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『明るいフィリピン』
 小説『法然の涙』の最終ゲラを締め切り時間スレスレに、関西空港から講談社に宅配便で発送し、その足で飛行機に飛び乗り、フィリピンに来ています。滞在先が、マニラから遠く離れた高原地帯なので、インターネット環境が悪く、この「折々の言葉」も長い間、更新できずじまいでおりました。新しいものを読もうとホームページを開いて下さった方には、深くお詫び致します。今はフィリピン南方のボラカイ島から、弱い電波をつかまえて、辛うじて発信しています。
 今回の旅は、フィリピン人の知人に誘われて、フィリピン事情の視察ということが目的でしたが、大富豪である彼女の家族が持つ豪華な別荘に滞在させてもらったおかげで、ふつうの観光では、とうてい体験できないようなことをたくさん味わわせてもらいました。フィリピン社会の根源的な問題である絶望的経済格差については、以前から耳にしていましたが、今回、持てる者の立場にある人たちの生活を垣間見せて頂き、それがどういうものであるか、自分の眼で確かめることができました。
 非衛生的なスラム街で暮らす貧困層が分厚く存在する中で、特権的な生活を送ることの道義的な意味はともかく、いちばん感心したのは、どれだけ豊かな暮らしをしていても、家族間の絆を大切にしていることです。貧富にかかわらず、人間として、いちばん幸せなことは、自分が愛し、信じ、支えようとする家族がいることです。
 今生で持てる者になるか、持たざる者になるかについては、前世からの因縁といった要素が大きく、それほど気にすることではありません。それよりも、今生で与えられた境遇をどれだけ多くの笑いに包まれて、幸せに感謝して生き切るか、ということを、私たち一人一人が神に問われているのだと思います。
 太陽の眩しいフィリピンでは、貧しくても陽気に暮らす人々が多く、とかく心が暮れがちの日本人は、その屈託のない明るさを学ぶべきでしょう。物事を悲観的にとらえれば、それだけ悲観的な現象を引き寄せてしまうだけです。
 現代日本人は、現実の客観的把握が苦手な割には、慢性的な悲観主義に陥っているようなところがあります。日本文化そのものに、そういう悲観的情緒を良しとする美学や宗教性もあり、国民は一向にそこを離れようとしません。
 政治的にも経済的にも混迷を深める日本を救うのは、インテリの気取った知識ではなく、人間性の本質的なところから沸き上がってくる大衆の陽気だと思います。現実をシビアに見つめ、そこに危機感を感じても、そこから脱却させてくれるのは、根源的な楽観主義です。
 ということで、ワイン片手に南の島の白い砂浜と紺碧の海を眺めながら、そんな物思いに耽っている暇な大学教授がいるだけでも、日本という国は救われているのかもしれませんね。そうは、思わないって?すみません。(2010・9・1)

 

「フィリピンのボラカイ島で」