求め、すでにイギリスや西ドイツは 参加協力を表明した。もちろんわが国に対しても強い働きかけがなされてきた。中曽根首相はか ねてからレーガン大統領に「SDIの意義を理解する」との態度を表明していたが、ついに一九 八六年九月九日の閣議でSDIへの参加を正式決定するに至った。
      しかし、SDIの戦略的意義や実現可能性については現在も激しい論議が続いている。例え ば、高速で飛来する何千発ものミサイルを的確に補足し、撃滅するなどという離れ技が、たとえ 超先端技術を駆使したとしても実際に可能とは考えられず、結果的には核軍拡競争を激化させる だけではないかとの疑問が、当のアメリカの科学者の間でも提出されて、多くの科学者がSDI 関連の研究を拒否するなど活発な反対運動を展開している。わが国でも、反核・平和運動に実績 を有する物理学者を中心に、さまざまな反対運動が組織されている。もっとも、SDI推進者た ちの中には、SDIの戦略的意義や実現可能性ではなく、SDIに参加することによって先端技 術の研究・開発に参与するメリットを強調する人々もいる。日本政府がSDIへの参加を決断し た理由の一つもここにあると想像される。しかし、純然たる軍事研究であるSDIの研究・開発 に関われば、わが国の科学者が理想としてきた「自主・民主・公開」(原子力平和利用三原則) が踏みにじられることは火を見るよりも明らかである。また、戦後のわが国の科学技術と産業の 発展が、原則的には平和憲法の線に沿って、人材や研究資金をもっぱら非軍事的=民生的な方面 に投入してきたことによってもたらされたことを考えると、SDI参加は個々の企業にとっても、 わが国全体にとっても、メリットよりもデメリットのほうが大きいのではあるまいか。ともあれ、 SDIへの参加決定は、戦後の科学技術政策の全面的な転換につながりかねず、今後に禍根を残 すことが憂慮される。

    チャレンジャー号の爆発事故とチェルノブイリの原子力発電所爆発事故:巨大技術システム の脆弱さ

      不幸なことに、一九八六年は現代の科学技術のありかたに深い関わりを持つ二つの巨大事故 で記憶される年となるかもしれない。
      チャレンジャー号の事故:月に人間を送り込むことを目的としたア ポロ計画が成功を収めた後、アメリカ航空宇宙局(NASA)の中心的なプロジェクトとなって いたスペースシャトルによる宇宙開発計画は、一九八六年一月二八日、チャレンジャー号の爆発 事故、それに伴う乗員七名の死によって大きな挫折を余儀なくされることになった。スペースシ ャトルは、有人の軌道船(オービター)で宇宙と地上との間を何度も往復し、宇宙開発の多様化・ 大規模化を可能にすることを目指して、また、より直接的にはNASAそれ自体の維持存続を目 的として一九七○年に立案されたビッグ・プロジェクトである。元来、宇宙開発は、国家的な威 信の追求や軍事的な有用性を主たる目的としており、スペースシャトル計画も軍事的な性格を強 くもっているのは当然である。しかし、スペースシャトル計画では、軌道船本体はもとより、打 ち上げに用いる固体燃料ロケットも回収して再利用することによって、商業的にも採算の取れる 経済的なものにすることも大きな目的の一つとなっている。
      スペースシャトルを利用した新しい試みとして、例えば、無重量状態でのみ可能な、各種の 実験を行ったり、均一で微小な粒子、特殊な医薬品や合金の製造があり、すでに目覚ましい成果 を挙げている。いわば、スペースシャトルを用いて宇宙実験室・宇宙工場の建設がもくろまれて いるわけである。また、スペースシャトルから気象衛星および通信衛星を発射したり、回収・修 理するなどの試みもある。スペースシャトル計画に関わりをもつ人々は、これらの技術や経験の 積み重ねは、将来の宇宙船やスペースコロニー(宇宙都市)の建設の重要なステップとなるはず だ、強く主張しており、実際、チャレンジャー事故の前までは、多くの人々もそのように考えて いた。
      以上のような壮大な意図のもとに、コロンビア、チャレンジャー、ディスカヴァリー、アト ランティスの四機のスペースシャトルが製造され就航した。当初、大気圏突入に際して機体を保 護する耐熱タイルがはがれるなどのトラブルに悩まされたものの、飛行回数を重ねるうちにトラ ブルも次第に解消し、スペースシャトルが文字通り宇宙のシャトル=定期便となり、スペースシ ャトルに関する「安全神話」が確立し始めた矢先にチャレンジャー号の爆発事故が発生したので あった。しかも、発射から事故に至る一部始終が、テレビカメラを通じて全米にさらには全世界 に中継されていたため、事故の衝撃は一層強烈であった。発射の模様をとらえた映像などによっ て、事故直後から、打ち上げに用いられた固体燃料ロケットに問題があることが指摘されていた が、案の定、四ヵ月後に公表された調査委員会の報告書でも、ロケットの接合部に使われたリン グの欠陥が直接の事故原因であると断定された。しかも、このリングが低温下では充分な機能を 果たさないことが、何年も前からロケットの設計・製造に携わった技術者によって指摘され、異 常寒波に見舞われた発射当日も打ち上げの延期が具申されていたのに、NASAおよびロケット 製造会社の上層部がことの重大性に気付かなかったことも明らかされた。スペースシャトルの経 済性を追求するあまり、設計上問題のある接合部をもったロケットを採用したことに今回の事故 の発端があったわけである。さらにNASAの組織的な硬直化ないしは官僚主義化が安全性の軽 視につながったということもできよう。そもそも、実験飛行段階では付けられていた乗員脱出装 置があれば七名の乗員の悲劇的な死はまぬがれたかもしれないのである。
      ともあれ、今回の事故によってスペースシャトル計画は大幅な遅延を余儀なくされ、アメリ カの宇宙開発やSDIは大きくつまづいたことは明らかである。そして、アメリカ本国はもとよ り、わが国でもスペースシャトル・フィーバーは一気に冷却し、ジャーナリズムも手のひらを返 したように、スペースシャトル計画に批判的・懐疑的になってしまった。
      チェルノブイリの原発事故と放射能汚染:一九七九年、アメリカの スリーマイルアイランド原子力発電所の事故から七年後、一九八六年四月二六日、ソ連の原子力 発電基地チェルノブイリで起こった原子炉爆発事故は、直接的な人的被害のみならず広範な放射 能汚染をもたらしたことによって、原子力発電が有する潜在的な危険性を決定的な形で露呈した。 事故の直接の原因について、ソ連当局が国際原子力機関(IAEA)に提出した報告書は、低出 力時における発電機の特性に関する(無許可の)実験を行っていた技術者や操作員のミスないし 規則違反と決めつけている。定常時の事故ではないから、原子炉そのものには何も問題はない、 という論法である。しかし、今回事故を起こした「大容量チャンネル型」と呼ばれるソ連独自の 炉は、設計上、基本的な問題をはらんでいると指摘する論者もいる(赤木昭夫『チェルノブイリ の放射能』岩波ブックレット、七四号)。すなわち、この型の炉は、低出力(定格出力の二○% 以下)になると炉の制御が不安定になるという特性をもっているのである。それにもかかわらず、 ソ連でこの型が広く採用されたのは、その経済性が高く評価されたためであった。また、今回の 事故の直接のきっかけになったとされる実験が許可もなく強行された背景には、技術開発をめぐ る技術者間の激しい競争的雰囲気があることが指摘されている。
      原子炉の爆発に伴って、広島型原爆の五○○倍に達すると推定される大量の放射能が大気中 に放出された。そのため、ソ連政府は原子炉から半径三○km以内を立ち入り禁止区域とし、その 範囲内の一三万五 千人が避難させたとされる。しかし、いち早く異常放射能を感知し、ソ連で の原発事故の発生を正しく推定し、ソ連政府を糾弾したのがスウェーデンの人々であったことに 端的に示されているように、放射能汚染はソ連国内にとどまらず、ヨーロッパ全域におよび、人 間はもとより農産物に大きな被害を与えた。また、今回の事故では、気象条件など様々な要因が 重なり合った結果、ホット・スポットと呼ばれる特に放射能汚染の強い場所が存在することも明 らかになった。急激に大量の放射能を浴びた原子力発電所の関係者や、周辺住民はもとより、ソ 連およびヨーロッパ諸国の人々は、今後、長い将来にわたって、癌死など放射能による悪影響を 心配しながら暮らさなくてはならないわけである。さらにいえば、チェルノブイリから遠く離れ たわが国でも事故の影響は観測されており、事故に伴う放射能汚染は地球全体を覆い、人類全体 を脅かしているといえる。今回の事故では、原子力発電の建設に反対する人々が指摘してきた危 険性が最悪の形で露呈されたといえよう。わが国の原子力発電関係者は、原子炉の型の違いや安 全監視態勢の違いなどを根拠にして、同種の事故は起こり得ないとの意見を発表しているが、原 子力発電に疑問をもつ人々を説得できるとは思えない。今後、わが国も含めて、世界的に原子力 発電の建設・運転の是非をめぐって一層論議が高まることが予想される。
      巨大技術システムの脆弱さ:チャレンジャー号の事故とチェルノ ブイリの事故に共通しているのは、経済性を重視する余り、安全性を軽視した設計上の手抜きな いしミスが見られたことである。スペースシャトルや原子力発電のように、計画・製造・実施に 至るプロセスが長期にわたり、それに関わる人間の数が膨大になる大規模かつ複雑なビッグ・プ ロジェクトないしは巨大技術システムについては、安全性の重視という原則が一層確立されねば ならないし、また貫徹されねばなるまい。しかし、安全性がいかに重視され、何重もの安全装置 が施されても、多くのサブ・システムやコンポーネント(要素)から成る巨大技術システムは、 いくばくかの危険性を背負い込まねばならないことは避け難い。その結果、巨大技術システムが、 その見掛け上の精密さや華やかさと裏腹に、本質的な脆弱さを持っていることを、チャレンジャ ーとチェルニブイリの二つの事故は、一九八五年の日航機墜落事故とともに、大きな犠牲を払っ て改めて明らかにしてくれたといえよう。

    平凡社『1987年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九八七年の科学技術

    脳死と臓器移植をめぐる論議

      一九八五年一二月、厚生省脳死検討委員会が新しい脳死判定基準を発表して以来、脳死と臓 器移植をめぐる論議は白熱化している。古来、人間の死は心臓の活動が停止することであると定 義されてきた。しかし、近年の医療技術の発達によって伝統的な死の定義を越えた事態が出現し た。すなわち、人工呼吸器の発明と普及によって、心臓が活動しているのに、人間の人格の根幹 ともいうべき脳が「死んでいる」脳死という状態が、比較的少数とはいえ現実に存在するように なった−−はたして脳死状態にある人間はすでに死んでいるのか、それともまだ生きているのか ?
      もし、脳死状態の人間がすでに死んでいるのなら、例えば心臓や肝臓のような臓器を脳死者 から取り出して、他の方法では回復の見込みのない患者に移植することに、医学的・法的・倫理 的な問題はないだろう。しかし、脳死を個体死と認めなければ、そこから臓器を摘出することは 殺人以外のなにものでもあるまい。また、たとえ脳死を固体死と認めたとしても、どのような条 件を満たせば脳死と認定できるのかという実際的な問題もある。そのため、多くの国々ではそれ ぞれに論議を尽くして、医師団体の自主的な措置として、また法律などで脳死の判定基準を定め ている。また、その基準に則して脳死者からの臓器移植手術も数多くなされている。しかし、詳 しくみてみると、各国の判定基準は微妙に異なっている。その結果、ある国の基準では脳死とみ なされ、臓器摘出の対象となるのに、別の基準では脳死ではないということもおこりうるわけで ある。わが国についていえば、一九七四年に日本脳波学会が脳死の判定基準を作成しており、厚 生省の検討委員会の基準が出されるまでこれが一応の目安となってきた。しかし、一九六七年に 札幌医大で行われた脳死者からの心臓移植手術の適法性をめぐって告発がなされた(結局、不起 訴処分になった)こともあって、それ以来約二○年にわたって日本では心臓移植手術はなされて いない。臓器の提供を待つ多くの患者やそのような患者をかかえる医師たちは、脳死基準の明確 化と脳死者からの移植手術の再開を要望してきた。厚生省は、そのような声を受けたかたちで検 討委員会を設け、判定基準を提出したわけである。この判定基準を基礎にして、日本移植学会は、 一九八六年十二月に脳死段階で臓器提供を受けて移植を推進するための指針を出した。また日本 医師会も生命倫理懇談会を設け、一九八七年十二月、脳死を固体死と認め、一定の条件を満たせ ば臓器移植は可能であるとの立場をはっきりとうちだした(正式答申は一九八八年一月)。わが 国の医学界は、全体として、脳死を人間の死と認める情勢にあるといえよう。脳死者からの心臓 移植手術の再開も間近いものと予測される。しかし、日本学術会議の中に設けられた、医療技術 と人間の生命特別委員会が、一九八七年一○月の第一○三回総会に提出した「脳死に関する見解 案」に対して多くの会員から予想を越えた異論・批判が続出し、見解案が大幅な修正を余儀無く され、結局、脳死容認論と慎重論の両論併記というかたちで採択されたことにもみられるように、 脳死に関する認識や論議はまだ充分に熟しているとはいえない。このような段階での脳死者から の臓器移植の再開強行は論議の余地があろう。現段階で必要なことは、論議を脳死を固体死と認 めるかどうかという、あれかこれかの選択の問題に帰着させることではなく、先ず、多くの人々 を納得させるに足る脳死概念の明確化とその判定基準の作成ではあるまいか。この点、前述の厚 生省の検討委員会の基準は多くの問題点を含んでいるのである(立花隆『脳死』中央公論社、一 九八六年、参照)。この基準の全面的な見直し作業を通じて、より広い国民的合意の形成が図ら れねばなるまい。脳死や臓器移植にとどまらず、男女産み分けや胎児診断や代理母など、最新の 医療技術は人間の生と死の領域に新たな可能性を提示するとともに深刻な問題を投げ掛けている。 我々はこれらの問題に個々人としても社会全体としても何らかの態度決定を迫られているのであ る。伝統的な宗教観や倫理観に基づく人間観や死生観に変容を迫るほどの高度な医療に恵まれた 現代社会に生きる我々は、はたして幸せといえるのだろうか?

    高温超伝導をめぐるフィーバー

      一九八六年、IBMチューリヒ研究所のJ・G・ベドノルツ博士とK・A・ミュラー博士に よる研究が超伝導フィーバーの発火点であった。伝導物質を極低温に冷やすと電気抵抗がゼロに なる現象、すなわち超伝導は古くから知られていたが、これまではたかだか絶対温度二三度(摂 氏零下二五○度)以下でしか実現できなかった。このような低温を実現するには高価な液体ヘリ ウムを用いる必要があり、実用的には大きな制約があった。ところが、両博士の研究によってラ ンタン・バリウム・銅の酸化物である一種のセラミックスが絶対温度三○〜三五度で超伝導を示 すことが明らかにされたのである。この発見以降、研究・実験に用いられる材料が比較的安価で 入手しやすく、材料を混ぜ合わせた後電気炉で加熱すればセラミックスができるという実験方法 の手軽さもあって、わが国を含む多くの研究者がこのテーマに参入し、超伝導を示し始める温度 (臨界点)を高める競争が開始された。その結果、イットリウム・バリウム・銅から作ったセラ ミックスが有望なことが明らかになり、絶対温度一○○度(摂氏零下一七三度)前後で超伝導を 示すことが確認されるに至った。ここまで「高温」になれば安価な液体窒素で冷やせばよく、多 方面への応用が可能である。そのため、高温超伝導は、世紀の大発見ともてはやされ、半導体に まさる産業革命を引き起こすだろうと期待されているのである。例えば、電力輸送に伴うロスが なくなり、電力を貯蔵することも可能となる、リニアモーターカーが実用化し輸送革命が起こる、 コンピュータの性能を飛躍的に上げることができる、素粒子研究に不可欠な加速器の小型化と性 能の向上が図れる、開発が難航している核融合の実用化のめどがたつ、等々数え上げればきりが ない。
      一九八七年三月、ニューヨークで開かれたアメリカ物理学会の「新高温超伝導材料シンポジ ウム」は、上記のような期待と思惑から多数の参加者を集め、異様な熱気の中で深夜まで報告・ 討論が続いた。ジャーナリズムは、このシンポジウムをかつてのロックフェスティヴァルになぞ らえて「物理学のウッドストック」と呼んだ。わが国では、このシンポジウムに関する報道あた りから、超伝導は物理学者にとどまらず広く一般の話題にのぼり始めた。そして、超伝導をめぐ る論議が次第にフィーバー気味になり、超伝導の素材が安価で実験が比較的容易なことに目をつ けた一部の業者が「超伝導実験セット」を販売し話題を呼ぶというようなこともあった。八月、 その熱気の中で京都で開かれた低温物理学国際会議でも、当然のことながら高温超伝導が焦点と なった。この会議には研究成果に期待を寄せる企業などからの寄付金が予想を越えて集まり、事 務局をとまどわせたというエピソードも伝えられている。しかし、さしもの超伝導フィーバーも この会議をピークに冷却に向かいつつある。というのも、室温で超伝導がみられたなどというよ うな、高温化の先陣争いの中で発表された多くのデータが、田中昭二東大教授の提唱した基準 (電気抵抗ゼロ、マイスナー効果の確認、再現性、安定性という四つの基準)を満たさないもの であることが明らかになったからである。そもそも、現在のところ、この種のセラミックスでな ぜ比較的高温でも超伝導が生じるかというメカニズムが理論的に解明されていないのである。ま た、超伝導を実用化するにはセラミックスの薄膜化や線材化などを実現しなければならないとい う困難な課題も横たわっている。学界も産業界も当面は地道な研究に勤しまねばならないのであ る。科学ジャーナリズムやマスコミによって増幅され、一般の人々まで巻き込んだ超伝導フィー バーは、一九八七年度ノーベル物理学賞が大方の予想通り、セラミックス超伝導の発見者ペドノ ルツ、ミュラーの両博士に授与されたことによって、めでたく第一幕を閉じたといえよう。

    利根川進博士がノーベル医学生理学賞を受賞

      ここ数年来、ノーベル医学生理学賞の有力候補と目されていた利根川進マサチューセッツ工 科大学(MIT)教授は、一九八七年ついにこの賞を射止めた。ノーベル科学賞としては、湯川、 朝永、江崎、福井の四氏についで五人目、医学生理学では初めての受賞であった。利根川博士の 受賞理由は「多様な抗体を作り出す遺伝的原理」である。外界から入ってくる病原菌やウイルス (抗原と総称される)に対して生物が身を守る免疫反応は、抗体というたんぱく質によっている。 利根川博士は、多様な抗原に応じて多くの抗体が作り出されるのは、抗体遺伝子がさまざまに組 み合わさって再構成するためであることを、遺伝子工学の手法を用いて実験的に明らかにしたの である。免疫の複雑な仕組みを解明し、エイズも含めた免疫病の克服に手掛かりを与えた教授の 研究が評価されたのである。
      利根川博士が京都大学の出身であり、前記の四氏もそれぞれ京都大学関係者であったため、 京都大学の自由で創造的な学風を東京大学との比較で強調する向きもある。京大・東大の比較論 それ自体は、近代日本の学問史・学術行政史の観点からみて興味深いテーマの一つであるかもし れないが、利根川博士のキャリアと業績を論評する際には的を射た論議とはいえないだろう。と いうのも、利根川氏は京大理学部化学科を卒業後、もっぱら海外で研鑽を積み、ノーベル賞に至 る研究を行ったからである。すなわち、利根川氏は分子生物学の研究を志してアメリカに渡り、 カリフォルニア大学サンジエゴ校で学位を取得後、同じ町にあるソーク研究所でダルベッコ博士 (ノーベル賞受賞者)のもとで研究し、同博士の推挙でスイスのバーゼル免疫学研究所の研究員 となり、この研究所で受賞対象となる画期的な研究成果を挙げたのである。また、利根川氏は、 現在もMIT教授に留まっている。利根川氏の恩師の一人であり、わが国における分子生物学の 草分けでもある渡辺格氏も指摘するように「(利根川氏の場合は)頭脳流出というより、向こう で頭脳形成した」というべきなのである。利根川氏自身も自らの成功が、バーゼル免疫学研究所 など外国の研究機関における恵まれた研究条件と自由で競争的な雰囲気の中で可能であったこと を強調している。利根川氏がバーゼル免疫学研究所の研究員であった頃、氏は或る日本人スタッ フに「良い仕事をするための三原則」を繰り返し説いたという。すなわち、「一 《重要なこと》 をやろうとする意思、二 自分には他人より優れた何かがある(と信じること)、三 ハードワ ーク−−この三つが揃えば幸運がころがり込む」というのである。幸運という点についていえば、 アメリカの研究者たちが遺伝子工学研究にともなう危険性について論議し、一種の研究自粛の期 間を設けたことがあったが、当時スイスにいた利根川氏はこの申し合わせから自由で、いわばラ イバルたちが休んでいる間に研究を大きく前進させたという事情があった。
      我々はややもすれば「世俗的なものを一切超越し、謙虚に自然を探究する」科学者像を抱き がちである。しかし、この利根川三原則には、ノーベル賞に代表される世俗的な名誉に目標を定 め、ライバルとの競争に打ち勝とうと猛烈に研究に励む現代科学者の思想と行動様式がはっきり とあらわれている。利根川氏は自らの三原則に忠実に従って栄冠を勝ちえたわけである。個人よ りも組織を優先し、強烈な個性の持ち主を排除しがちなわが国の組織−−研究教育機関とて例外 ではない−−の中で、利根川氏が存分にその才能を発揮しえたかどうか、はなはだ心許ない。そ のように考えると、利根川氏のノーベル賞受賞を単純に喜んでばかりはいられない。利根川氏の 受賞を契機に、わが国における各種研究機関の研究条件の一層の改善を図るとともに、我々の科 学者像や研究観を大幅に修正しなければならないのではあるまいか。

    平凡社『1988年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九八八年の科学技術

    日米科学技術協定の調印

      一九八八年六月二○日、トロントでの先進国首脳会談開催中に行われた日米首脳会談で、竹 下首相とレーガン大統領は、本文十章、四附属文書からなる「新日米科学技術研究開発協力協定」 に調印した。一九八○年に大平首相とカーター大統領との間で結ばれた従来の科学技術協定が、 三年越しの交渉のすえ改定されたのである。本来は平和目的をうたっていた日米科学技術協定だ が、新協定では第一条D項に「国内法令(安全保障に関連するものを含む)に合致した情報を可 能な限り広く普及させる」とのいわゆる安全保障条項が加わった。加えて、協定と同時に宇野外 相とシュルツ国務長官との間で交わされた書簡では、アメリカ側の強い要望もあって、「研究の 過程で予期せずに作り出された国防上の秘密情報や機材については公開されない場合もある」と の確認がなされた。また、新協定では後述の知的所有権にも格段の注意が払われ、「研究活動が なされた国にすべての権利と利益を与える」という属地主義的な条文が入っている。
      本協定の改定交渉の大筋が明らかになるにつれて、特に安全保障条項が盛り込まれることが 明らかになった時点で、新協定を危惧する声が、国立の試験研究期間に所属する研究者の団体や 日本学術会議(第一○四総会声明)をはじめ各方面から表明された。日本は平和憲法のもと戦後 一貫して軍事研究には否定的な態度をとり続けてきており、原子力基本法第二条にうたわれた 「民主・自主・公開」の原子力三原則が、日本の科学技術政策全般の基本枠組みともなってきた からであった。しかし、多くの人々の批判にもかかわらず、新協定には安全保障条項が盛り込ま れ、研究成果が秘密扱いになることもあるとの書簡が交換された。その結果、新協定は運用次第 では、日本の科学技術政策に暗い影を落とさないともかいぎらない。というのも、日本はすでに 八六年、アメリカのSDI(戦略防衛構想)に参加することを決定し、平和・民生指向の我が国 の科学技術政策が実質的に転換されつつあるからである。実際、新科学技術協定締結後、八八年 十一月には、SDIの一環である西太平洋地域防衛構想(WESTPAC)に三菱重工業をはじ め日本企業九社が受注したことにより、日本はSDIに本格的に参入した。
      日本の戦後の急速な経済発展と今日の繁栄をもたらした要因の一つが、高度な民生技術の開 発の成功にあったことは衆目の一致するところである。一方、日米貿易摩擦に象徴されるアメリ カの経済力の低下が、アイゼンハワー大統領がその退任演説で懸念した産軍複合体の肥大化に伴 う経済の軍事化に起因していたこともいまや通説となりつつある。だとすれば、SDIに参加し たり、日米科学技術協定に安全保障条項を盛り込んで軍事研究の端緒を開くなどといったことは、 日本の科学技術政策の基本枠組みの変更を意味することになりかねず、歴史の教訓を無視した行 為といわねばなるまい。むしろ、SDIの無効性を指摘し、平和的な民生技術を主体とした日本 のいきかたを二一世紀へ向けての経済社会モデルとして世界に提示することが我が国の責務では あるまいか(もっとも、SDIに関してはアメリカ内部でも批判の声が高く、米ソの新たなデタ ント時代の到来もあって、レーガン政権の退陣とともに計画が大幅に縮小される可能性が高いと の見方もある)。ともあれ、科学技術の軍事化への動きに関しては、直接科学技術に携わる研究 者・技術者ばかりでなく、広く一般市民が今後とも監視と批判の目を向けていかねばならない。

    原子力発電をめぐる論争の激化

      原子力発電の是非をめぐる論議は、一九七九年のスリーマイル島原発の事故、八六年のチェ ルノブイリ原発の事故などを契機に、広がりをみせてきた。原発先進国のイギリスとフランスを 除くヨーロッパ諸国ではすでに脱原発の動きが出てきており、例えば八八年六月、スウェーデン 議会は二○一○年までに段階的に原発を廃棄するとの法案を可決した。アメリカでもニューヨー ク州ロング・アイランド島に五三億ドルの巨費をかけて建設されたショーラム原発は、住民の避 難計画が州政府の承認をうけることができないため、実用運転に入ることなく廃棄されることに なった。
      このような動きと並行して、日本でも原発論議は高まりをみせている。とくに一九八七年に 出版された広瀬隆著『危険な話』は原発の危険性を論じ、この種の本としては例外的に多くの読 者を獲得しベストセラーとなった。この本の反原発運動に及ぼした影響力の大きさから、一部の マスコミでは「ヒロセタカシ現象」なる表現も用いられたほどである。反原発運動の高まりは、 その反動として原発推進側の危機意識を深めさせた。その結果、日本原子力文化振興財団は八八 年七月に『危険な話の誤り』を、九月には『危険な話の誤り パート二』というパンフレットを 出して積極的に反論に乗り出したし、いくつかの雑誌にも同趣旨の広瀬批判が掲載され、多くの 波紋を呼び起こした。各電力会社は原発の必要性と安全性に関するPRをこれまで以上に大々的 に展開した。原子力委員会も『原子力白書』(一九八八年十二月)でチェルノブイリ事故に伴う 食品汚染問題や四国電力の出力調整試験をめぐって反原発運動を強く非難し、今後も原発を推進 することを強調した。また本来は原発の監視役であるべき原子力安全委員会までが『原子力安全 白書』(一九八八年十月)で、日本の原発は安全であることを強調し、反原発運動の高まりに懸 念を示した。
      現在、原発は日本の総発電量の三割を占めている。原発推進派は、この既成事実と、日本の 原発が過去にスリーマイル・アイランドやチェルノブイリのような「過酷事故」を起こしたこと がないことを原発の必要性と安全性の主たる論拠としている。しかし、原発推進側の積極的な反 論攻勢にもかかわらず、各種の世論調査は原発反対へとはっきり傾いている。例えば、一九七八 年からなされている朝日新聞社の原発に関する全国調査では、八六年八月の調査で原発推進に対 する反対派が推進派を初めて上回り、八八年九月の調査では、五○歳代の男性を唯一の例外とし て、男女各年齢層で反対派が賛成派を上回った。また一九八七年三月になされた総理府の「科学 技術と社会に関する世論調査」でも、原発の建設については「政府の既成を従来より厳しくすべ きだ」との意見が半数を超えており、多くの人々が原発建設の立地や安全審査に関して、現在の システムに不安を抱いていることを示している。
      技術の進歩には後戻りのきかない非可逆性がつきまとうとの所見(アメリカの文明史家D・ ブアスティン)に従えば、脱原発はありえないということになるが、技術の進歩の非可逆性に関 しては、歴史上例外がないわけではない。例えば、日本の戦国時代にヨーロッパから導入され、 戦国武将の盛衰に大きな役割を果たした鉄砲が、徳川幕藩体制のもとで厳しく禁止され、鉄砲技 術は実質的に失われてしまった。この史実は、徳川幕府による封建的支配についての歴史的評価 とは別に、技術の進歩の非可逆性に対する有力な反証となろう。ともあれ、一九八○年代から、 九○年代にかけては、二一世紀に向けて、脱原発が進むか、化石燃料の枯渇に対処する切り札と して原発がいっそう推進されるかの、厳しい選択を迫られている時代であるといえよう。

    知的所有権をめぐる諸問題

      経験的な科学知識の有用性を説いた十七世紀の哲学者F・ベーコンが主張したように、科学 的発見や技術的発明は、本来、人類全体の福祉に供せらるべき共有財産である。そのため、とく に科学上の発見については、エポニミー(「ニュートン力学」などというように特定の人物の名 前を冠した言い方)や各種の賞の授与など名誉的・象徴的な褒賞によってその功績を確認される にすぎず、科学者が直接経済的な報酬を受けることはめったになかった。アメリカの科学社会学 者R・K・マートンが科学に固有のエトス(倫理規範)として「公有制(コンミュニズム)−− 科学知識は公有されねばならない」を挙げたゆえんである。その一方、有用な技術の発明者は、 社会的名誉ばかりでなく、しばしば経済的な利益を獲得した。十八−十九世紀を通じての産業・ 工業の発展は、これら進取の気性に富んだ発明家たちの活躍によるところが大きかった。さらに 十九世紀後半になると科学と技術の結びつきが次第に深くなり、化学染料の開発などの例にもみ られるように、「目標指向的な研究開発」が始まった。同時に、国家間・企業間の競争も激しく なってきた。そこで研究開発の成果を知的所有権として尊重し、紛争をあらかじめ回避すると同 時に、研究開発のインセンティヴ(動機付け)を強めるために、欧米諸国では特許権・工業所有 権が法制化された。こうして一八八三年、「工業所有権の保護に関するパリ条約」が締結された。 一方、一八八六年、スイスのベルンで「文学及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」が締 結された。日本は、近代国家建設の一環としてパリ条約とベルヌ条約に一八八九年に加入した。 現在は、パリ条約とベルヌ条約を統合するかたちで国連の専門機関の一つとして「世界知的所有 権機関」(WIPO)が置かれており、日本も一九七五年にこれに加盟している。コンピュータ のソフトウェアを含めて知的生産物は、人類全体の共有財産としての性格を有するとともに、そ の創造者に対しては努力と投資に見合う社会的・経済的褒賞を付与せねばならず、その意味では 私的財産としての側面をあわせもっているところに基本的な矛盾があり、つねに紛争発生の可能 性をはらんでいる。
      実際、日米貿易摩擦の激化に伴って、知的所有権をめぐる紛争が頻発している。その象徴と もいうべき事件は、コンピュータ界の巨人で青い社章にちなんで「ビッグブルー」というニック ネームをもつIBMと、日本のコンピュータメーカーの最大手富士通との著作権紛争であった。 (コンピュータ・ソフトウェアを特許・工業所有権とみなすか、著作物として著作権で保護すべ きかについては議論のあるところであるが、アメリカでは著作権法を適用している。)この紛争 について、一九八八年十一月、アメリカ国際商事仲裁協会(AAA)は次のような裁定を下した。 すなわち、1.富士通はIBMの知的所有権を尊重し、和解金として三億九五九三万ドル(現行為 替レートで約四八三億円)支払うこと(一九八七年以前と今回の一括支払い額の合計は八億三三 二五万ドル、約一千億円)、2.IBMは富士通に対して基本ソフトウェア情報を、一定の制限の もとで、今後十年間にわたって提供する、というのが最終和解案の内容であった。すでに一九八 七年九月、「有償・期限付き」という条件でのAAAの仲裁命令が出されていたわけだが、この たび具体的な内容がまとまったわけである。IBMと富士通の紛争は、単に二つのコンピュータ ・メーカー間の紛争というだけでなく、先端技術をめぐる日米両国の主導権争いの象徴的な様相 を呈していたが、最終的には、富士通機をはじめとするIBM互換機ユーザーの利害を重視した 妥当な線で決着がついたといえよう。
      IBM対富士通の紛争は前記のようなかたちで一応の決着をみたものの、一九八八年八月、 アメリカで包括貿易法案が成立したことによって、知的所有権をめぐる日米間の紛争は今後いっ そう激化するものと憂慮されている。というのも、この新貿易法の成立によって改正された関税 法三三七条によれば、アメリカ企業の特許権や著作権を侵害する商品の輸入規制が、裁判の手続 きを経ることなく可能となるからである。すなわち、アメリカの企業は、政府機関である国際貿 易委員会(ITC)に提訴し、ITCの判断で輸入差し止めができるようになった。しかも、提 訴した企業は知的所有権侵害の事実や産業的被害の立証の必要がなく、ITCが仮排除命令を出 すまでの期間も従来の約七カ月から九○日に短縮された。この新貿易法は自由貿易を大原則とす るGATTに違反しているとの批判もあるが、コンピュータ、エレクトロニクス、バイオテクノ ロジーなど各種先端技術の基本特許を有するものの、大量生産技術に関しては日本企業はもちろ ん、NIES諸国の激しい追い上げにあっているアメリカ企業にとって、巻き返しのための強力 な武器となることは間違いない。また、EC諸国もアメリカにならって知的所有権の確保にいっ そう努力する可能性が高い。日本としては、独自技術の開発にこれまで以上の努力を払うと同時 に、知的所有権の国際的なルールづくりに欧米先進国と発展途上国の間に立って、積極的な役割 を果たさねばならないだろう。

    平凡社『1989年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九八九年の科学技術

    常温核融合

      イギリスの経済紙『フィナンシャル・タイムズ』の一九八九年三月二三日付の記事が常温核 融合フィーバーの発端であった。M・フライシュマン教授(イギリス、サザンプトン大学)とS ・ポンス教授(アメリカ、ユタ大学)が、試験管内での核融合に成功したというスクープである。 両教授は水素吸収金属であるパラジウムを陰極に、プラチナを陽極に用い、重水を電気分解した ところ、重水中の重水素が大量にパラジウム電極に吸収され、この重水素が核融合を起こしたと いうのである。両教授は早速記者会見してこの報道を確認した。また、その研究成果は電気化学 の専門誌『エレクトロアナリティカル・ケミストリイ』、第二六一 巻(一九八九 年)、三○一− 三○八頁に発表された。これと時を同じくして、ブリガムヤング大学(アメリカ)のS・ジョー ンズ教授も同様の装置で常温核融合を観測し、その研究成果を科学雑誌『ネイチャー』の一九八 九年四月二七日号に発表した。その後明らかになった事実によれば、フライシュマン−ポンス・ グループとジョーンズ・グループは互いに同じ様な研究をしていることを八八年の秋以来互いに 知っており、それぞれの論文を三月二四日付で『ネイチャー』誌に同時投稿する約束をしていた。 これは科学の歴史にしばしば見られる同時発見(別々の研究者が独立にほぼ同様の発見をするこ と)の典型的な事例といえよう。ところが、フライシュマン−ポンス側が別の雑誌に投稿するな どして、経済紙『フィナンシャル・タイムズ』によるスクープという衝撃的な展開となったので あった。かくて、同時投稿によって互いのプライオリティ(先取権)を尊重しようとの紳士協定 は、一方の側の功名心から破綻したわけである。それというのも、科学の世界では何よりも一番 乗りが重視され、それに対してのみノーベル賞に代表される報奨(リウォード)が与えられるか らである。逆に、二番手、三番手にはほとんど何の報奨も与えられないばかりか、下手をすると 模倣者・剽窃者の烙印さえ押されかねない。このような事情があるために、今回のような「生き 馬の目を抜く」行動もでてくるのであり、フライシュマン−ポンス・グループの明らかにアンフ ェアな行動も科学界では珍しいことではない。
      ところで、なぜこの研究成果が経済紙のスクープ対象となり、二年前の超伝導フィーバーに も匹敵する話題となったのだろうか。その背景としては、すでに三○年以上の歴史を有する核融 合研究のいきづまりという事情がある。長年、エネルギー問題の切り札と喧伝されてきた核融合 研究には、これまで他の科学技術プロジェクトとは桁違いの巨額の研究費が注ぎこまれてきたし、 大学共同利用機関として八九年五月に核融合科学研究所(名古屋市)が新たに設置されるなど現 在も格段の努力が払われている。それにもかかわらず、我が国はもとより諸外国でも核融合発電 実用化のめどは一向に立っていない。核融合にかかわる研究者によって、しばしば「画期的な」 研究成果の発表がなされてきたのだが、その一方で「実用化までに三○年はかかるだろう」とい う困難な状況は、核融合研究開始当初から全く変化していないとさえいえるのである。それどこ ろか、当初は「クリーンで無尽蔵なエネルギー源」という夢のようなキャッチフレーズで登場し た核融合が、研究が進むにつれて、実際には決してクリーンでも無尽蔵でもないことがはっきり してきた。核融合発電は実現がおぼつかないばかりか、たとえ実現しても、現在の(核分裂を用 いた)原子力発電以上に危険で取扱の困難な代物になりそうなのである。そのような状況のなか で、今回の研究成果は、核融合研究に全く別の道を開くのではないかとの期待を抱かせたのであ った。かくて、スクープ記事以降、両グループの正式の論文が印刷刊行される前から論文原稿の コピーが世界中の科学者の間に出回るなど大騒ぎとなったわけである。
      当然にも、フライシュマン−ポンス・グループおよびジョーンズ・グループの研究成果は詳 しく検討された。同時に多くの研究者による追試がなされた。その結果、我が国の研究者も含め ていくつかのグループは、パラジウム電極表面でごく小規模の核融合が起こっていると報告した。 しかし、フライシュマン−ポンス・グループが報告しているような大量の中性子放出や熱発生は みられなかった。また、この大騒ぎのなかでフライシュマン−ポンス・グループは『ネイチャー』 誌に投稿していた論文を取り下げ、その研究の信頼性に疑問を抱かせた。そのため、常温核融合 は、その真偽についてはともかく、エネルギー源としての可能性については悲観的な見方が一般 的となった。とはいえ、十一 月末には名古屋大学と大阪大学のグループがそれぞれに工夫をこ らした装置で大量の中性子を発生させることに成功しており、新たな展開の可能性がないわけで はない。ともあれ、今回の常温核融合フィーバーが、 際限のない巨大化・高度化を目指してき た従来の核融合研究のありかたに対する見直しのきっかけになったといえよう。 また科学研究 の最前線では, 報奨をめぐって「仁義なき」競争がなされていること、その結果、実験結果の再 現性・信頼性の乏しい段階でも急いで論文が書かれていることなど、科学界の内部では周知の事 実が世間一般に広く知られたことの意味は大きいといえよう。

    ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム

      「日本は欧米の基礎研究の成果にタダ乗りして応用研究ばかりやっている」という批判にこ たえようと構想された国際的な基礎研究計画「ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログ ラム(以下HFSPと略記)」が一九八九年に発足した。この計画は、八七年のベネチア・サミ ットで日本政府が提唱したものであるが、元来は中曽根元首相の私的諮問機関「国際協調のため の経済構造調整研究会」が八六年春に提出した、いわゆる「前川リポート」の提言を受けたもの である。また、昭和五五(一九八○)年版の『科学技術白書』でうたわれた「国際的なバーゲニ ングパワーとしての自主技術の開発=科学技術立国の推進」にそくした施策でもある。その意味 でHFSPは、外交政策と科学技術政策の両面をもったプロジェクトだといえよう。サミットの 後、フィージビリティ・スタディ委員会や国際科学者委員会の検討を経て、八九年六・七月の関 係国行政官会議により実施の枠組みが決定され、十一月二○日にはフランスのストラスブール市 でHFSP推進機構の第一回評議員会が開催された。恒久的な事務局はストラスブール市におか れ、事務総長には日本人以外の科学者があてられることになっている。
      HFSP推進機構は我が国が音頭をとって誕生した初めての国際機関であるという点で注目 される。科学技術庁内に置かれたHFSP推進機構設立準備室が作成した資料によれば、HFS Pの目的は「生体のもつ精妙かつ複雑な機能の解明を中心とする基礎研究を国際的に共同して推 進し、その成果を広く人類全体の利益に供し……創造的、独創的な研究を推進する上で重要な役 割を果たすことが期待される若手研究者の国際的、学際的な研究を奨励」することにある。また 当面の研究対象分野としては、一 脳機能の解明、二 生体機能の分子論的アプローチによる解 明とされている。具体的な活動としては、研究補助金の交付や長・短期のフェローシップ、ワー クショップなどが予定されている。これらの事業を行うために、日本政府は初年度拠出金として 二四億円を計上している。HFSPは、当面その規模も小さく、外交戦略としての側面ももって いる以上、そこから直接画期的な研究成果が出てくるとは思えないが、アメリカのSDI(スタ ーウォーズ計画)や、フランスが提唱している欧州先端技術共同体構想(ユーレカ計画)などと くらべて、平和的で協調的な国際研究計画として評価することができよう。

    地球環境問題

      一九八九年には、三月にロンドンで開催された「オゾン層保護に関する閣僚級会議」をかわ きりに、たて続けに「地球環境」を主題にした国際会議が開催された。また七月のアルシュ・サ ミットや九月の第四四回国連総会でも「環境」が大きな比重を占めた。我が国でも九月には日本 政府と国連環境計画(UNEP) の共催で「地球環境保全に関する東京会議」が開催された。こ れら一連の会議では、 オゾン層破壊の原因とされる特定フロンの全廃、温暖化を抑制するため に二酸化炭素の排出規制、熱帯林の保護、酸性雨(霧)対策、砂漠化の阻止などが熱っぽく論議 された。このような動きを受けて、マスコミでも毎日のように環境問題が報道された−−新聞で は、環境問題が社説で何度も取り上げられ、各種の特集記事が掲載されたし、テレビでも多くの 特集番組が放映された。科学界でも一九七四年にフロンガスによるオゾン層の破壊を警告してい たF・S・ローランド教授(アメリカ、カリフォルニア大学)に日本国際賞が授与されたり、南 極上空のオゾン減少の第一発見者として気象庁気象研究所の忠鉢繁氏の研究があらためてスポッ トライトを浴びたりした。また数年前まで低調をかこっていた「環境」にかかわる研究分野全般 が、社会的な注目を集めるに至っている−−現代の科学研究が一般社会の利害や価値といかに深 く結びついているかを如実に示している。
      このような「環境フィーバー」は、一九六○年代末から七○年代にかけての公害・環境問題 の盛り上がりを髣髴とさせるが、前回と今回とでは大きな違いもある。前回は、被害者と加害者 がはっきりしており、加害者と認定された企業や行政が非難・告発の対象になった。しかし今回 は「地球環境」ということで問題の規模が大きくなり加害者・被害者の関係がそれほど明確では ない。そのため、東西冷戦の緩和という状況の中で、先進国の政治リーダーたちは、国際政治の イニシアティヴをめぐるさまざまな政治的な思惑から(にわかに)環境保護を説くようになった。 環境は政治的威信や票になりそうなのである。また、フロン代替品の開発など環境はビジネスと しても有望になってきた。かくて行政も企業もジャーナリズムも一般市民も、声をあわせて「地 球環境の保護」を訴えるという構図になっている。とはいえ、これら先進国と経済開発を至上課 題にしている開発途上国との利害の不一致は覆いがたく、国際会議では南北問題が大きな課題に なっている。そのため国連総会では「持続可能な開発」という表現が採用されたし、一九九二年 に開催が予定されている第二回国連人間環境会議は「環境開発会議」と改称された。前回の環境 論議は石油危機の勃発で吹き飛んでしまったが、今回もその轍を踏まないためには南北問題解決 に向けての方策が、すなわち南北の経済的・政治的枠組みの抜本的見直しが不可欠であろう。

    平凡社『1990年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九○年の科学技術

    研究開発費政府負担GNP一%論と巨大加速器SSCへの協力問題

      我が国の研究開発費は、全体としてみると順調に増加しており、一九八九年度については総 額で一二兆円に、対GNP比で三%にそれぞれ近づきつつある。しかし、全体を押し上げている のはもっぱら民間企業による活発な研究投資によるもので、研究開発費に占める政府負担の割合 は漸減傾向にあり、ついに二○%を割り込むにいたった。実際、国立大学の教員に配分される経 常的な研究費は、過去一○年にわたって実質的にかなり減少している。このような状況は、我が 国における研究開発が応用・実用的な研究に重点がおかれ、基礎研究が手薄だという内外からの 批判を裏付ける結果となっている。また、このような予算面からの制約が、国・公立の研究・教 育機関における優秀な人材の確保を困難にし、中・長期的にみて我が国の研究・教育体制全体に 大きな足枷となりかねない。そこで、科学技術庁を中心にして、二一世紀早々には、現在は対G NP比で○・五 %にとどまっている政府の研究投資予算を一%まで引き上げようとの論議が高 まってきた。これを実現するには、科学技術予算を毎年一○%伸ばさねばならないわけで、実現 は容易ではなかろう。とはいえ、政府の研究投資GNP一%という目標は、人材の育成・確保の 面からも、また、現在、我が国に期待・要請されている基礎科学部門での国際的貢献という意味 でも、科技庁や文部省など関係省庁はもとより、研究者・大学人が先頭に立って国民的合意をと りつけねばならない目標といえよう。もっとも、研究というものは単に投資額を増大すれば活発 になり、成果があがるというものではなく、研究者の創意や熱意を引き出す様々な制度的な手直 しも同時に進められねばなるまい。
      このような論議のさなかに、登場したのがアメリカの巨大加速器SSC(Superconducting Super Collider)計画への参加問題、ありていに言えば費用分担問題である。SSCは、一周八 七qの地下トンネルに超伝導磁石を一万個並べて陽子と陽子を互いに加速して衝突させ、極微の 物質構造を探り、同時に宇宙創世の謎にも迫ろうという壮大なプロジェクトである。この計画は 一九八七年、レーガン大統領によってアメリカの次代加速器として承認された。建設場所もテキ サス州ダラス近郊に決定しており、八九年二月にはすでにSSC研究所も発足している。この計 画に要する費用として当初は四四億ドルと見積もられていたが、この種の計画がしばしばそうで あるように、計画の進行につれて予算見積もりは膨らむ一方で、現在は八○億ドル(約一兆二千 億円)以上かかるといわれている。このような事態にたいしてSSCを管轄するアメリカのエネ ルギー省は、支出の上限を五○億ドルと定め、それ以上は国際協力で賄うとの方針をだした。ヨ ーロッパ諸国は、すでにCERN(欧州合同原子核研究機関)を擁して多額の経費を負担してお り、加速器物理学でアメリカとライバル関係にあるので、SSCに協力するはずもない。したが って、アメリカが主要な協力相手と考えているのは「経済大国日本」ということになる。実際、 九○年六月にはエネルギー省のムーア副長官が来日し、関係政府機関に「SSCは日米のグロー バル・パートナーシップの象徴」であるとして計画への参加を呼びかけた。二○億ドル(三千億 円)程度の協力を期待されているとのことであるが、我が国が基礎科学に投じている費用と比較 するまでもなく、破格の金額である。当然、協力の是非をめぐって、物理学者の間で論議が起こ った。この論議は、加速器物理学に代表されるビッグ・サイエンスとそれ以外のスモール・サイ エンスとの関係、さらには科学研究の国際化への対応はいかにあるべきかという、科学政策全般 にかかわる重要な問題点を含んでいるので、容易に決着がつかないと思われる。とはいえ、アメ リカ側の要求も切迫しているので、我が国としても早急に決断−−学問的というよりは、政治的 ・外交的−−を迫られるだろう。

    原子力船「むつ」が提起するもの

      一九七二年に完成した、我が国初の(そしておそらくは最後の)原子力船「むつ」が九○年 三月から四月にかけて原子炉の出力試験を行い、七月には洋上にでた。この間、いくつかのトラ ブル・事故はあったものの、十月には進水以来初めて原子炉出力一○○%を達成した。七四年の 洋上航海で放射線漏れ事故を起こして以来、じつに一六年ぶりのことであった。原子力船「むつ」 開発プロジェクトは、当初の計画以来三○年近くたって、ついに達成されたのである。しかし、 二○年以上も前に設計された旧式の原子炉を積載した「むつ」は実験航海後、原子力船としては 廃船になることがきまっている。これまで、開発に要した費用は一千億円を越え、しかも、その 大半は放射線漏れ事故に伴う、修理費、岸壁使用料、漁業補償などの対策費であるという。誰が 考えても、この開発プロジェクトは失敗であった。「むつ」の失敗から我々は何を学ぶことがで きるだろうか。
      「原子力の平和利用」に対する過大な宣伝と期待、原子力船に対する技術的・社会的評価 (アセスメント)の不十分さは言うまでもない。何よりも痛感されるのは、長年の自民党の一党 支配によってうみだされた政治風土の中で、一旦開始されたプロジェクトを、失敗ないし意義を 失ったものとして、打ち切ったり、軌道修正するのがいかに困難かということである。例えば、 長良川河口堰工事続行の是非についても同様のことが言えるが、「むつ」のような国家プロジェ クトには、膨大な国家予算が注ぎ込まれ、多数の人間が組織的な利害関係をもつ。したがって、 プロジェクトを打ち切ることは、当然にもそれまでの投資や関係者の処遇に対する責任問題を引 き起こす。しかし、一般に組織は、特に我が国の官僚組織は、責任をとることを回避する傾向が 強いので、上から(政治家)の強いリーダーシップが発揮されるか、下から(市民運動)の責任 追求の動きが切迫したものにならない限り、プロジェクトとそれに付随する制度や利害関係は存 続する。「むつ」の場合は、新母港問題などで新たな利害関係(補助金や補償金のばら撒き)を つくり出しさえした。
      「むつ」の失敗は、今後一層重要性を増すであろう科学技術政策について、中・長期的な視 野をもつとともに、社会や科学技術それ自体の変化に即応して政策を修正できる柔軟な政治的・ 社会的システムを早急に構築せねばならないという困難な課題に我々の社会が直面していること を示しているといえよう。

    ファジー家電の大流行とその背景

    「あいまいな」とか「ぼやけた」とかを意味するファジーという言葉が一九九○年度の流行語 となった。ファジーについては、ファジー理論とその応用に関する国際的なワークショップが開 かれるなど、一部のコンピュータ関係者の間では、数年前から話題になっていた。もちろん、一 般の人には馴染みのない世界であり、言葉だった。ところが、家電業界がファジーを組み込んだ (と称する)ビデオカメラ、洗濯機、掃除機などの家電製品を開発し、巧みな宣伝を通じて、消 費者の高級品嗜好をくすぐり、大いに売行きを伸ばした。これにともなって、ファジーという言 葉が流行語となったのである。それにしても、ファジーなどという本来は高度に専門的な言葉が どうして流行語になったのだろうか? 我が国の消費者の「新しいもの、面白いもの好き」を別 にすれば、他ならぬ「あいまいさ」を意味するファジーという言葉が流行語になったということ は、科学技術に対するアンビバレント(両義的)な感情−−科学技術に対する信頼感と疎外感−− が一般市民の間に存在しているという事情を反映しているとみることはできないだろうか。すな わち、一般の人々は、ハイテクやコンピュータ技術の成果に驚異の念を抱く一方で、そのような 技術に脅威をも感じている。この分裂した感情からくる不安感を取り除く言葉として、文字通り あいまいな「ファジー」という言葉が人々の心を捉えたのではあるまいか。そのように考えると、 ファジーの流行は、ハイテク社会・情報化社会の定着を示すというよりも、科学技術の進展に対 する人々の屈折した複雑な反応とみなすべきであろう。

    宇宙物理学者ホーキング博士の来日

      一九九○年九月にイギリスのケンブリッジ大学の物理学者S・W・ホーキング博士が来日し た。東京大学で行われた宇宙論に関する国際会議に出席するのが主な目的だったとのことだが、 一般向けの講演やテレビへの出演など多忙な日程をこなした。一般講演会には多数の聴講が押し かけたし、その講演内容が(広告の形ではあったが)新聞に掲載されたりした。
      一科学者の来日がこれほど注目されたのは、博士の著書『ホーキング宇宙を語る』が我が国 でもすでに出版されてベストセラーになっており、博士が史上最年少でイギリスの王立協会会員 に選出された天才科学者でありながら不幸にも難病に冒されて車椅子の生活を余儀無くされてい るといった事情が広く知られていたからであろう。また、博士の専門である宇宙論が、一般の人 々の関心と共感をあつめた理由であったかもしれない。もちろん、大多数の人々にとって、博士 の学説の内容や意義が理解できるわけがない。それでも、コンピュータによる音声合成装置を通 じて聞こえてくる博士の講演に耳を傾けることは、なにがしか科学の神髄に触れたような気分に 浸り、広大無辺な宇宙のロマンを垣間見る機会になったのであろう。ホーキング博士来日に伴う フィーバーぶりは、このような事情も含めて、一九二九年のA・アインシュタインの来日と、熱 狂的な歓迎に比すことができよう。

    平凡社『1991年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九一年の科学技術

    科学技術番組の当たり年

      科学技術に対する近年の高い関心を反映して、一九九一年には優れた科学番組が数多く放映 された。なかでもNHKの「アインシュタインロマン」と「電子立国日本の自叙伝」は、NHK ならではの企画と出来ばえであった(それぞれ計六回から成るシリーズもの)。
      「アインシュタインロマン」は、アインシュタインという今世紀最大の物理学者の生涯と思 想を軸に、コンピュータ・グラフィックスなど最新の映像技術を駆使して、必ずしも理解が容易 でない相対性理論と量子力学を巧みに解説することに成功していた。同時に、核兵器開発の歴史 にみられるように現代の科学や科学者が決して社会や政治と無関係ではありえないことを強調す るなど、文明論的な考察を展開して、青少年向けの解説番組の域をはるかに越える内容となって いた。
      また「電子立国日本の自叙伝」は、「現代産業のコメ」とも呼ばれ、自動車産業とともに我 が国の主要な輸出産業であり、それ故、例えば日米貿易摩擦の原因ともなっている半導体産業の 歴史と現状を調査・報告したものである。トランジスターやIC(集積回路)がどのようなもの であるかの適切な解説を踏まえて、それらがどのようにして開発され、どのように生産され、ど のように我々の社会や生活を変えてきたのかが、多数の資料やよく工夫された模型、関係者に対 するインタビューなどで多角的に明らかにされ、映像のもつ迫真性、説得力を十二分に活かした 内容となっていた。
      「アインシュタインロマン」は科学を、「電子立国日本の自叙伝」は技術を、また前者は外 国人科学者を、後者は我が国の技術者集団をそれぞれ主人公にしたものであり、両番組の狙いや 想定されている視聴者層は自ずと異なる。しかし、両番組を併せて視聴したものには、現代にお ける科学と技術の密接な結びつき、科学や技術における発見と発明、独創性と模倣の問題などを 考え論じるための恰好の素材が提供されたといえよう。
      一方、民放でも深夜時間帯ではあるが、科学上の基本的な原理や用語を解説する「アインシ ュタイン」というユニークな科学番組が放映され好評を博した。現在、学校教育を別にすれば、 多くの人々は種々のテレビ番組を通じて科学技術とは何かを学んでいるといえよう。単なる科学 技術知識の解説ではなく、また科学技術の関係者による自己宣伝でもない、良質の科学番組の制 作が一層期待される。

    創立百周年を迎えた電総研

      第二次大戦後、アメリカで開発されたトランジスターを我が国に導入するのに尽力した人々 の中に、当時の電気試験所、現在の電子技術総合研究所(電総研)に所属する人々がいたことは 前記「電子立国日本の自叙伝」でも紹介されていたが、この我が国を代表する国立研究所所は、 一九九一年、創立百周年を迎えた。
      一九九一年現在、所員六七八名(うち研究員五四五名)、年間予算約百億円の規模を擁する この研究所は、一八九一(明治二四)年、逓信省電務局に電気試験所として設置された。爾来、 我が国の電気通信および電力事業の基盤整備のために、種々の電気単位の標準の確立と維持、電 気用品の試験・検定に携わってきた。その一方で、無線電話やテレビジョンの開発、超高圧送電 技術の確立など、研究開発にも力を注ぎ、成果をあげてきた。
      第二次大戦後、占領軍の指示のもとに、通信部門が分離独立し、電気試験所はその規模と役 割を限定されて、商工省工業技術庁(後に通産省工業技術院)傘下におかれることになった。
      ちょうど、この頃アメリカではトランジスターが発明され、今日のエレクトロニクス時代の 幕が切って落とされようとしていた。そこで、電気試験所では通信(弱電)部門を切り離された にもかかわらず、電子部を設置するなどして半導体研究に積極的取り組んだ。さらに、独自のリ レー式計算機開発の伝統を踏まえて、コンピュータの開発にも先駆的に着手し、一九五○年代半 ばにはトランジスタを用いたプログラム内蔵式のコンピュータの開発にも成功している。また自 動翻訳機「やまと」の開発や我が国初のICの製作にも成功した。この間、試験検定を扱う部門 を順次分離独立させ、純然たる研究機関としての体制を整備し、通産省による大型研究プロジェ クトの中心的な研究機関となった。一九七○年にはその名称を電子技術総合研究所として名実と もに電子技術の開発研究のメッカとしての体裁を整え、一九八○年には筑波研究学園都市への移 転を完了した。戦前戦後を通じて、電気試験所・電総研における数多くの技術的成果やノウハウ は順次産業界に移植され、今日の「電子立国日本」の基盤つくりに大いに貢献したのであった。
      しかし、欧米の先進技術を摂取し、民間企業を技術指導するという過去の電総研の役割は終 わった。すでに欧米との技術格差は解消し、民間企業の技術開発力も格段に強化されたからであ る。そこで、近年の電総研はその研究を一層基礎的な分野にシフトさせることによって国立研究 所としての独自の存在意義を見出そうとしているが、この方向は他の分野の国公立研究機関の目 指すべき方向を先取りしているといえよう。

    国立大学の危機

      週刊誌『AERA』は「頭脳の棺桶 国立大学」という衝撃的な特集を組んで、主として財 政的な窮乏から国立大学における教育・研究が、惨憺たる状況にあることに警鐘を鳴らした(一 九九一年五月二八日号)。その後、テレビでも同趣旨の報道がなされ、国立大学の危機的状況が 天下周知の事実となった。
      一九八○年代を通じて、国家予算のゼロ・シーリング、さらにはマイナス・シーリングのあ おりを受けて、国立大学に対する財政支出は実質上漸減を続けた。その結果、GNPに占める政 府の高等教育支出は一九八○年度の○・四○%から一九九○年度の○・二八%まで落ち込んだ。 金額でみると、主として国立大学の運営に当てられる国立学校特別会計への繰り入れ金は、一九 八○年度の九、五八六億円から一九九○年度の一兆一、九九七 億円へと増加したにすぎず、物 価指数で換算するとわずかに二・二 %の伸びにすぎない。一九八○年代後半は、国家財政はとも かく、世の中全体はいわゆるバブル景気に酔い痴れていたわけだが、国立大学はカヤの外だった のである。
      その結果、教官あたりの研究費は、一九七○年度から一九九○年度の二○年間に、実質で約 四割も減少してしまった。また、建物や諸設備の更新もままならず、老朽化するにまかされた。 「頭脳の棺桶」と揶揄されるゆえんである。一方で、好景気に支えられた民間の研究機関は、最 新設備と好条件で若手研究者を積極的にリクルートした。かくて、将来を嘱望される若者たちは 大学に見切りをつけて民間に流れ、一流大学であればあるほど大学院(博士課程)の定員を満た すことができないという状況が現出している。折しも、文部省は、一九九一年七月に大学設置基 準を大幅に改正し、一般教育と専門教育の区別を廃するなど、戦後の大学制度の枠組みを抜本的 に変えようと動きだしている。国立大学は、財政と制度の両面から窮地に立たされているといえ よう。

    平凡社『1992年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九二年の科学技術

    ソ連・東欧社会主義圏の解体と科学技術者の行方

      一九八○年代末からソ連・東欧諸国で生じた政治的激動は、ついにソ連を盟主とする社会主 義圏の解体へと至った。かくて第二次世界大戦以後の世界の基本的な対立図式であった東西対立 =米ソ冷戦構造は終焉した。その影響は、きわめて広範かつ深甚であり、当然にも科学技術の世 界にもさまざまな形で影を落としつつある。
      旧ソ連は冷戦構造の下、宇宙開発や核開発など軍事に関連した科学技術の分野では、長年ア メリカと覇を競ってきた。これら軍事分野には、民生分野を顧みることなく、ほとんど無際限に 資金と人材が投入されてきた。もっとも、旧ソ連における先端科学技術の研究開発の実態は、軍 事機密のヴェールに覆われてこれまでほとんど知られていなかった。しかし、ここ数年来の激動 によって、ようやく分厚いヴェールが押し開けられつつある。
      例えば、モスクワの東約四○○qに位置する「アルザマス一六」と呼ばれる核兵器開発・製 造施設がある。この町の建設は一九四六年に始まり、その後冷戦の激化とともに拡充され、人口 は約八万人、うち研究者・技術者は一万人という。町全体が鉄条網で囲われており、町への出入 りは厳しくチェックされている。旧ソ連崩壊までは、隔離と引換えに、住民には特別の扱いがな され、高給と特権が与えられていたという。消費物資の極端な不足が伝えられる現在のロシアで も、アルザマス一六は比較的恵まれた状況にあるという(『朝日新聞』一九九二年三月二二−二 四日付けの記事)。
      十七世紀のイギリスの哲学者F・ベーコンは未完の寓話『ニュー・アトランティス』におい て学者・研究者のユートピアともいうべき「サロモン学院」という構想を提出している。ベーコ ンによれば、「この学院の目的とするところは、事物の諸原因と密かな運動に関する知識であり、 人間帝国の領域を拡大して、可能なあらゆることを成就するにある」とされている。十七世紀半 ば、ロンドンで結成されたロイヤル・ソサエティを始めとする多くの科学者のための学会やアカ デミーは、ベーコンの夢を具体化するための組織であった。また一九世紀末以後、国家や企業が 設立した多数の研究所は、「サロモン学院」が目指したものを目指し、多くの夢を実現してきた。 その結果、現代社会にあっては科学技術は不可欠の存在とみなされるようになったし、科学者・ 技術者にも尊敬が払われるようになった。それどころか、アルザマス一六では、科学者・技術者 は、特別の才能をもった人々として高給と種々の特権を付与され、研究資金その他に何不自由す ることなく研究開発に専念してきた。その意味で、この町は科学者・技術者にとってのユートピ アであり、まさしくソ連版サロモン学院であったといえよう。旧ソ連には、そして、旧ソ連の軍 事科学技術システムの大半を継承したロシアには、アルザマス一六に似た研究都市が他にもある という。
      しかし、社会から隔離されたユートピアは社会体制そのものが崩壊の危機にさらされたこと によって、一転して逆ユートピアの様相を呈しつつある。すなわち、アルザマス一六の主要な任 務であった核兵器の開発、軍需はもはやその重要性・緊急性を失い、民需への転換が迫られてい るのである。彼らに付与されてきた高給も特権も大幅に目減りしていることはいうまでもない。 その結果、憂慮されているのは、核兵器やミサイル兵器に関する高度な軍事情報・ノウハウをも った科学者・技術者の頭脳流出である。実際、核武装化や軍事技術の高度化のために彼らをヘッ ド・ハンティングすべく狙っている国々があると囁かれている。アルザマス一六の鉄条網は、こ れまでは外部からの侵入を防ぐためにあったのだろうが、現在は、科学者・技術者が外部へ流出 するのを阻止するためにはりめぐらされているかに見える。
      ともあれ、アメリカ、EC、日本、ロシアの間で進められている旧ソ連の核技術者の国外流 出を防ぐことを目的とした「国際科学技術センター」構想も含めて、軍事技術の拡散を抑えると ともに、旧ソ連の軍事に偏した科学技術を民需に適したものに転換することが緊急の課題といえ よう。このような転換によってのみ、旧ソ連諸国の社会的・経済的立ち直りが可能であろうし、 世界全体の軍事的緊張の一層の緩和をはかることもできるからである。この点、第二次世界大戦 の敗戦国として、平和憲法を擁し、戦前の軍事偏重の科学技術を脱して民生中心の科学技術の育 成に努め、その結果今日の繁栄を築いた我が国が果たすべき役割は大きいといえよう。

    プルトニウムと「あかつき丸」の航路

      一つの元素名がこれほど新聞やテレビを賑わし、人々の口の端にのぼったことはかつてなか ったのではあるまいか。その元素とはプルトニウムである。原子炉で天然ウランの主成分ウラン 238を「燃やす(中性子を吸収させる)」と、プルトニウム239が発生する。プルトニウム は極微量でも発ガン作用をもっており、このうえなく危険な物質であると同時に、プルトニウム 239は核燃料にもなり、核爆弾の材料にもなる。そのため、ある人々からは、「人類と共存で きない危険な人工元素」と糾弾される一方で、別な人々からは「ウラン資源の不足を補う夢の物 質」と期待されてきた。
      そのプルトニウムが今回大きな話題になったのは、我が国の委託によって、フランスのラア ーグ再処理工場で使用済みの核燃料から抽出された大量の(約一トン)プルトニウムが取り決め にしたがって、我が国に返還されることになったからである。護衛船しきしまを伴ったプルトニ ウム輸送船あかつき丸は、十一月七日にフランスのシェルブール港を出て、我が国へ向かったが、 万が一の「核ジャック」を懸念する政府は輸送経路を明らかしなかった。これに対して、世界的 な広がりをもつ環境保護団体グリーンピースは、事前に関係諸国に注意を喚起するとともに、あ かつき丸を追尾し、その航路を公表するという作戦を展開した。
      我が国へのプルトニウム輸送に対するグリーンピースの激しい抗議行動の背景には、原子力 先進諸国におけるプルトニウム離れが進む中で、我が国のプルトニウム利用計画だけが突出して いるという状況がある。すなわち、アメリカはカーター政権時代にいち早く高速増殖炉(燃料の プルトニウムを燃やす一方でウラン238をプルトニウム239に変えて、もとの燃料よりも多 くのプルトニウムを取り出す原子炉) の開発を断念している。またドイツも完成済みの高速増殖 炉実験炉の運転を断念し、技術的には最も進んでいるとみられていたフランスの高速増殖炉「ス ーパーフェニックス」も相次ぐトラブルに見舞われ、挫折を余儀なくされている。我が国は、こ のような海外の状況の変化にとらわれることなく、高速増殖炉「もんじゅ」の運転を向けて作業 を進めており、その燃料としてフランスからプルトニウムを輸送しているわけである。しかし、 ソ連の解体もあって、ウラン燃料の安値が当分続くとの予想がなされ、核燃料としてのプルトニ ウムの経済性がなくなった現在、我が国のプルトニウム利用計画は、抜本的な見直しが必要であ ろう。

    平凡社『1993年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九三年の科学技術

    SSC建設の中止とビッグ・サイエンスの見直し

      アメリカのテキサス州ダラスに建設中の超伝導超大型粒子加速器(Superconducting Super Collider, 以下SSCと略記)は、クリントン政権誕生後、財政難から見直しの対象になってい たが、一九九三年一○月ついに建設中止の決定が下された。SSCは、宇宙誕生後間もなくあら われて物質に質量を付与したとされる「ヒッグス粒子」を捉え、物質の究極の姿に迫ることを目 的として、レーガン政権時代に構想された。ブッシュ政権時代に建設が始まり、すでに当初予算 の四分の一の二○億ドルが投入され、全体の二○パーセントが完成していた。完成すれば全周八 七キロに達する世界最大の加速器になるはずだった。
      SSCプロジェクトとその挫折は、現代の科学研究の特質と問題点を如実に示している。す なわち、ビッグ・サイエンス、さらにはメガ・サイエンスう言い方もされるように、科学研究は 今世紀を通じて巨大化の一途を辿ってきたが、それが限界に近づきつつあるということである。 SSCの場合、構想段階では建設に要する総費用は四四億ドルと見積もられていたが、計画発足 時には八二億ドル(約一兆円)に増大していた。完成までに一三○億ドル以上もかかるのではな いかとの予測も一部にあった。そのため、アメリカ一国だけでは費用を賄えないとして、日本を 含む諸外国に協力の要請がなされた。国家による基礎科学への巨額の投資は、文化人類学でいう 「ポトラッチ」(気前のよさを示すためになされる財の交換や浪費)になぞらえられることがあ るが、SSCはポトラッチの域を越えてしまったのである。
      我が国に対しては日米首脳会談などを通じて、一六億ドル(約二千億円)の資金協力の要請 があり、日本政府はその対応に苦慮していた。また、要請されている二千億円という金額が文部 省による科学研究費の数年分にも相当するということもあって、我が国の科学界でも、協力の是 非をめぐって議論が二分されていた。今回の中止決定によって、具体的な資金協力に踏み切って いなかった我が国は、いわば無傷でことなきをえたわけである。それはともかく、SSCは、科 学の巨大化が研究プロジェクトの国際化を促し、その結果、一国の科学政策が他国の科学政策に も多大の影響を及ぼすという、恰好の事例となっている。
      同様の事情は、アメリカの国防総省による戦略防衛構想(SDI)や航空宇宙局(NASA) の有人宇宙基地「フリーダム」計画についてもいえる。SDI(スターウォーズ計画)は、レー ガン政権時代に「悪の帝国」ソ連の核戦力を封じ込めるためのミサイル迎撃システムとして構想 された。SDIは一九八三年に発足し、我が国を含む諸外国の協力を得ながら、三○○億ドルに ものぼる資金を投入して、各種の迎撃システムの開発研究がなされた。しかし、何一つ完成品を 生み出すことがないまま、SSCと同様、クリントン政権によって一九九三年五月、終止符が打 たれた。また、宇宙基地フリーダムについては、我が国も実験棟の一部の建設を分担することに なっているが、新政権のもとで計画の大幅な見直しを余儀なくされ、その規模を縮小して辛うじ て存続することになった(当初計画では三○○億ドル以上だったが二五五億ドルに縮小)。しか し、今後のアメリカの財政状態によっては予断を許さない。
      素粒子物理学という最も基礎的な分野を代表するSSCとは違って、SDIは純粋に軍事研 究であり、宇宙基地計画も多分に軍事的な側面を含んでいる。その意味では上記三つのプロジェ クトを同列に論ずることはできない。しかし、現代の巨大科学技術プロジェクトの規模が、前述 したようにポトラッチの域を越えたものになり、たとえ多国間で費用を分担しても納税者の負担 に耐えかねるものになりつつあるといえるのではなかろうか。さらに、「ヒッグス粒子」なるも のの探究に果して一兆円もの費用を投ずる価値があるのか、三兆円もする宇宙基地を作って一体 何をするのかといった素朴な疑問に科学者たちは十分に答えているとはいえない。また、SDI については、ソ連がこれに対抗しようとして多大の軍事費をつぎ込み、その結果、ソ連の崩壊が 早まったのだから「SDIは成功した」と強弁する向きもあるとはいえ、構想当初から到底実現 の見込みがないとの指摘がなされ、案の定多大の費用と人材を空費したにすぎないプロジェクト を立案、推進した科学者たちに対する一般市民の不信の念は根深いものがあろう。

    ヒトゲノム解析計画の進展と遺伝子治療の可能性

      一九五三年、J・ワトソンとF・クリックによって生命の遺伝情報を担う高分子DNA(デ オキシリボ核酸)の二重ラセン構造が明らかにされて以来、生物・生命現象を分子レベルで研究 する分子生物学が急速に発展し、我々の生命観・生物観に強い衝撃を与えてきた。また、その成 果を医療などに利用する遺伝子工学も多くの成果を生み出してきた。一九九三年に公開され、我 が国でも多くの観客を動員したSF映画「ジュラシック・パーク」には、遺伝子工学を用いて作 ったとされる恐竜のクローン(親と遺伝的に同じ個体)が多数登場し、観客を圧倒した。「ジュ ラシック・パーク」は恐竜ブームを踏まえたSFにすぎないとはいえ、観客に現代の生命科学が どのような可能性をもっているかをドラマチックに示してくれている。
      多くの人々が「ジュラシック・パーク」を楽しみ、多少なりとも遺伝子工学などに関心をも つようになった時期を見計らったかのように、一九九三年十一月、「国際ヒト・ゲノム会議九三」 が神戸市で開催された。この会議には国際的な研究プロジェクト「ヒト・ゲノム解析計画」に携 わっている六五○人にものぼる内外の研究者が参集した。「ヒト・ゲノム解析計画」とは、二○ ○五年を目標に、ヒトの細胞核中の染色体に畳み込まれた全DNA(ゲノム)を解読することに よって、ヒトの全遺伝子の構造を解明しようとする壮大なプロジェクトである。
      約一○万個と見積もられているヒトの全遺伝子の構造を解析するという作業は膨大なもので あり、現在は一ないし二パーセントが解明されているにすぎない。しかし、「ヒト・ゲノム解析 計画」を通じてヒトの全遺伝子構造が解明されれば、ガンを含む多くの遺伝病の予防や治療に役 立つだけでなく、生物の進化の仕組みなどについて画期的な知見が得られるものと期待されてい る。実際、一九九三年三月には遺伝性の難病ハンチントン舞踏病の原因遺伝子が突き止められた との報告がなされたし、女性の大敵である家族性乳ガンの抑制遺伝子の発見も間近いとされてい る。
      このようにして、「ヒト・ゲノム解析計画」の完成を待つまでもなく、すでに多くの成果が 上がっているわけだが、遺伝病に対する遺伝子診断が可能になり、遺伝子治療が試みられるよう になるにつれて(我が国でも一九九四年から臨床応用が開始される)、深刻な問題も生じつつあ る。すなわち、遺伝子診断によって遺伝病の可能性があると判定された場合に生ずる様々な不利 益ないし差別や偏見である(結婚や就職が困難になり、保険加入が拒否されるなど)。科学技術 の発達がもたらす負の側面がここにもみられるわけで、こういった問題に対する社会的・法的な 整備を急がねばならないだろう。

    平凡社『1994年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九四年の科学技術

    トップクオークの発見

      一九九四年四月、アメリカのフェルミ国立加速器研究所の巨大加速器テバトロン(周囲の長 さ六・三キロメートル)を用いた実験によって、理論的に予言されながらその存在が確認されて いなかった素粒子「トップクオーク」が発見されたとの報道がなされた。当初、Eメール(パソ コン通信網)で物理学者たちの間に情報が流され、四月二六日、国際共同実験グループによる正 式発表に至った。一般紙でも、例えば「朝日新聞」は、いち早く四月二四日付けの朝刊トップで このニュースを伝えた。
      今回の発見を行った国際共同実験グループはCDF(Collider Detector at Fermilab)と呼 ばれ、アメリカ、日本、イタリアを中心とした研究者四百人以上から成っている。アメリカの物 理学会誌『フィジカル・レビュー』に投稿・掲載されたトップクオーク発見に関する論文には三 八五人の名前が連ねられている(Physical Review D, Vol.50(5), pp.2966-3026) 。CDFは、 テバトロンでそれぞれ九○○GeV(ギガ電子ボルト)に加速した陽子と反陽子を衝突させて巨 大なエネルギーを作りだし、トップクオークを生成させた。一九九二〜九三年にかけて約一兆回 の衝突を行わせ、実験結果を解析した結果、トップクオークが発生していると思われる現象例を 一二回見いだしたという。また、これらの現象例からトップクオークの質量を約一七四GeVと 推定している。素粒子物理学における「標準理論(標準模型ともいう)」では六種類のクオーク があるとされているが、今回の発見は、一九七七年、五番目に見つかったボトムクオーク以来、 じつに一七年ぶりの苦労の成果であった。トップクオークの発見の結果、加速器物理学の次のタ ーゲットは「物質に質量を与える粒子」とされるヒッグズ粒子となった。
      クオークが六種類あるとの理論を提唱したのが我が国の物理学者、小林誠、益川敏英の両氏 であったことも含めて、今回の発見を素粒子物理学における大きな成果として慶賀することもで きよう。しかし、今回の発見が、昨年、アメリカでSSC(超伝導超大型粒子加速器)建設計画 が挫折した直後になされたことの意味合いを考えざるをえない。
      新聞報道によれば(「朝日新聞」一九九四年年四月二四日付け)、CDF内部では、発表に 先立って、現有のデータと解析結果から、論文の表題にあるような「トップクオーク生成の証拠」 という強い結論を引き出せるかどうかをめぐって最後まで討論が重ねられたという。というのも、 過去に「トップクオーク発見」と発表されながら、後に確認できず誤りとされた事例もあり、現 象例が限られている今回もその危険性が全くないわけではないからである。CDF内部での激し い論議を反映した結果、当該論文は六一ページにも及ぶ長大なものとなっている。これは『フィ ジカル・レビュー』に掲載された論文としては異例な長さである。もし今回の発見が早とちりと でもなれば、CDFの信用はもとより、フェルミ研究所の名声も失墜するだろう。ひいては素粒 子物理学全体にもダメージを与えかねない。
      このような段階でCDFがあえて発表に踏み切ったのは、トップクオークの「発見」が高エ ネルギー物理学の起死回生の特効薬として、あるいはイメージアップの手段として期待されたと いう側面があったのではあるまいか。じっさい、そのような役割を果たしたのは確かである。前 述したように、我が国では、一般紙も大々的に報道したし、当然のことながら、『ニュートン』、 『パリティ』、『科学朝日』などの科学雑誌でも解説記事が書かれ、どの執筆者も巨大加速器に よるさらなる実験の必要性を訴えて稿を結んでいるからである。
      科学研究の中で、最も基礎的で純粋な分野だとされる素粒子物理学において、その研究成果 発表をめぐって多少なりとも政治的な思惑がみてとれるという事実は、巨額な資金を要し、それ 故国家社会による物心両面のサポートなしには存続しえない現代科学の構造を象徴しているとい えよう。

    「きく6号」の失敗

      宇宙開発事業団の開発したH2ロケットによって、一九九四年八月二八日に打ち上げられた 技術試験衛星「きく6号」は、静止軌道に入ることができなかった。衛星を静止軌道に投入する ための小型エンジン「二液式アポジエンジン」の不調が原因であったという。
      この失敗がなければ、一九九四年は我が国の宇宙開発史上、画期的な年となるはずだった。 二月四日、宇宙開発事業団は、主エンジンの開発に手間取って当初の予定から二年遅れたとはい え、初の純国産大型ロケットH2の打ち上げに成功した。同時に大気圏再突入実験機と試験衛星 の発射にも成功した。続いて、七月にはアメリカのスペースシャトル「コロンビア」に、日本人 女性宇宙飛行士向井千秋さんが乗り組み、一五日にわたって宇宙での科学実験を行い、無事帰還 した。H2の打ち上げ成功は、我が国のロケット技術の確立を内外に誇示するものであり、向井 さんの宇宙飛行は、宇宙へのロマンをかき立て、いわゆる「理科ばなれ」に一定の歯止めをかけ る効果をもったに違いない。
      H2による「きく6号」の打ち上げが、もし首尾よく成功していれば、田中真紀子科学技術 庁長官の派手なパフォーマンスと合わせて、これまでアメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国など 宇宙開発先進国を遠望するしかなかった我が国にも宇宙開発に対する関心が一挙に広がったかも しれない。日本版スペースシャトル「ホープ」に対する関心や期待も高まったであろう。
      しかし、「きく6号」の失敗は、一九九五年一月一五日に行われた文部省宇宙科学研究所に よる回収型衛星「エクスプレス」の失敗とともに、宇宙開発の困難さを強く印象づけるものとな ってしまった。それどころか、我が国における宇宙開発の目的ないしは必然性をめぐる論議を引 き起こしかねない。
      というのも、我が国がとにもかくにも「自主技術」によってH2ロケットの開発に成功した ことは、軍事的な意味合いを含意しているからである。じっさい、諸外国の報道機関はそのよう な危惧を表明しているという。我が国は第二次大戦後、平和憲法を擁して、軍事研究を大々的に 押し進めることは控えてきているが、ロケット技術はそのままミサイル技術に通じている。また、 近年、北朝鮮の核とミサイルをめぐって、我が国のマスコミや有力な政治家たちが神経質な反応 を示し、防衛力の増強を主張する向きもある。これらのことを考え合わせると、H2ロケットに 対する諸外国の危惧があながち杞憂ともいえないのである。
      我が国の宇宙開発関係者たちは、二一世紀における宇宙基地計画に積極的に参加し、一定の 発言権を確保するためにはH2やその後継ロケットの開発、さらには日本版スペースシャトル 「ホープ」の開発は不可欠だとしている。しかし、巨額の研究開発費を要するこれらの計画を、 我が国の納税者に認知してもらい、同時に日本の宇宙開発に潜在的な軍事的脅威を感じている近 隣諸国の理解を得つつ遂行するには、なお一層の努力が必要といえよう。
      同じことは、原子力発電におけるプルトニウムの利用についてもいえる。すなわち、我が国 は既定の方針に基づいて、プルトニウムを積極的に利用しようとしている。しかし、アメリカを はじめ多くの国々がプルトニウムの利用に見切りをつけつつある現状では、容易に核兵器に転用 できるプルトニウムを大量に保持する政策を我が国が堅持していることに対して、諸外国は潜在 的な核武装の脅威を感じ取っているという。
      我が国が、これまでと同じく平和国家を追求するのであれば、宇宙開発にせよプルトニウム の利用せよ、科学技術政策の推進にあたって、古来、科学技術が軍事と深く結びついて発展して きたことを改めて想起せねばならないのである。

    平凡社『1995年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九五年の科学技術

    カルト教団と科学技術者

      オウム真理教と名乗るカルト教団は、ミニ国家を気取って組織されていた。その中で科学技 術省が特に重要な位置を占めていた。実際、オウム教団がしでかした数多くの犯罪には、細菌兵 器や毒ガス・サリンなどの製造から散布に至るまで、医師を含む科学技術者が深く関わっていた ことが明らかになった。これら医師や科学技術者の多くが我が国有数の大学の出身者であったこ とも一層世間を驚かせた。エリート的な科学技術者による凶悪犯罪は、科学技術(者)に対する イメージに少なからぬダメージを与えたといえよう。
      日本学術会議は一九八○年に「科学者憲章」を採択した。憲章は「科学者は、真実を尊重し、 独断を排し、真理に対する純粋にして厳正な精神を堅持するよう努めなければならない」とうた っている。また、科学者が遵守すべき五つの任務のうちに「科学の無視と乱用を警戒し、それら の危険を排除するよう努力する」ことを挙げている。当然のことながら、オウム教団の科学技術 者たちは、科学者憲章とその精神に完全に反している。かれらは当然にも刑法による重い裁きを 受けるだろうが、科学者集団からも永久に追放されるだろう。
      ところで、今回の事件を通じて、科学技術が潜在的にもっている凶悪さがはしなくも露呈し、 多くの人々を憂鬱にさせた。オウム教団の内部では、SFコミックスまがいの教説が信じられ、 教祖によるハルマゲドン(最終戦争)の予言を自作自演するかたちで武器が製造され、サリンが 散布されたという。これに科学技術者たちが全面的に加担したわけである。いかにも特異な事件 のようにみえるが、これと同じような図式は歴史上いくつも存在しているし、現在もなくなった わけではない。
      たとえば、我が国の歴史上、科学技術が最も重要視され、科学技術者が優遇されたのは第二 次大戦中のことであった。皇国史観に基づく八紘一宇(世界を一つの家にする)思想の実現を目 指す「聖戦」を勝利に導くためには科学技術(者)の力が不可欠だったからである。もちろん科 学技術者たちの多くも勇んでこれに協力した。たとえば、先年明らかになったように、戦時中、 我が国の医学者の一部は中国大陸で細菌兵器の開発にいそしみ、生体実験を行っていたのである。
      ハルマゲドンを自作自演しようとしたオウムの科学技術者と八紘一宇を奉じた戦前・戦中の 科学技術者との間に決定的な違いはあるのだろうか? 自らに課された課題の達成にのみ執着し、 政治的・社会的情勢に無頓着で、ややもすれば自閉的になりがちな専門家集団という点では大差 がないのではあるまいか。
      科学者憲章は、その冒頭で「科学は、合理性と実証をむねとして、真理を探求し、また、そ の成果を応用することによって、人間の生活を豊かにする」と宣言し、科学とその応用(技術) がもたらす豊かな可能性をうたっている。しかし、科学技術は、その強力なパワーのゆえに、人 間存在にとっての脅威でもあるという事実に目をそむけてはならないことを今回のオウム事件は 最も醜悪なかたちで示したといえよう。

    高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故

      一九九五年二月に起動試験を開始した動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖炉「も んじゅ」は、十二月八日、ナトリウム漏洩事故を引き起こした。
      高速増殖炉とは、燃料にプルトニウムを用いる原子炉で、炉心の周囲に置いたウラン238 に中性子を吸収させ、燃やした量以上のプルトニウムを生成(増殖)することを目指す。そのた めかつては「夢の原子炉」などと呼ばれた。現在も我が国の核燃料サイクル、特にプルトニウム 利用計画の根幹に位置づけられている。開発には、実験炉、原型炉、実証炉、商業炉の四段階が あり、「もんじゅ」は第二段階の原型炉にあたる。
      高速増殖炉は、通常の原子炉よりも高速の中性子で核分裂を起こさせるため、中性子の減速 材にナトリウムを用いる。しかし、ナトリウムは酸素や水と激しく反応し、爆発の危険性がある など取り扱いがきわめて困難な物質であり、増殖炉開発のネックとなっている。実際、アメリカ、 イギリス、ドイツなど過去に高速増殖炉の開発に取り組んだ国々も次々に開発を断念し撤退した。 現在、開発に取り組んでいるのは、我が国の他にはフランス、ロシア、カザフスタンだけである。 「もんじゅ」の場合も、二月の起動開始以後、水・蒸気系のトラブルに悩まされ、八月にようや く発・送電にこぎつけたものの、出力を四○lに上げた段階でナトリウム漏洩事故が発生した。
      今回の事故は、ナトリウムが放射能を帯びていない部分からの漏洩だったのが不幸中の幸い だったとはいえ、数トンにもおよぶ大量のナトリウム漏洩は重大事故であることに変わりはない。 それにもかかわらず、今回の事故に対する動燃の対応は、きわめてずさんであった。地元の敦賀 市や福井県への事故の連絡が遅れた上、県議会における説明で「事故」という言葉を避けて「事 象」と言い繕おうとして批判されたり、事故直後に撮影したビデオを隠し、これが後に発覚して 批判を浴びるなど、動燃の事故認識には甘さが目立った。そもそも、事故発生時に原子炉を緊急 停止させる措置がとられなかったこと自体が問題であった。
      一九九五年一月に阪神地方を襲った地震は、我が国の新幹線や高速道路がいかにもろいもの であるかを暴露し、「我が国の土木橋梁技術は世界一流」と豪語していた土木技術者たちの信用 を失墜させた。今回の「もんじゅ」の事故は、「世界最高水準にある我が国の原子力技術をもっ てすれば、困難な高速増殖炉開発も可能」としていた動燃の技術がきわめて基本的な部分で未熟 であったことを暴露したわけである。ともあれ、今回の事故の原因究明には多大の時間を要する ことは必至で、我が国のプルトニウム利用計画も大幅な見直しを余儀なくされるであろう。

    平凡社『1996年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九六年の科学技術

    科学技術基本法の制定と科学技術基本計画の策定

     1995年11月、「科学技術基本法」が制定公布された。この法律は、94年、自民党科学技術部会 による論議から端を発し、連立与党(自民党、社会党、新党さきがけ)内に設置されたプロジェ クトチームによる検討作業を踏まえて議員立法として提出された。衆参両院とも全会一致で可決 ・成立した。
     科学技術基本法(以下、基本法と略記)は、その目的を「この法律は、科学技術の振興に関す る施策の基本となる事項を定め、科学技術の振興に関する施策を総合的かつ計画的に推進するこ とにより、我が国における科学技術の水準の向上を図り、もって我が国の経済社会の発展と国民 の福祉の向上に寄与するとともに、世界の科学技術の進歩と人類社会の持続的な発展に貢献する こと」(第一条)とうたっている。そして、科学技術振興に関する国および地方公共団体の責務 をそれぞれ規定(第三条および第四条)したうえで、「政府は、科学技術の振興に関する施策の 総合的かつ計画的な推進を図るため、科学技術の振興に関する基本的な計画を策定しなければな らない」(第九条)と定めている。
     我が国は、すでに昭和55(1980)年版の『科学技術白書』において「科学技術立国」を国の基 本方針とすることを内外に宣言している。『白書』による科学技術立国の提唱以来15年、基本法 の制定によって、「科学技術立国」がスローガンないしは目標から具体的な政策課題となったこ とは、我が国の科学技術政策にとって画期的な意味をもつといえよう。
     早くも、1996年6月、基本法第九条に基づいて、科学技術会議(議長は内閣総理大臣)は政府 に対して、今後10年間を見通したうえで5年間の科学技術政策を具体化するための科学技術基本 計画(以下、基本計画と略記)を答申し、7月、基本計画は閣議決定をみた。
     今回策定された基本計画の第一のポイントは、今後5年間(平成8年度から12年度まで)の政 府による研究開発費(R & D)の総額を17兆円と具体的に設定していることである。この数字の 根拠となっているのは、政府の R & D 対国内総生産(GDP)比を欧米先進国並みに引き上げる、 というものであり、何事も欧米先進国を目標とするという発想(ないしは説得)パターンは相変 わらずである。目標額を明記したR & D の引き上げ提案と同時に、基本計画は研究支援者の大幅 増員の必要性を強調している。これについても「欧米先進国並み」にするということで具体的な 数値目標を掲げている。
     基本計画の第二のポイントは、研究開発システムにかかわる具体的な提案をいくつも行ってい ることである。すなわち、基本計画は、産・官・学の研究交流および人的交流の拡大、「ポスド ク」と呼ばれる博士号を取得してはいるが定職についていない若手研究者に対する研究・生活支 援の拡大など非常に具体的な提案を行っている。同時に、大学や研究所の研究者に対する任期制 (期間を限った雇用)の導入といった提案も行っている。さらに、研究成果に対する厳正な評価 の必要性も強調している。これらの提案が、徹底的にかつ大規模に実行に移されたならば、我が 国の研究開発システムは面目を一新することになるかもしれない。
     当然のことながら、基本計画の第一のポイントと第二のそれは連動しているわけであり、基本 計画(の策定にかかわった人々)は、研究開発費の大幅な引き上げや研究環境の改善をテコ(な いしはえさ)にして、我が国の研究開発システムの抜本的な手直し・構造改革をもくろんでいる といえよう。すなわち、ややもすれば硬直化しがちで、創造性や柔軟性に欠けると指摘される我 が国の研究開発システムに競争原理ないしは市場原理(ありていにいえば「アメとムチ」)を導 入しようというわけであり、政策的には一定の合理性をもっているといえるだろう。
     しかし、以上に概観したような主張と提案を行っている基本計画は、確かに画期的ではあるが、 実際に我が国の科学技術界に対して期待されるようなインパクトをもたらしうるだろうか? 基本 計画が所期の成果をもたらすためには、何よりも、5年間で政府 R & D を17兆円支出するという 目標の達成が不可欠であろう。しかし、これは相当高いハードルではなかろうか。
     というのも、周知のように我が国の財政は膨大な赤字を抱えており、21世紀を目前に控えて財 政健全化が焦眉の課題となっている。この点については、基本計画それ自体にも、計画の実現と 財政再建の両立を目指さねばならないと明記されているところである。基本計画は、競争的資金 の活用をうたっているが、パイの分配の方法を論ずる以前に、パイそのものを思い切って大きく しなければ競争的雰囲気は生じないだろう。しかし、それは果たして可能だろうか? 基本法に は国の責務が規定されていることを先に指摘したが、この場合の「責務」は個別的・具体的な義 務を伴うものでもなければ罰則を科すという性質のものでもない。したがって、17兆円達成いか んは、歴代政府が基本計画をどこまで重視するかにかかっている。換言すれば、圧力団体として の科学技術界の政治的力量が問われるのはまさしくこの局面であろう。
     また、研究支援者の大幅な増員という研究者には有り難い提案は、公務員の定員削減の流れと は明らかに逆行している。実際には、大学院生を研究助手として雇用したり、民間の派遣業者か らパート労働者を雇用するという形態が想定されているわけである。しかし、人件費が世界一高 い我が国では、せっかく獲得した研究費の大半を人件費に費消してしまうことにもなりかねない。
     研究者の流動性を高めるとの大義名分のもとに提案されている任期制の導入も、拙速に走ると 「研究者という職業は、高学歴を要求しておきながら、身分が安定しない割の悪い職業だ」とい った具合に受け取られて、若者の間で進行しつつある「科学技術離れ」に拍車をかけかねないだ ろう。
     基本計画には、このような問題点があるとはいえ、昭和43(1968)年、基本法と類似の法案が 国会に提出されながら、「産学協同」に対する反対の声から廃案になったことを思えば、今回、 産・官・学の交流をうたう基本法が国会で全会一致可決されたことは、隔世の感が深い。他の多 くの事柄と同様、ここ30年の歳月の中で、特に東西冷戦終結以降、科学技術をめぐる社会的状況 も様変わりしたといえよう。

    平凡社『1997年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九七年の科学技術

    クローン羊ドリーと臓器移植法の間

     1996年夏、イギリスのエディンバラで生まれた1匹の羊にドリーという名前がつけられた。ド リー誕生の経緯を記した研究論文が科学雑誌『ネイチャー』に掲載されるや否や、ドリーは一躍 時の人、いや「時の羊」になった。ドリーは次のような手順で生まれた。
     先ず、6才のメス羊の乳腺細胞を培養し、その細胞核を抜き出す。そして別のメス羊の未受精 卵から核を除去して、代わりに前述の乳腺細胞に由来する核を移植する。この卵細胞に「初期化」 と言われる化学処理を施し、細胞分裂を始めた段階で、さらに別のメス羊(代理母)の子宮に移 す。その結果生まれたのがドリーである。すなわち、ドリーの遺伝子は6才のメス羊のそれと全 く同じであり、それ故、ドリーはメス羊の「クローン羊」(遺伝的に全く同一の個体)なのであ る。
     これまで、クローン動物がいなかったわけではない。例えば我が国でも、先端的な畜産技術研 究の一環として多くのクローン牛が生産されている。またドリー誕生のニュースの直後、アメリ カでクローン猿が生まれたとの報告があった。しかし、これらのクローン動物誕生にあたっては、 受精卵が用いられており、クローン牛(猿)は父母両方の遺伝子を半分ずつもっている。一方、 ドリーは乳腺細胞を提供したメス羊の遺伝子しかもたない。遺伝的には、母親の完全なコピーな のである。
     そもそも、クローン動物を作るための細胞は、皮膚なら皮膚、心臓なら心臓というように、個 体を形成するのに必要なさまざまな組織になりうる「全能性」をもたねばならない。この全能性 は、受精後間もない卵細胞などのように最初期の細胞しかもっておらず、6才のメス羊の乳腺細 胞のような分化の進んだ体細胞は全能性はもたない、と従来考えられてきた。しかし、イギリス のロスリン研究所のイアン・ウィルムット博士たちの研究グループは、この通説を覆して、体細 胞に全能性をもたせることに成功したのである。同様の条件で核移植した277個の卵細胞のうち 成功したのはドリー1例だけだというが、体細胞からのクローン動物の誕生が社会に与えた衝撃 は大きかった。
     これまで、家畜動物について成功した技術は、しかるべき時間を経て、人間にも適用されてき た。その例にならえば、体細胞からのクローン人間の誕生が、少なくとも技術的には射程距離に 入ったことになる。早速、研究者に「亡くなった子供のクローンをつくることはできないか」と 問い合わせてきた人もいるという。自動車事故で子供失った科学者が、子供の代わりに作ったロ ボットが「鉄腕アトム」だったというマンガを思い起こさせるエピソードである。しかも、クロ ーン技術を用いれば、ロボットではなく、モデルと全く同じ生きた人間をつくることができるの である。ドリー誕生を報じたドイツの雑誌『シュピーゲル』の表紙には、アインシュタインとヒ トラーと魅力的な女性のクローンが描かれた。天才科学者も独裁者も恋人もお好み次第というわ けである。また、中国ではクローン・パンダを作る計画があるというし、クローン恐竜が走り回 るジュラシック・パークも夢ではないだろう。これは科学技術の偉大な勝利なのだろうか、それ とも科学技術によってもたらされた悪夢なのだろうか。
     イギリス議会の科学技術特別委員会で証言を求められたウィルムット博士は、「われわれの研 究チームは全員、人間への応用を不快に思っており、禁止さるべきだ」と述べたという。研究チ ームの一人、キース・キャンベル博士も11月に我が国を訪れて同様の趣旨の講演を行った。一方、 アメリカのクリントン大統領が、クローン技術の人への応用研究には連邦政府の資金を提供しな いと表明したのをはじめ、我が国でも人の細胞を用いたクローン研究には公的資金の支出凍結な どの措置がとられた。功名心に駆られた「野心的な」科学者にとって、このような措置や法的規 制がどれくらい有効かどうかは別として、クローン技術の人間への直接的な応用には一応歯止め がかけられたといえよう。
     当面、クローン技術の人間への間接的応用、すなわち医療への応用が目指されることになろう。 実際、ウィルムット博士らを擁するロスリン研究所の隣にはベンチャービジネス「PPLセラピ ューティクス社」があって、ドリー誕生は両者の共同作業であったという。PPL社は、クロー ン技術をどのように医療に応用しようとしているのであろうか。
     ドリー誕生と相前後して、我が国では「臓器の移植に関する法律」が成立した。この結果、脳 死者から臓器を摘出して患者に移植することが合法化されることになった。しかし、長年の論議 にもかかわらず、脳死者を死体とみるかみないかについて我が国では未だに国民的議論に決着が ついておらず、それを反映して、脳死者からの臓器摘出については厳しい制限が設けられている。 そのため、せっかく移植法が成立しても、臓器の提供数は非常に限られたものにとどまると予想 されている。一方、脳死者からの臓器移植がすでに日常的な医療となっている欧米諸国にあって は、慢性的な臓器不足が続いている。すなわち、我が国と欧米諸国は事情が異なるが、臓器不足 という点では共通しており、今後も、この傾向は強まるだろう。PPL社はこのような状況に着 目している。クローン技術を使って、移植用の臓器を製造しようというのである。クローン動物 をつくる際に、一部に人の遺伝子を組み込んでおけば、移植しても拒絶反応の少ない臓器を得る ことができるというわけである。異種間の臓器移植には心理的な抵抗も含めて多くの問題がある だろうが、移植用の臓器の絶対的不足という事態との比較考量の中では、自ずと克服される性質 のものだろう。
     また、同じくクローン技術を使って化学的には製造困難な薬品を製造することもできる。すで にPPL社は、血友病の治療に役立つ人遺伝子を組み込んだクローン羊「ポリー」をつくること に成功している。近い将来、われわれはドリーやポリーといった「動物工場」で生産された臓器 や薬品を利用することになるのだろうか。

    平凡社『1998年版百科年鑑』「科学技術」

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    一九九八年の科学技術

     1998年は基礎科学の分野と応用科学の分野で、それぞれ大きな出来事があった。ニュートリノ研究における画期的な成果と、北朝鮮のミサイル発射に触発されて宇宙開発が軍事的色彩を強めたことである。

    ニュートリノに質量

     1998年6月、我が国の科学界は基礎科学の分野で大きな成果を挙げた。1930年代初めにW.パウリによって理論的に予言され、50年代にF.ライネスらによって、その存在が確認されていた素粒子の一つニュートリノが質量をもつことを日本の研究者たちが中心となって実験的に確認したのである。

     我が国最初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士、続いての受賞者朝永振一郎博士と二人そろって理論物理学者だったために、世間一般には「我が国の物理学者たちは優秀だが、研究費に恵まれていない。そのため、紙と鉛筆があればできる理論物理学を得意としているが、カネのかかる実験物理学は弱体である」というような、一面的な印象が未だに流布しているようである。今回の研究成果は、我が国の科学研究が理論分野だけでなく、実験分野でも世界のトップレベルにあることを内外に強くアピールした快挙であった。

     物理学の標準理論では、物質を形成する究極粒子として、6種類のクオークと6種類のレプトンが想定されている。レプトンには、電子型、ミュー型、タウ型の3種類のニュートリノが含まれる。ニュートリノはあらゆる物質を透過する(ほとんど相互作用をしない)ので、質量を測定する方法がなく、これまでニュートリノの質量はゼロとして扱われてきた。しかし、いかに小さくとも質量ゼロということはないはずだということで研究が続けられてきたわけである。東大宇宙線研究所など日米共同の研究チームは、岐阜県の神岡鉱山の地下に建設された、約5万トンの巨大な水タンク〈スーパーカミオカンデ〉を使って測定を行った。

     宇宙線が大気中の原子に衝突した際に発生するニュートリは、ごく稀にだがタンク中の水の電子とぶつかり、微弱な光を出す。〈スーパーカミオカンデ〉はこの光を検出することができる。宇宙線は四方八方から飛来してくるので、検出結果には方向性がないはずだが、ミュー型ニュートリノについて測定した結果、タンクの真下からのもの(地球の裏側から来た)は、真上からの約半分だった。これは大気中に発生したニュートリノが地球を貫通する間に別のニュートリノに変化したためであり、このような変化は二種類のニュートリノの間の質量に差があるために生じた、すなわち、ニュートリノには質量がある、ということになる。

     しかし、ニュートリノの質量そのものを測定するためには、精密測定が必要である。そこで、〈スーパーカミオカンデ〉から250キロ離れた高エネルギー加速器研究機構(KEK)から、人工的に作ったミューニュートリノを〈スーパーカミオカンデ〉に打ち込み、どのように変化したかを測定するという実験が予定されている。名古屋大学などの研究チームもヨーロッパの実験施設を使って同じような実験を予定しており、ニュートリノ研究の「先陣争い」は激しさを増している。

     1994年のトップクオークの発見以来、素粒子物理学はにわかに活況を呈しているかに見える。19世紀から20世紀を通じて、科学界の主役であり続けた物理学だが、21世紀には、ライフサイエンス(生命科学)やブレインサイエンス(脳科学)に主役の座を奪われそうな気配がある。1993年、アメリカの超伝導超大型粒子加速器(SSC)の建設中止は、その兆候と見る向きもある。最近の素粒子物理学の活況は、物理学者たちの必死の巻き返しという側面も指摘できよう。

    テポドン・TMD・偵察衛星

     1998年8月31日、北朝鮮から発射された〈テポドン〉が日本列島上空を越えて太平洋上に落下した。〈テポドン〉がミサイルだったのか人工衛星だったのかに関して情報が錯綜したことなど、我が国の安全保障体制、危機管理体制のあり方に大きな波紋を投げかけた。北朝鮮建国50周年に向けた人工衛星発射が失敗したらしい、というのが大方の判断だが、我が国全域を射程に収める弾道ミサイルを北朝鮮が開発したという事実には変わりがない。

     北朝鮮では国民の多くが飢餓線上にあると伝えられているが、指導者たちはロケット技術や核技術の開発につとめ、瀬戸際外交の切り札として、あるいは起死回生の妙薬として、科学技術に過大な期待をかけているかに思われる。国民生活を犠牲にした、軍事科学技術への傾斜は、戦前の我が国も含めて、全体主義国家の通弊のようである。

     一方、我が国では〈テポドン〉以降、アメリカの戦域ミサイル防衛(TMD)への協力問題が急展開した。アメリカはレーガン政権時代、敵(当時はソ連)の弾道ミサイルを、発射と同時に探知し、宇宙配備のミサイルやレーザー兵器などで迎撃することを目指した戦略防衛構想(SDI)を巨費を投じて大々的に推進した。しかし、高速で飛来するミサイルを捕捉し迎撃することの技術的な困難さから、見るべき成果もないままSDIは打ち切られた。SDIの代わりとしてクリントン政権が提唱しているのが、弾道ミサイル防衛(BMD)構想であり、TMDはその一部を成す。TMDの実現には、SDIの場合と同様、巨額の費用と時間がかかるし、計画途中で頓挫する可能性もある。実際、TMDの中核をなす戦域高高度広域防衛(THAAD)の実験は、何度も失敗を重ねており、開発を請け負っているロッキード・マーチン社に費用の分担を課すというていたらくである。アメリカとしては、開発費用とリスクを同盟国日本に分担させようということになった。我が国は、このようなアメリカの圧力に及び腰で対応していたが、〈テポドン〉ショックの中で、にわかにTMD積極参加・推進論が強まり、政府は日米共同技術研究に着手することを正式決定した。併せて我が国独自の情報偵察衛星を開発・配備する構想も急浮上した。

     しかしながら、TMDや偵察衛星については、予算的・技術的な問題とともに、「我が国の宇宙開発は平和利用に限る」とした1969年の国会決議との整合性をどのように保つかといった問題も残されており、〈テポドン〉を奇貨とした短兵急な対応は慎まねばなるまい。

    平凡社『1999年版百科年鑑』「科学技術」

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