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『「こころの時代」出演を終えて』
 去る2月27日に渋谷のNHKスタジオで、「こころの時代:法然を読む」の最終回(3月21日・29日放送予定)の収録を終えることができました。最後は、ディレクターから大きな花束を贈呈され、スタッフ全員に囲まれてスタジオで記念撮影をしました。ありがたいことです。
 内容については、いろいろとご批判もあるかもしれませんが、毎回、私なりに全力投球で臨みました。そもそも全国に放映されるテレビ番組で、1時間ずつ12回も自分の考えを語る機会が与えられたという事実を、まことに稀有で光栄なことと受け止めています。その一方で、テレビという媒体を通じて、宗教を語ることの難しさも痛感しました。
 ここで再びおさらいをするのなら、法然上人が他者に伝えようとした教えがあるとしたら、それは「こだわりを持つな」の一語に尽きると思います。私たちは、自分たちの勝手な思い込みから、実にさまざまな思い込みをもって、自分の魂を閉ざしてしまっています。
 これから時代は大きな節目を迎えることになると思いますが、だからこそ古い常識に「こだわり」を持つことは、危険ですらあるのです。時代が暗いというのなら、そのぶん自分たちの心を赤々と燃やしていく必要があります。そういう意味で、乱世に生きた前衛的思想家である法然から学び取るべきことは、少なくないのです。
 ところで最後の二回の番組では、私は修行時代に着用していた法衣を身につけました。何となく、そうしたい気持ちが湧いてきたから、そうしたまでですが、自分でもなぜだろうかと考えてみました。
 たぶん私には、親鸞が言ったような「非僧非俗」の立場に開き直り、その曖昧な境涯をむしろ積極的に生きたいという気持ちがあるのだと思います。何事においても、私は「境界線」を引くのが好きではありません。だから、そういう気持ちを法衣をまとうという形で、表現してみたかったのではないかと自己分析しています。
 ちなみに、スタジオの出演者用控え室で背広から法衣に着替えたのですが、龍馬役の福山雅治さんにでも会うのかなと思っていたのですが、ばったり出会ったのは綾小路きみまろさんでした。
 「風の集い」や「健康断食」を主宰するなど、オーソドックスな学者の眼からみれば噴飯ものだろうし、禅も念仏も仏教もキリスト教も、自分の好き勝手に解釈してしまうようなことは、保守的な宗教家には許し難き冒涜かもしれません。
 しかし、そういうことは私が意図的にしているのではなくて、幸か不幸か、それしか私には出来ないのです。法然さんも当時、「この人ほど信・謗ともに、おびただしい人はない」と言われていましたが、私も少し似たようなところがあります。それは身から出た錆であり、自分で耐えていくより、ほかありません。
 今から十数年前に、ニューヨークのマンハッタンで会った女性が、「あなたが連続してテレビに登場し、何かを一生懸命に語っているのが見える」と言ったことがあります。私は「まさか、そんなことはありますまい」と一笑に附しましたが、どうやら彼女の予言が的中したようです。
 人生には、いろんな修行の形がありますが、衆目に晒されるような立場で、思想を語り続けるというのも、私にとって一つの修行です。そこで私という愚鈍な人間も、少しずつ貴重な気づきを得ていくのでしょう。
 これからはテレビという媒体ではなく、小説という媒体を通じて、私の考えを精一杯、表現していきたいと思っています。素人の作品がどこまで世間に受け入れられるのかは不明ですが、いくつになっても挑戦すべき課題があるだけで、有り難いことだと思っています。環暦を迎える今年、私はまた若返りの秘薬をひとつ、手に入れたのかもしれません。(2010・3・1)