科学におけるコミュニケーション−−印刷革命からコンピュータ革命へ
科学革命と印刷革命
コペルニクスの場合
すでに死の床についていたコペルニクスのもとに、地動説(太陽中心説)を体系的・数学的に論述した書物、すなわち、十六−七世紀の「科学革命」The Scientific Revolutionを代表する書物『天球の回転について』が届けられた、というエピソードが伝えられている−−「もう幾日間も記憶も気力もなくしたまま過ごしてきて、彼は自分が死ぬ日になって、最後の息の下でやっとできあがった自著を見たのでした」(1)。一五四三年のことであった。死の間際であれ、コペルニクスは自らのライフワークが立派な書物となったことを見て心から満足したであろう。
コペルニクスがそうしたように、研究の結果を書物にまとめ出版するということが可能になったのは、もちろん、一七世紀の哲学者F・ベーコンが火薬、羅針盤とともに三大発明の一つに挙げた印刷術の発明のおかげであった。よく知られているように、活版印刷術は、一五世紀半ば、マインツでJ・グーテンベルクによって実用化された(2)。
活版印刷術の登場とその普及は、ヨーロッパ社会とその文化に多大の影響を及ぼした。特に、近代科学の成立=科学革命に果たした「印刷革命」The Printing Revolutionの役割は計り知れないものがある。
印刷術は、研究成果を書物として刊行するのに役立っただけではない。研究のプロセス、研究の仕方そのものを能率的にし、知識の蓄積を可能にしたのである。実際、『天球の回転について』に集大成される天文学の研究をコペルニクスに可能にしたのも、印刷術の普及、書物の出版のおかげであった。すなわち、
コペルニクスの誕生する少し前から、図書の生産方式に現実に起こった革命が、天文学者の利用しうる学術書や数学諸表に 影響を及ぼし始めていた。たとえば、一四八○年代にクラクフ大学の学生だった青年コペルニクスにとっては、おそらくプトレマイオスの『アルマゲスト』を一目でも見ることは−−たとえ誤記の多い中世ラテン語写本であれ−−むずかしかっただろう。しかし、彼は亡くなるまでに三種類の刊本を手にしている(3)。
コペルニクス自身も、その著書の序文で、
私は入手しうる限りすべての哲学者たちの書物を読み返してみようという仕事に着手しました。そしてまず初めにキケロにおいて、ニケタスが大地は動くと考えていた事を私は見出しました。その後、プルタルコスにおいても、幾人かの他の人々が同じ見解であったことを私は発見しました(4)。
と記している。すなわち、コペルニクスはギリシア時代の古典の信頼できるテキストの徹底した研究を通じて、自らの天文学研究を展開していくことができたのである。コペルニクスは印刷革命の時代を生き、その恩恵を存分に受けたことによって科学革命のチャンピオンの一人となることができたといっていいだろう。
印刷革命のインパクト
コペルニクスばかりではない、肉眼による天体観測としては最も正確な観測記録を残したティコ・ブラーエも、
印刷術の新しい力を最大限に利用した最初の周到な観測家だった。印刷術のおかげで天文学者は過去の記録類の矛盾を発見したり、各恒星の位置をより正確に割り出し恒星記録に収録したり、各地に観測協力者を募ったり、最新の観測結果を永久に残る形にとどめ、再版時に必要な改訂を加える、といったことができるようになったのである(5)。
すなわち、印刷革命は、面倒な書写や暗記から科学者(自然哲学者)たちを解放しただけでなく、彼らの間に信頼できるコミュニケーション・ネットワークを形成し、精選された知識や情報を蓄積することを可能にしたのである。
印刷術・出版の普及が学問や知識の発達を促す、という事情は、出版に対する規制が学問や知識の発達を阻害するということからもみてとれる。例えば、一六一六年のコペルニクス説の禁止令や一六三三年のガリレオ裁判を機に、自然哲学的な著作に対する検閲や自己規制が強まったカトリック圏では、当然にも、自由な意見の表明とそれをめぐる討論が下火になった。一方、相対的に出版の自由が保たれていたプロテスタント圏では、活発な意見交換が科学革命を着実に進行させることとなったのである。ガリレオの主著『新科学論議』の原稿が、密かにイタリア持ち出されて、宗教的・思想的に比較的自由な国オランダで出版されたというエピソードは、この辺の事情を如実に物語っている(6)。
雑誌の誕生
書物(単行本)だけではなく、雑誌という新しいメディアが発明されたことも学者たちのコミュニケーション・ネットワークを効率的にし濃密なものした。一六六二年に設立されたロンドンのロイヤル・ソサエティ(王立協会)は、書記のH・オルデンバーグの提案を受けて、一六六五年五月六日、ソサエティの雑誌を創刊した。この雑誌の正式の名称『哲学紀要−−世界の主要な地域における発明工夫に関する現在の状況、研究、努力を解説する』Philosophical Transactions: giving some Accompt of the present Undertakings, Studies, and Labours of the Ingenious in many considerable parts of the World.には、この雑誌の創刊を提案し、編集・発行の責任を負ったオルデンバーグの意図と意欲が明確に示されている。実際、この雑誌には、会員以外の科学者や外国人科学者も含めて多くの人々の研究が報告・掲載された。雑誌というメディアの登場は、大部な書物を執筆するために必要な長い時間、出版社との面倒な交渉と多額の出版費用の工面といった苦労から、科学者たちを解放し、迅速で安価な研究成果の公表・交換を可能にしたのであった(7)。
科学論争と先取権争い
印刷というメディアの登場は、科学者たちの間での活発な論議・論争を促した。同時に、「先取権」priorityという概念も生み出した。すなわち、単行本であれ雑誌論文であれ、科学者が自らの名前を冠してその研究成果(新しい知識、発見)を印刷・発表するということが普通になってくるにつれ、科学者は、自らが見出した新しい知識に対して、第一発見者としての権利=先取権を有する、という考えである。むしろ、科学者を研究に駆り立てるのは、単なる知的好奇心というよりも、先取権を目指してのライバルとの競争心である、という状況が生じてきたのである。科学史上、最も有名なニュートンとフックとの間の科学論争と先取権争いはその代表例である。
反射式望遠鏡の製作によってロイヤル・ソサエティの会員たちから注目されたニュートンは、一六七二年ソサエティの会員に選出された。その直後、ニュートンは「光と色についての新理論」"New Theory about Light and Colors"と題した論文を執筆した。この論文は『哲学紀要』第八○号に掲載された(図1参照)。出版文化の確立とともに、書名や論文名に「新」という形容詞を付けることで、著者たちは自らの発見の新しさないしは重要性を強調するようになるが、ニュートンも例外ではなかったわけである。
しかし、この論文に対しては、「ニュートンの議論は新しくはない」との批判が寄せられたのである。一六六二年というロイヤル・ソサエティの創立の早い時期から、実験主任curator of experimentとして中心メンバーの一人であり、しかも著書『ミクログラフィア』で光と色の本性について論じたことのある、フックからの批判であった。この論争は、フックが光の本性を波と考えていたのに対して、ニュートンは光を粒子と考えていたことから生じたものだった。二人の間には、望遠鏡をめぐって、ガリレオ以来の屈折式望遠鏡の工夫改良に重きをおくか(フック)、新しい反射式望遠鏡の可能性を追及するか(ニュートン)という対立もあった。この論争が、後の万有引力に関する逆自乗則をめぐる有名な先取権争いの下地となったことは言うまでもない(8)。
ともあれ、雑誌は最新の科学研究の成果を公表し、そうすることによって先取権を確保する手段としての役割を果たすとともに、さまざまな科学論争の場を提供することになったのである。また、論争が国境を越えて拡がった−−『哲学紀要』における論争はイギリス人だけにとどまらなかった−−ことは、雑誌が広く流通していたことを示しており、注目に値しよう。
表記言語と地理的分布
十七世紀を通じて、学術的な書物は、しばしばラテン語で書かれていた。あるいは、ニュートンがそうしたように、同一の著作をラテン語版と自国語版の両方で出版することによって、学術的な権威を維持しつつ、より多くの読者を獲得するという方策が採用された。十八世紀以降もこのような習慣はある程度存続した。
ラテン語の使用に代表される権威主義は長く続いたが、学会における討論や雑誌を通じての成果の発表といった新しいコミュニケーションの普及が、国語改良運動の一環として位置づけられる場合もあった。例えば、ロイヤル・ソサエティの創設後、それほど年数もたっていないのに、その歴史を書いて、ソサエティの正統性とともに革新的意義を訴えたT・スプラットは、次のように述べている。
文体の誇張や脱線を排するという決意を常にもち、多くの事柄について語る際もほとんど同じ語数で、素朴に簡潔な言い方をする。会員たちは、率直で包み隠さない自然な言い方につとめる−−明確な表現、明晰な意味、素朴な分かりやすさ、などである。すべての事柄を、可能な限り数学的な簡明さに近づけ、才人や学者の言い方ではなく、職人や田舎の人や商人の言い方を優先する(9)。
このような議論を通じて、科学書や科学論文は次第に簡明な自国語で書かれるようになっていった。自国語による著述の一般化は、ラテン語の相対的衰退をもたらし、その結果、科学者間のコミュニケーションに限界が生じるようになったのは致し方のないところであった(このことが、後述する「要約誌」の登場を促した要因の一つとなった)。一方、当然のことだが、科学者たちが、ラテン語の修得に費やすエネルギーと時間は徐々に減少していった。
雑誌の国別ないしは地理的分布についていえば、十八世紀の末までに創刊された七五五種にのぼる雑誌のうち、ドイツのものが四○一種と圧倒的に多く、フランス九六種、イギリス五○種、オランダ四三種、スイス三七種などとなっている(10)。ドイツにおける雑誌数の多さは、印刷術発祥の地として、雑誌発行の諸条件がドイツ各地に整っていたことや雑誌の書き手および潜在的な読み手が多かったなどという事情に支えられていた。また、いち早く近代的な統一国家としての体裁を整えたイギリスやフランスと違って、ドイツが実質上、分断されており、それぞれの地域が比較的独立した知的社会を構成しており、互いに自己主張していたという事情もあった。
科学の専門細分化と情報爆発
科学の細分化と雑誌の急増
初期の雑誌は、科学(自然哲学)のすべての分野にかかわっていた。というより、十七世紀および十八世紀前半の雑誌は、科学が専門職業化されておらず細分化されてもいなかったことを反映していた。実際、科学研究に携わり、科学者団体の会員で科学論文を寄稿する人々の中で、大学に籍を置いている人はむしろ少数派だった。科学研究を生計の手段としての職業としていないという意味での「アマチュア」的な科学者が、雑誌論文の書き手と読み手の大半を占めていたのである。
しかし、医学関係の専門雑誌を皮切りに、十八世紀中葉から十九世紀にかけて、分野を限定した専門的な雑誌が数多く創刊されるようになってきた。このような動きは、もちろん科学の細分化を反映しているが、根本的には、科学という営みとそこで獲得された科学知識は、古来の「自然哲学」とは別個のものであり、その担い手もアマチュアではなく、職業としての科学に携わる「科学者」だという認識が次第に広まっていったことを反映している。
確かに、自然諸科学の中でも記述的な学問分野、例えば、天文学、地質学、博物学などは現在でもある程度、アマチュア的な学者の存在を許容している。しかし、例えば、物理学、化学、生理学などは、十九世紀になると、特殊で高価な装置を備えた実験室とそれらの装置を使いこなす技量をもった科学者でなければ先端的な研究を遂行することが困難になってきたのである。
そして、これら実験室科学はもちろん、記述的学問分野も、独自の雑誌を創刊することによって、それぞれの学問的アイデンティティーを確立しようと努力し始めたのである。しかも、十九世紀のナショナリズムの高まりと相まって、時期的には多少前後するものの、各国でこのような動きが並行して起こった。
かくて、一種の細胞分裂のように、科学の専門細分化がさらなる細分化を促し、その結果として、多くの専門的な科学雑誌が次々と創刊されるという、現代まで続く、際限のないプロセスが始まったのである(11)。
情報爆発と要約誌の登場
科学という営みの順調な発展を特徴づける雑誌の急増を手放しで喜ぶわけにはいかない。というのも、科学者たちは興味深い新しい情報や知識を迅速かつ適切に把握できない、という困った事態に直面することになったからである。早くも一七八九年には、「現代は雑誌の時代であり、雑誌が多くなりすぎるので、雑誌を増やすのではなく、数を限定すべきである」といった指摘がなされている(12)。
実際、読むべき雑誌が数誌なら、掲載された論文を丁寧にチェックできるだろう。それが数十誌となると、すべての論文に目を通すことは時間的に難しいし、第一、それだけの雑誌を購読すること自体、費用の面でも不可能である。まして数百誌となっては、お手上げである。大きな図書館といえども、それだけの雑誌を購入することは難しくなる。一方で単行本の出版点数も激増していく。
そこで工夫されたのが、単行本や雑誌論文の概要・要約だけを掲載した「要約誌」abstractsの登場である。要約誌は、単行本や論文の標題と著者名、要約とキーワード、単行本については出版社、雑誌については掲載誌と頁などから成っている。このような要約誌は、医学関係のものが十八世紀初頭に登場し、十八世紀末までに数十誌が編集された(13)。
要約誌は、一ヶ国語で編集されているから、書物や論文が多くの言語で書かれていることに伴う言語的な障壁も一挙に克服できる。しかし、要約誌の編集に多大の手間がかかるわりには報われないこともあって、その寿命は比較的短かった。ともあれ、要約誌は科学者・研究者にとって不可欠の道具となったのである。このような事情は、一八六七年にロイヤル・ソサエティが、「科学者たちは、雑誌に収録された膨大な資料に対する便利な手がかりが必要だと痛切に考えるに至った」として、一八○○−一八六三年の科学論文を集大成した全6巻から成る大部なカタログ『科学論文カタログ』Catalogue of Scientific Papersを刊行したことにもみてとることができる。
要約誌にせよカタログにせよ、また十九世から刊行され始めた専門的な事典やハンドブックにせよ、それらはいずれも科学研究が、専門細分化されるとともに専門職業化してきたこと、また、その結果、専門的な知識・情報が爆発的に集積され始めたことを如実に反映しているといえよう。
パラダイム−通常科学−科学者集団
とめどもなく専門細分化し、指数関数的な成長をとげていく科学のあり方をT・クーンは『科学革命の構造』で見事に分析してみせた(14)。
クーンは、言語学から借りてきた「パラダイム」paradigmという概念を「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」と定義し直し、パラダイムに基づく科学研究を「通常科学」normal scienceと呼び、通常科学の担い手たる「科学者集団」scientific communityの役割に注目した。
科学者を目指すものは、長い徒弟修行を通じて、特定分野のパラダイムを身につけ、学位の取得などを機に、一人前の科学者として科学研究に携わることになる。それはパラダイムに導かれた研究という意味で一種の「パズル解き」puzzle solvingである。パズル解きの成果は論文として発表される。科学の世界では「発表せよ、さもなくば破滅だ」Publish, or perish!という事情があるからである。一般の経済社会の通貨に相当するものは科学の世界では論文であり、科学者は論文の公表によって科学者集団の中で科学者としての力量と先取権を認知され、論文の評価に見合った「報奨」rewards−−研究者としての地位、研究費、ノーベル賞に代表される各種の賞など−−を与えられる(15)。
科学者の訓練と資格認定から始まって、通常科学を営み、獲得された科学知識の品質保証をしているのは当該分野の科学者集団である。科学者集団はパラダイムを共有しているからである。したがって、パラダイムの危機は同時に当該科学者集団の危機でもあるわけであり、新しいパラダイムによる科学革命は新しい科学者集団の誕生を意味することになる。
しかし、パラダイムはいつまでも安泰というわけではない。パズルは次第に底を尽き、逆に、パラダイムでは対処できない「変則事例」anomalyが蓄積してくる。やがてパラダイムの「危機」crisisが生じ、その混乱の中から新しいパラダイムが登場し、やがて「科学革命」scientific revolutionが起こる。〔図2〕は、この一連のプロセスを「ライフサイクル」life cycleとして図式化したものである。現代の数多くの学会も、このようなライフサイクルをたどったきたのである。また、これら多くの専門分野の中で、特に社会的に重要かつ教育的な価値があると認定された分野が制度化され、現代の大学・高等教育の学部・学科・コースとなっているわけである。
科学の変容とコンピュータ革命
コンピュータの出現
科学という営みは、科学社会学者D・プライスが明らかにしたように、一貫して指数関数的な成長を遂げてきた(16)。すなわち、科学は、十九世紀を通じて、さらに二○世紀の前半を通じて、出版された論文数でみると、約十五年で倍増するという大きな成長率を示してきた。第二次大戦後、大学を中心としたアカデミズム科学が自己増殖を続けるとともに、新しく国営/企業科学が登場した結果、情報爆発は一段と加速した。次々に新しい雑誌が創刊され、既存の雑誌も頁数が増えていった。要約誌に収録される論文数は急増した。その結果、例えば『ケミカル・アブストラクツ』Chemical Abstracts.のように収録件数の多い要約誌は、急速に大部なものとなり、図書館の書架を瞬く間に満たしていった。
このような状況に救世主として登場したのが、コンピュータである。紙に印刷された雑誌とはちがって、コンピュータは記憶媒体(当初は磁気テープ、現在ではCD-ROMなど)に大量の情報を蓄積し、欲しい情報を瞬時に検索して取り出すことができる。かくて、コンピュータの急激な発達と並行して、多くのデータ・ベースが構築されていった。
例えば、E・ガーフィルドが創設した科学情報研究所(Institute for Scientific Informations)が発行している『科学引用索引』Science Citation Index.は、当初は、印刷物として刊行されていたが、その後、電子化され、コンピュータで検索可能となった。SCIは、ある論文が他の論文に引用されていることを示しており、元来は、研究者が引用論文を手がかりにして関連論文をさがすためのデータ・ベースである。しかし、別の利用の仕方もある。すなわち、ある論文が何回引用されたかは、その論文の重要性の指標とみなされ、ひいては論文の著者の業績の指標とみなされるようになったのである。しかも、SCIが電子化されたことによって、引用回数のチェックとそのランキングなどが非常に容易になった(17)。
前述したように、科学の世界では、論文は認知を獲得するための通貨の役割を果たしているが、引用回数の多い論文は高いレートで取引され、多くの報奨を著者にもたらしてくれるのである。例えば、大学における任用・昇進人事で、あるいは学会賞などの選考に際して、候補者たちの論文数とともに、論文の引用回数も比較検討の材料となっているのである。
オンライン・ジャーナルと電子図書館
一九八○年代になると、記憶容量が大きくなり処理速度が早くなったコンピュータが相互に接続され、情報を交換・共有できるようになり始めた。すなわち、コンピュータが通信の手段としても利用されるようになったのである。科学者たちは、長年の間、論文や著書といった印刷物とともに、会話・手紙・電話などによって、互いにアイデアや情報を交換してきたが、コンピュータという新しい手段が加わったことになる。
現在、インターネットと呼ばれている世界的な拡がりをもったコンピュータ・ネットワークの構築は、一九六九年から開発が始まったアメリカ国防総省高等研究計画局のARPANETプロジェクトに起源があるとされる。その後、アメリカを中心に世界各地でコンピュータ科学者はもちろん、日頃からコンピュータを使い慣れている科学者たちが中心となって、同様の試みがなされ、一九八○年代末から九○年代にかけて、この技術が一般化し、各地のコンピュータ・ネットワークが次々に接続されてインターネットが形成されたのである(18)。このような動きの中で、ヨーロッパ合同原子核機構(CERN)の科学者たちの貢献も大きかったとされる。近代科学の創始者たちがそうであったように、先端的な科学研究に携わっている現代の科学者たちも、アイデアや情報・データを可能な限り迅速に交換したいという情熱に突き動かされているからである。
近年、文献情報だけではなく、雑誌(論文)そのものが電子化されて直接インターネットを通じて、「オンライン・ジャーナル」として「出版」されつつある。当面は、従来の印刷物も併せて提供される場合が多いようだが、オンライン・ジャーナルがさらに一般化すれば、そして、publish(公表)ということには、必ずしも「印刷」を含まないということになれば、十七世紀の科学者たちが案出した、研究業績の「雑誌論文」による公表という三百年以上続いた伝統が大きくかつ急速に変化する可能性がある。
コンピュータとそのネットワークの発達によって、大きくかつ急速な変化を迫られているのは、古代以来、知識の殿堂として重要な枠割りを果たしてきた図書館も同じである。今後、オンライン・ジャーナルが増加するなど、資料・文献の電子化が進むと、図書館は、書物や雑誌を収納・整理し、利用者の求めに応じて提供するという従来型の機能に加えて、電子化された知識や情報に対するアクセスを可能にするサービスを期待されることになろう。いわゆる「電子図書館」digital libraryである(19)。現在のところ、人類の知的資源の大半は印刷物として蓄積されているが、今後新しく作られる知識はもとより、過去の重要な文献も徐々に電子化されつつある。すでに多くの科学者・研究者がそうしているように、論文を検索し、必要な論文・資料・データを引き出し参照した上で、自らの知見を加えて論文を執筆・投稿するという一連の作業が、ネットワークに接続されたコンピュータ端末を通じて行うことが可能な時代になったのである。
知のモード論
科学という営みの中で、アカデミズム科学のシェアが小さくなってきたこと、また、コンピュータやそのネットワークの加速度的な発達の結果、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響が生じつつある。すなわち、科学研究も含めた知識生産の「様式」modeが大きく変化しつつある(20)。
M・ギボンズらは、従来の知識生産を「モード1」と呼ぶ。それは、概ね、アカデミズム科学的な研究のあり方、知識生産のモードである。パラダイムを共有する科学者による、科学者のための研究であり、学問のための学問とも言える。その結果が、役に立つか立たないかについて、科学者は無頓着である(あるいは無頓着を装っていた)。科学は外部に対して閉じていた。
しかし、研究テーマが、社会の要請に応じる形で、例えば、地球環境問題といった広範で具体的なものになれば、研究は、当然にも、学際的・総合的にならざるを得ない。そこでは明確なパラダイムはないし、パズル解きな研究も少ない。同時に、科学者は、研究費を直接負担しているスポンサーに対して、あるいは広く社会一般に対して、研究の意義とその成果を「説明する責任」accountabilityを課されるようになってきた。また、こういった研究の遂行にあたって、大学・企業・官庁の研究者相互の、さらには一般市民との協力が奨励され、実際、コンピュータ・ネットワークを通じて協力が可能な条件が整いつつある。科学は外部に対して、一時的・過渡的にではなく、常に大きく開かれている。このような研究や知識生産のあり方が「モード2」と呼ばれるのである。
今後、知識生産のモード1とモード2が競合する中で、また補完し合うことによって、研究活動が活性化していくことだろうし、また、そうなるようさまざまな手だてが講ぜられねばなるまい。
結語:新しいエピステーメーの予感
科学という営みは、いつまでも同じ成長率で拡大するわけにはいかない。プライスが戯画化して論じたように、これまでと同じように成長を続ければ、それほど遠くない将来に、科学者数が全人口よりも多くなる、というパラドックスが生じるからである(21)。
すなわち、社会全体として科学に配分される資源(人材や研究費)には、当然のことながら限界があり、成長が頭打ちになるのは必至であり、その時、科学は低成長もしくは定常状態という、近代科学の誕生以来、初めての事態に対処せねばならないわけである。先進諸国における科学は、すでにそのような定常状態に入った、とJ・ザイマンは診断している(22)。
また、近代科学はその誕生以来、特に十九世紀以降、専門細分化を通じて深化・発展を遂げてきた。それは、研究対象を要素に還元し、考慮すべき変数を限定することによって、現象を単純化することが極めて有効な方法だったからである。確かに、このやり方は能率的だったし、大きな成果も挙げた。しかし、地球環境問題一つを例にとっても、要素還元主義的方法の限界は、今や誰の目にも明らかであろう。
すなわち、現代科学は量的にも、方法論的にも限界に直面しているといえるのである。しかし、コンピュータとそのネットワークはこの二つの限界を克服突破する可能性を秘めているのではあるまいか。というのも、コンピュータ・ネットワークは、比較的安価に、多くの知的・人的資源を有効利用して、モード2的な知的生産を可能にしてくれるからである。また、大容量・超高速コンピュータが、ある現象に関わる変数をいくつかに限定することなく、専門細分化した個別科学を総合し融合していくというシナリオも想定できなくはないからである(23)。現在のコンピュータとそのネットワークに、科学における「成長の限界」を回避し、学問の総合化を可能にするだけの力があるとは思えないが、潜在的な可能性は十分期待できるだろう。
活版印刷術の発明と普及が、当初は書写の機械化にすぎないと思われていたのに、近代文化・文明を創出するキーテクノロジーとなったように、コンピュータが、強力な情報の検索・処理の道具であるばかりでなく、二一世紀の新しい知=エピステーメーを産み出すキーテクノロジーかもしれないという予感は、確かに胸躍らせるものがある。
註
(1)A・ケストラー(有賀寿訳)『コペルニクス−−人とその体系』すぐ書房、一九七三年、一四七頁。
(2)L・フェーブル/H-J・マルタン(関根素子・長谷川輝夫・宮下志朗・月村辰雄共訳)『書物の出現 上・下』筑摩書房、一九八五年など。
(3)E・L・アイゼンステイン(別宮貞徳監訳)『印刷革命』みすず書房、一九八七年、二二四頁。
(4)高橋憲一(訳・解説)『コペルニクス・天球回転論』みすず書房、一九九三年、一五頁。
(5)前掲『印刷革命』、二三四頁。
(6)伊東俊太郎『ガリレオ(人類の知的遺産31)』講談社、一九八五年、六三−六七頁。
(7)Manten, A.A.,“Development of European Scientific Journal Publishing before 1850", in Meadows, A.J.(ed.), Development of Scientific Publishing in Europe, Elsevier Science Publishers, 1980, pp.1-22.
(8)ニュートンとフックの先取権争いについては、R・S・ウェストフォール(田中一郎・大谷隆 共訳)『アイザック・ニュートン 1』平凡社、一九九三年、第10章「プリンキピア」、および中島秀人『ロバート・フック ニュートンに消された男』朝日新聞社、一九九六年、が詳しい。
(9)T.Sprat, History of the Royal Scoiety, 1667, p.113.
(10)Manten, op.cit., p.10.
(11)Meadows, A.J., Communication in Science, Butterworth, 1974.特にChapter 3,“The rise of the scientific journal"(「科学雑誌の興隆」)を参照。
(12)ibid., p.72に引用されている。
(13)Manten, op.cit., pp.15-16.
(14)T・S・クーン(中山茂訳)『科学革命の構造』みすず書房、一九七一年。
(15)B・バーンズ(川出由己訳)『社会現象としての科学−−科学の意味を考えるために』吉岡書店、一九八九年、五五−六八頁。
(16)D・プライス(島尾永康訳)『リトルサイエンス・ビッグサイエンス 科学の科学・科学情報』創元社、一九七○年。
(17)窪田輝蔵『科学を計る−−ガーフィールドとインパクト・ファクター』インターメディカル、一九九六年。
(18)村井純『インターネット』岩波新書、一九九五年、M・ハウベン/R・ハウベン(井上博樹・小林統共訳)『ネティズン−−インターネット、ユースネットの歴史と社会的インパクト』中央公論社、一九九七年など。
(19)長尾真『電子図書館』岩波科学ライブリー、一九九四年、および、M・レスク「明日の電子図書館」『日経サイエンス』一九九七年、七月号、三四−三七頁など。
(20)M・ギボンズ編著(小林信一監訳)『現代社会と知の創造−−モード論とは何か』丸善ライブラリー、一九九七年。
(21)前掲、『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』、二五頁。
(22)J・ザイマン(村上陽一郎・川崎勝・三宅 共訳)『縛られたプロメテウス−−動的定常状態における科学』シュプリンガー・フェアラーク東京、一九九五年。
(23)黒崎政男・井関利明「対談 サイエンス・パラダイムをめぐって」、黒崎政男(編)『サイエンス・パラダイムの潮流−−複雑系の基底を探る』丸善ライブラリー、一九九八年、二四三−二六二頁。