法然 対 明恵
出版社:講談社選書メチエ 価格:1575円(税別)
日本人が日本の文化を知らないのは昨今有名なことだが、とりわけ仏教史は等閑視されている。仏教者こそがもっとも波乱万丈の激動をくぐってきたのに、である。中でも中国風の南都六宗や密教を経て、日本仏教の下敷きを作ったとも言うべき法然の時代の事情を知るものは少ない。
その法然を、「死」を座標軸にして日本的原理を求めたリアリストと捕らえ、約半世紀ののちに法然を徹底批判にした明恵を「生」を座標軸にインド的原理を謳歌した理想主義と捕らえて対比させた本書は、たいそう独創的であり、かつこれまで日本人が欠いてきた視点をわんさと提供してくれる。
法然は人間をいつも酒に酔っているようなものだと見た。底には仏教理論に基づいた人間像はなく、仏教の外にいて救われたいと思っている数々の俗人が渦巻いている。だからこそ法然は「他力」を発見できた。親鸞の悪人正機説は既に法然によってほぼ全面的に先取りされていた。
逆に明恵が直結していたのは一般の人間像ではなく、ブッダその人である。しかし、その道は理想主義であるからこそ自分に対しても厳しいものでなければならず、そのせいか、たとえば明恵はゴッホのごとく自分の耳を切ってさえいる。それは「自力」の発見でもあった。このことを裏から見ると、法然が性悪説で明恵が性善説だということにもなる。また、思索のスケールから見ると法然が行く先としての浄土を思い描いたのに対し、明恵は、華厳思想から学んだ宇宙を自分を包むものとして夢想していたことにもなる。せでに法然研究では随一の成果を発表している作者は、このような、法然対明恵の構造を前にどちらかに軍配を上げているわけではない。
著者は、2人の仏教者から「意思」のあり方を学ぶべきではないかと問うている。意思亡き平成の世に、本書が警告の一書ともなりうるのはそこである。
書評者: 臨床心理学者 河合 隼雄
日本の霊性が特別に高まったといわれる鎌倉時代に、対立的な姿勢を極めて鮮明に示す2人の僧があった。法然と明恵である。法然は鎌倉時代の新仏教の創始者の一人として、絶対他力の専修念仏を主張したのに対し、明恵は、あくまで自力による修行を重要とし、法然を激しく論難した。
本書において、著者はこの両者をあくまで彼岸に生きようとする法然を「死の座標軸」、あくまで現世における生き方を大切にしようとする明恵を「生の座標軸」と捕らえ、両者の差を詳しく比較検討する。そして、両者を理想主義(明恵)、現実主義(法然)の対立としてみることもできるという。
このように対立する両者も生活史を比較すると、あんがい共通の部分も多い。両者ともに下級武士の家に生まれ、両親の愛に恵まれて育つが、少年時代に親と死に別れている。そして法然も明恵も己の仕事に生命を投げ打つ武士の気概を持つ点も共通である。
両者に何よりも共通していたことは、当時の僧侶たちが自分の位階が上がることや、加持祈とうなどによって利益をあげることに心奪われ、本来の宗教性を失っていたのに対する激しい怒りと改革への意思である。
ただ、改革の方向としては、法然がルターにも比しているような改革であるのに対して明恵はむしろ、釈迦への回帰であった。
しかし両者をよく比較するとその座標軸は以外に重なり合うのだ。一見対立的に見える両者が、その深い宗教体験のほうに目を向けると交差し、重なり合うことを明らかにする点に本書の特徴がある。
かくして、両者に共通に見られる「意志する宗教」の姿が、最も重要なこととして浮上してくる。ここで著者はそれが現代に生きるものにとって痛切な問題であることを提起してくれる。宗教が古い時代の比較問題でなく現代のこととして語られるところに本書の意義があると感じられる。書評者: 編集工学研究所 所長松岡正剛