【原則、毎月1日・10日・20日に更新します。】

『琴光喜追放は正しかったか』
 大相撲が未曽有の危機に見舞われています。以前から八百長疑惑とか暴力問題とか、いろいろと不祥事が絶えない角界ですが、今回ばかりは野球賭博にかかわる力士が大量に見つかり、ただ事では済まなくなりました。NHKがその中継を見合わせただけでも、事態の深刻さを物語っており、その経済的損失には甚大なものがあると思われます。
 賭博という違法行為をしたからには、社会的制裁を受けるのは当然ですが、私は今回の事件にかぎり、もう少し異なった対処の仕方があったのではないかと考えています。もちろん、力士たちを手玉にとり、金儲けをしようとした胴元やその背景にある暴力団組織は、徹底的に追及し、法的処罰に課すべきでしょう。
 しかし、あまり深い考えももたずに、ほぼ慣習的に賭博に染まっていった力士たちに、同じような処罰を加えていいものか、疑問です。たとえば、賭博に手を染めた力士全員を平幕の最下位あるいは幕下に格下げするというのも、一つの案です。
 とくに大関の地位まで登りつめた琴光喜を前頭十六枚目あたりに落とし、彼がそこから再び這い上がってこれるかどうか、それを国民が注視することには、大きな社会的意義があったはずです。過ちを犯した人間に、敗者復活の機会を与える。それが日本的な処罰の仕方ではないでしょうか。
 万が一にも、琴光喜が深い反省をバネに獅子奮迅の努力をし、横綱にまで登り詰めるようなことがあれば、何かと自信を失いがちな日本国民は大いに励まされるはずです。ワールドカップで日本代表チームが1試合勝っただけで、あれだけ国民は興奮したぐらいですから、平幕が横綱に返り咲くとなれば、社会的インパクトは、その比ではなかったはずです。
 そもそも、罪を犯した者を〈サタン〉の如く、容赦なく排斥するというのは、一神教的発想であり、惻隠の情を尊重してきた日本文化にはそぐわないものです。何か過ちを犯した人間を血祭りにあげ、センセーショナルにバッシングするのは、現代メディアの得意技ですが、せめて伝統を重んずる角界では、日本的情緒を守ってほしかったと思います。
 魔女狩り的な発想は、現代日本のあちこちに見受けられますが、そんなことをしても、社会が道徳的に清浄な場所になるわけではありません。反対に、ますます巨悪がはびこることになるでしょう。
 有識者からなる大相撲特別調査委員会の判断が、こういう結末を導いたわけですが、アメリカのピューリタニズム的な二律背反的な考え方が、国技である大相撲の采配にまで影響を及ぼしているということに、背筋に寒いものを覚えてしまいます。
 しかし、もう一歩踏み込んで議論するなら、最近の相撲界の不祥事というのは、年間六場所制にこそ原因があると、私は考えています。神事でもある相撲は、戦前は年に二場所から四場所だったのです。そういう時間の流れの中で、力士たちは、ゆっくりと心技を磨き、人間の魂を揺さぶる取り組みを見せていたのです。
 それが戦後角界は利潤追求を最優先して、国技を興行化し、できるだけ多くの場所で力士に勝敗を競わせることに躍起になってきたのです。相撲協会は、その本質を見失って久しいと言わざるを得ません。今回の野球賭博事件は、必然的に起きるべくして起きた神罰であるというのが、私の見解です。(2010・7・10)
 

「国際文学療法学会会長鈴木秀子シスターと」