大学から「図書館」はなくなるのか?

 

 このところ、「図書館の情報化」とか「電子図書館」といったことを考え続けている。昨年来、図書館電子情報化専門委員会の委員の一人として論議を重ねてきたことがきっかけである。この議論は、広島大学全体の情報化やメディア構想の中で附属図書館がどのような役割を果たすべきかを考えるための指針となるべく、今春、「広島大学附属図書館の電子情報化構想」という報告書にまとめられた。専門委員会としては報告書の提出によって一応の結論を出したわけだが、筆者はその後も、ずっとこの問題に関心を持ち続けてきた。報告書に対する責任というよりも、科学の歴史や科学技術と社会の相互作用を研究しているものとして、電子図書館というアイデアそのものが極めて刺激的なのである。そんな筆者の問題意識を本誌編集部がどのようにして察知したかは知らないが、「図書館の電子情報化について書いてくれませんか」との依頼があった−−断るわけにはいかないではないか。

 夏休みを利用して、図書館の電子化に先進的な取り組みをしている立命館大学と奈良先端科学技術大学院大学を訪問した。両大学にはすでに通常の意味での「図書館」が存在しないことを知っていささかショックを受けた。すなわち、立命館大学では総合情報センターの機能の一部として図書館サービスが位置づけられているのである。また、奈良先端科学技術大学院大学では設立当初から「電子図書館」digital libraryの構築が目指されており、研究雑誌の多くが自前で電子化されてネットワークを通じて閲覧できるようになっている。この大学には大きな書庫と広い閲覧スペースをもった図書館は最初から存在しないのである。

 また、9月中旬、一橋大学で行われたシンポジウム「人文社会情報とマルチメディア」でアメリカの諸大学や大阪市立大学における電子図書館化へ向けた実践報告を聞く機会もあった。筆者の母校、大阪市立大学が図書館を廃して学術情報総合センターを設立したことは聞き及んでいたが、その建設費が320億円と知って驚いた。情報化・電子化はやはり高くつくのである。ともあれ、現在、図書館、特に大学図書館のあり方が大きく変わろうとしていること、少なくとも、変わらねばならないとする議論が大きな潮流となっていることは間違いない。

 筆者は10年ほど前にT.ローザック著『コンピュータの神話学』(朝日新聞社、1987年)という本を翻訳出版した。この仕事が「図書館の情報化・電子化」に対する筆者の関心の原点ないしは伏線になっている。ローザックは、有用な道具としてのコンピュータを率直に評価しつつも、あたかもコンピュータが万能機械でもあるかのように誇大に宣伝し、コンピュータにできないことは何もない、と言わんばかりのコンピュータ学者や情報化社会論者に手厳しい批判を加えている。筆者は、この書物の翻訳作業を通じて、コンピュータの可能性とその限界について、多くのことを学んだのだが、図書館とコンピュータとの関係についても考えるきっかけを与えられた。

 ローザックは、情報化社会の行き過ぎには警戒的であるが、図書館(公立図書館および大学図書館)の情報化にはむしろ好意的である。すなわち、ローザックは、自らの経験を踏まえて、図書館がコンピュータの導入によって、さまざまな資料や各種のデータベースを従来以上に適切かつ迅速に利用者に提供できるようになってきていることを指摘し、そのような知識と技術をもった司書・図書館員を高く評価しているのである。経験豊かな図書館員にコンピュータという道具が加われば、まさに「鬼に金棒」というわけである。

 ローザックの書物が出版されてからすでに10年以上たった。この間、世の中は大きく変化したが、とりわけコンピュータの発達は目覚ましかった。個々のコンピュータが高速・強力になっただけではなく、それらが相互につながり、地球規模のネットワークが形成された。インターネットである。そして、「電子図書館」というアイデアが登場した。

 インターネットについては解説書を含めておびただしい書物が出版されているが、『インターネットはからっぽの洞窟』(C.ストール著、倉骨彰訳、草思社、1997年)がとびきり面白い。インターネットの草創期からのコンピュータ科学者で、その卓越したコンピュータ技術を駆使して悪質なハッカー(コンピュータ犯罪者)を摘発したことで有名なストールがインターネットを徹底的に批判するという皮肉な巡り合わせがいかにも興味深い。

 ストールは、かつてローザックがコンピュータや情報化をめぐる誇大な言説を批判したのと同様、インターネットとそれに関連する技術に対する過大な期待をいましめ、図書館とその電子化をめぐる論議にも多くの頁をあてている。

 ストールの結論は、著書の邦訳題の表現を借りると「電子図書館はからっぽの洞窟」ということになるだろう。確かにインターネットを通じて大量の情報が得られるようにはなったが、人類の知的資産の多く、しかもその良質の部分は印刷物としてしか読むことができないし、世界中の書物を電子化しようという「グーテンベルク計画」も壮大過ぎてあまり現実味がない。そして、コンピュータ端末を通じてアクセスしてきた利用者に、電子化された資料を提供するための組織ないしは施設が「電子図書館」だとすると、そのようなものが本当に必要なのだろうか、とストールは問いかける。確かに、科学技術の先端的研究やビジネスのような分野では電子図書館の必要性が切迫しているかもしれない。実際、前述したように、奈良先端科学技術大学院大学は電子図書館を構築しつつある。しかし、大学関係者も含めて、より多くの人々にとっては、従来の図書館の機能がより充実することが望ましいのではないか。それにもかかわらず、電子図書館をめぐる議論の中で、もともと多くはない図書館の予算や人員が電子化・情報化に向けられ、図書館の本来的機能が失われつつある、そんな危機的な状況にわれわれは直面しているのではないか、というのがストールの見解である。

 9月24日、附属図書館ライブラリー・ホールで「大学の将来像と図書館の役割−−21世紀の広島大学の情報環境を考える」と題されたシンポジウムが開催された。基調講演を担当された潮木守一先生(武蔵野女子大学現代社会学部長)は「現代は書籍文化からディジタル文化への過渡期であり、当面、二つの文化の共存を図らねばならない」と的確にも指摘された。そして、「現在は、新しいディジタル文化の可能性を積極的にさぐるべきだと」とも述べられた。「広島大学附属図書館の電子情報化構想」に関わった筆者は、先生の意見に概ね賛成なのだが、一方でストールの電子図書館批判にも共感を禁じ得ないのである。

 シンポジウムで潮木先生に質問したかったが機会を逸してしまった筆者の疑問を、大学図書館に深い関心をお持ちのはずの本誌の読者に投げかけて本稿の結びとしたい−−「近い将来、大学から図書館という名称を冠した建物はなくなってしまうのでしょうか? また、それは望ましいことなのでしょうか?」


広島大学附属図書館報『Liaison』(Vol.24, No.1, Nov. 1998, pp.1-3)