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『学者の話』
  一応、学者の片割れである私も、日本宗教学会と比較文明学会という二つの学会に属しています。招待で講演を頼まれたり、学会誌に論文執筆を頼まれたりすることはあっても、ほとんど学会活動というものをしてこなかった私が、なぜ二つの学会に属しているのかと言えば、ほとんど学者としての義務感みたいなものです。
 アメリカ時代は、よく東洋学会とか宗教学会に行って、研究発表もしたことがありますが、やっぱり私はエセ学者なのか、そういうことを少しも楽しめないのです。どういう学会に出ても、いつも「ブラック・シープ(黒い子羊)」みたいな心境で帰ってくることになります。
 なぜ、学者の話が面白くないのかと言えば、生活から遊離しているからです。本を読んだだけの知識の集積で話す人が多いからです。それも、西洋の学者の名前を引用するだけで、学問をしているような気分になるような人が多いようです。
 真の学問というのは、みずからを現場に運び、そこで体験を重ね、丹念に思索を発酵させるところから生まれてくるものです。ですが、そういう思想を語る学者は稀です。大学の先生になるぐらいですから、それなりに頭が良い人たちが多いのでしょうけれども、それが災いしているのです。頭で納得してしまって、行動の裏付けがないのです。
 同じことは、僧侶にも言えます。昔の人が書いたお経や語録に書いてあるようなことを右から左へ、受け売りするだけで、分かったような気分でいる人が多すぎます。ほんとうに自分で体得するものがあれば、自分の言葉で語ることができるはずです。
 私自身は、日本仏教は世界一栄養価の高い思想と考えていますが、それが少しも発信力を持たず、停滞しているのは、僧侶が新しいボキャブラリーで宗教を語ろうとしないからです。新しいボキャブラリーが生まれて来ないのは、自分で体験するものがないからです。
 その点、先日、青山のスパイラル・ホールで開かれた松岡正剛主催のブックパーティーは見応えがありました。出演者は、能楽師・観世銕之丞、劇作家・唐十郎、詩人・高橋睦郎、エッセイスト・華恵、歌人・水原紫苑と、凡人・町田宗鳳でした。私はともかく、皆さんそれぞれに自分の世界をしっかりと築き上げていて、自分独自の表現力をもち、自分の声で喋っていました。入場料が三万五千円という高価なものでしたが、聴衆を退屈させることはありませんでした。
 私は、学者としても僧侶としても異端ですが、これからも変な妥協はせず、ずっと異端でいようと考えています。異端の町田宗鳳が真に評価されるのは、没後百年ということになるかもしれませんが、それでも人類文明に貢献できれば、本望です。
 そういう私も、現状に満足せず、いよいよ思索を深めて、人類文明をひっくり返すような思想を生み出したいと考えています。決して自惚れではありませんが、自分が今まで体験させてもらったことは、ほんとうに人智では及ばないようなことが多く、その体験をぜひいい形で活かしたいと願っています。(2011・11・20)