【原則、毎月1日・10日・20日に更新します。】

『ガタガタ道、光の道』
 私は毎朝、ベランダに出て、瀬戸内海から粛々と昇る朝日を見るのをとても楽しみにしています。温度や湿度、それに雲の様子によって光線の具合が微妙に変わり、一日とて同じご来光というのはありません。毎日が感動です。
 太陽全体が昇り切ったところで、海の中を一気に光の道が走ります。その瞬間、まるで金色のカーペットが自分の目の前に敷かれ、太陽に「君も、この道を一直線に歩いて来なさい」と言われているような気になってきます。そのとき、ふと思ったのです。私たちは、誰もがすでに光の道を歩んでいるのではないかと。
 人生は、健康問題、家庭問題、金銭問題など、かぎりなくデコボコが続くガタガタ道を、今にも壊れそうなオンボロ自動車で行くようなものです。時には高速道路を突っ走っているような気分になることもあるかもしれませんが、早晩、老いさらばえて、ガタガタ道を走らされることになります。それが人の運命というものです。
 ですけど、何も悲観する必要はありません。ガタガタ道がそのまま永遠の〈いのち〉に続く光の道なのです。肉眼で見るかぎり、ガタガタ道ですが、心眼で見れば、それは間違いなく光の道です。
 世俗的なガタガタ道があって、また別なところに精神的な光の道があるのではなく、その二本の道はぴったりと重なっているのです。仏教でいう「煩悩即菩提」とか「浄穢不二」とか言った表現も、そういう意味にほかなりません。
 毎日の当たり前の生活が、光の道であるという自覚を持てば、何もおろそかにできなくなってきます。そして現実が心暮れるものであっても、神の眼から見れば、それこそが私たちの進むべき只一本の光の道なのです。
 毎日の生活が光の道ということが分かれば、その応用編もあります。現実がガタガタ道であるのと同然に、我々の人格もガタガタで欠点だらけです。どれだけ高潔な人格者であっても、神の眼から見れば、不完全極まりないものです。しかし、その不完全な人格が、そのまま光の魂ということになります。
 煩悩があって、そして別なところに、菩提があるのではなく、やはり煩悩がそのまま菩提なのです。とすれば、喜怒哀楽をそのまま楽しめばいいことになります。何も無理する必要はないのです。そういう凡人がホトケそのものということになります。
 昨日の借金も、今日の頭痛も、明日の憂鬱も、ぜんぶ光の道の出来事と思えば、日々の生活の意味が根本的に変わってくるはずです。そういう気づきに至るキッカケの一つとしての風の集いであり、感謝念仏でありたいというのが、とびきりガタガタ人間である私の切なる願いなのです。(2010・1・20)