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『和解のプロセス』
 今、私は東京で「第八回文明間対話セミナー:イスラム世界と日本」という国際会議に出席しています。毎年、各国外務省の主催で中東諸国のどこかで開かれる会議ですが、今年は順番で、東京開催となっています。日本側から常連の参加者は数名ですが、私はこれで6回連続の参加となります。
 今回、私は「対話は行動から始まる」というスピーチをしました。私は半ば「国際会議屋」みたいなところがありますが、そういうものに出るたびに思うことは、どれだけエリートが集まって美辞麗句を並べても、世界は変わらないということです。
 世の中を変えるのは、「無私の行動」です。たとえば、過去何百年の歴史において、互いに殺戮を繰り返してきた民族に、「和解の対話」をするようになんて言ったところで、おおよそ出来ることではありません。そんなことができるのなら、イスラエルとパレスチナの間にも、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人とクロアチア人の間にも、とっくの昔に平和が訪れているはずです。
 それよりも、どんな小さなことでもよいので、何か具体的な共通目的をもって、敵対する者同士が共に汗水を垂らして働くことのほうが、よほど和解の糸口となります。たとえば、村人が共に橋や灌漑用水路を作るなどの肉体労働を通じて、信頼が生まれるのです。
 日本はアメリカの顔色を見ながら、紛争地に自衛隊を送り込むことなどを止めて、そういう共同作業の場を世界各地に設定するような国際貢献を果たすべきです。妥協を得意とする国民性には、そのほうが余程向いています。
 話し合いよりも行動というのは、国際政治の場だけではなく、家族でも職場でも通じる真理です。もし折り合いがうまく行かない人がいるのなら、その人と一緒にできることを探すのが、問題解決の近道となります。人間は理念で悟れるほど、賢い動物ではありません。互いの感情を忘れるほど、何か具体的な作業に没頭すれば、和解が始まります。
 同様に、人生でもいろいろと痛い目に逢ってこそ、大切なことに気づいていくことになります。理屈ばかり言って、何か分ったようなつもりでいる人ほど、厄介な存在はありません。何も分っていないことが、分らないでいるわけですから。
 学者や外交官が高いところで、理想論をぶったところで、単なる自己満足にしか過ぎません。エリートが誠実な下座行をしてこそ、世の中が動き始めます。私の夢は、いつか国際会議の参加者と一緒に、開催都市のスラムにある公衆便所を掃除することです。そうすれば、確実に世界平和に一歩近づくことになります。
 「国際会議屋」の私は、来月にはギリシアのキプロス島に向います。そこでも「便所掃除」を夢見ながら、会議中は居眠りでもして過ごそうかと、今から目論んでいます。(2010・2・24)