|
本書は、「熊野信仰には、日本人の精神文化にかかわる何か一貫したものが伏流として流れている」という立場から、「追放と復活」をキーワードに、熊野信仰をさまざまな角度から読み解いていくちょっと面白い宗教論である。
熊野信仰の根底には日本文化のもっとも古い基層の部分に結びついた不思議が沢山ある。熊野本宮はなぜ荒ぶる神スサノオを主神とするのか。建国の祖といわれる神武は、東征伝における上陸の地をなぜ熊野にしたのか。熊野三山はなぜ違う神を祭り、しかも三神一体となった信仰を受けているのか。古代ここで、山地民族、平地民族、それに海洋民族が出会い、戦いのあげく融和して三山信仰ができあがったのではないか。こういう仮説を、海幸山幸小伝説、浦島太郎伝説、常世とマレビト信仰などを手がかりに展開していく部分はなかなか面白い。
一方、「熊野の自然は、神の篭もる『神奈備の御室』という性格と、死者が集う『隠国』という相矛盾する2つの性格を同時に持ってきた。」それは、熊野が死者の霊が生の世界に再生するために通る「魂の祈りの返し点」とみなされていたからだという。いかにして、死から生への復活が可能になるのか。それは、熊野の自然が包摂する母性としてのエロスによるものだという。
書評者:武蔵野大学教授 鎌田 東二
日本が指針を見失い自信喪失に陥って誇りもアイデンティティーも喪失しているかに見える今、この深い荒廃の中から新たな生命の脈動を告げる声があがり始めている。本書もそうした七転び八起きのたくましくもめげない精神に裏打ちされて、空洞化し無力感にさいなまれている現代日本の精神状況に一喝を入れる書物である。
1950年生まれの著者は、自らの意思で14歳の時に出家し禅僧になるが、師匠の死に伴い、34歳で寺を出て(再出家)アメリカに渡り、苦学の末、法然の研究で博士号を取得。その後、ブリンストン大学東洋学部助教授として日本文化史を教える。
著者はまず、「現代が追放の時代」であると主張する。家から、形から、自然からの三重の追放を受け、精神的文化的安住を見い出せないでいるという。著者もまたそうした追放を体験してきたが、それなればこそ追放者の果てに復活がありうるという。その追放から復活への折り返し点として著者は「エロスの国・熊野」を位置付ける。
第一章「追放と復活」では、根の国に渡ったスサノオの神話と熊野を訪れて病の癒えた小栗判官の物語を解析し、「自己の身体として、自分の魂の発現の場として」の熊野の自然を見出し、熊野が何ゆえに「民族の療郷」(第2章)であり、「エロスの国」(第5章)であるかを読み解いていく。
そこには何よりも「草木皆物言う」自然があり、海と山と人の交流の中で万物に霊の宿りを感得するアニミズム的な自然崇拝が 息づいている。熊野は生命に満ち溢れた場所であると同時に死の国「隠国(こもりく)」でもある。死と生の両極を内包するが故に、そこは根源的ないのちの生成場として、「エロスの国」といえるのだ。中世に熊野が子宮を意味する「胎蔵」世界と位置付けられたことも故あることである。エロスと新たなるロゴスの量的核融合による宗教再生を希望する書世の書である。
書評者:立花 隆
|