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『心身のネバリ』
 小説『法然の涙』(講談社より10月刊行予定)をようやく書き上げ、珍しく、ここ数日、次の小説『魔界入り難し』(一休禅師物語)のために、自宅で読書ばかりしています。また来週から、ほとんど家に寄りつかない生活が始まるのですが、原爆記念日と終戦記念日の前後には、NHK放送を中心に戦争関係の良質な番組が多いので、なるべく見るようにしています。
 私は終戦五年後に生まれているので、多少の耐乏生活は知っていても、戦争の悲惨はまったく知りません。京都植物園に進駐軍がいたのは記憶していますが、よく言われるように、チョコレートやキャンディーをもらいに行ったこともありません。父親は日中戦争で七年も外地にいて、耳の横に銃弾跡を持つ人でしたが、あまり戦争の話はしませんでした。たぶん、出来なかったのでしょう。
 テレビに登場された老人たちも、広島や長崎で被爆したり、広大な満州を逃げさまよったり、シベリアに抑留されたり、沖縄の激戦で家族を失ったり、文字通り生き地獄を通り抜けてきた人たちです。「九死に一生を得る」というのは、まさにこういう人たちのためにある言葉ではないかと思いました。
 どの人も、今まで人前で語れなかった悔しさや悲しさを、あえてテレビカメラの前で語り始められたのです。ずいぶんと高齢なられているため、今こそ恥を忍んでも、自分たちが体験したことを語り残しておかないことには、日本が再び大きな過ちを犯すかもしれないという危機感があるのではないでしょうか。
 いつの世も政府というのは、本質的に国民に薄情なものです。日本国民は、政府に依存心が強すぎるように思います。そもそも特権階級化している政治家に、正しい判断ができるはずもないのです。だからこそ、少しでも賢明な政治家を選出する責任が有権者にあるのですが、知名度や親近感でしか投票しない日本国民の民度がはなはだ疑わしいことにも、この国の危うさがあります。
 私は真に平和を願うなら、日本はまず、近隣諸国と深い信頼関係を確立すべきだという強い意見を持っていますが、それにしては教育内容からして、道遠しという気がしています。アジアがこれからの文明の牽引力になるのは自明の理ですから、アジア諸国の連帯感が今ほど求められている時はありません。それにしては、アジアで最初に近代化した日本という国家と国民の使命感が、希薄すぎるように思います。
 政治談議はともかく、番組で登場してきた戦争生存者を見て思ったのは、生命のねばり強さです。運よく被弾や栄養失調を免れても、絶望のあまり自死した人も少なからずおられるはずですが、そういう凄まじい試練をくぐって、戦後何十年も生き延びてきた人たちの強靭な生命力と精神力に心より敬服します。
 ぬるま湯的境遇しか知らない人間にかぎって、不平不満を漏らし、他者を批判し、みずからはちょっとした躓きで、容易に挫折してしまうのです。現代人は、よほど自覚して、心身共に自分を鍛えていかないことには、国家を滅ぼし、究極的には個人の幸福も破壊してしまうことになります。何よりも若い人は、しっかりと自分の夢をもって、それを実現するために、まず心身のネバリを手に入れるべきです。ネバリがなければ、物事の真髄を極めるということもできないからです。
 戦後生まれの軟弱人間の一人である私に何ができるのか、よく分からないのですが、これからの人生、日本が少しでも良い国に変わっていけるよう、自分にできることから、やっていきたいと考えています。(2010・8・15)
 
 

「初女観音・森のイスキアで」