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『男と女の関係』
  人の世に生きて、男と女の関係ほど面白いものはありません。人間は、男と女の関係の中で成長していくのです。その一番が、母と息子の関係です。『法然の涙』でも描いたことですが、偉大な思想家・法然も幼少期において、母親のふんだんな愛情に浸ることがなければ、後半生における彼の宗教的開花はあり得ませんでした。
  私も母親の溺愛に近い愛の中で育ったおかげで、出家という運命の選択をしたように思います。その後も、どういう形であっても、私の魂を育ててくれたのは、ほとんどが女性でした。(わが人生で、いちばん手ごわい先生が今、私の横でアイロンをかけています。)愛は、忍耐です。愛は強い意志力をもって、育むものです。その努力を怠った瞬間、愛は廃れます。
 結婚に至るまでの男女の関係がいちばんホットですが、よく街中で、仲の良い若いカップルを見かけたりすると、「いいなあ」と思うと同時に、「たぶん続かない」という直観が働きます。結婚にゴールインするカップルなんて、十組中一組もないでしょう。
 晴れて結婚にゴールインしたとしても、果たしてそれが幸せなことかどうか。日本の離婚率は約30%ですが、当然のことながら、その統計には家庭内離婚は含まれていません。離婚以上に不幸な結婚なんて、掃いて捨てるほどあるはずです。結婚して幸せな夫婦になった確率というのを統計にとってみてほしいものですが、恐らく数パーセント未満と、私は読んでいます。それほど男と女の関係は、難しいものでもあります。
 それにしても、一人の男と一人の女が出会うこと自体、ひとつの奇跡ですが、二つの魂が信じ合い、愛し合う姿が、人間として最も美しく、幸せなことだと思います。もし全人類が、肉体的にも精神的にも満たされるパートナーをもつことができるのなら、戦争など自然消滅するはずです。
 男女関係といっても、その形態はさまざまありますが、愛の根っこは生命本能にあるがゆえに、往々にして社会常識を超えてしまいます。いずれにせよ、男女が良好な関係を維持していれば、景気の動向なんかとは無関係に、もっとも生産的でもっとも創造的な社会が形成されることになります。反対に愛が枯渇すると、人倫が乱れます。
 いちばん困った人間は、他人の男女関係をとやかく言う連中です。「夫婦喧嘩は犬も喰わぬ」と言いますが、それ以上に、他人の色恋沙汰を云々するのも、愚かなことです。週刊誌もネットもテレビも情けないことに、その種の情報で溢れかえっていますが、それだけ欲求不満の男女が溢れ返っているということです。自分がほんとうに幸せで満ち足りた気持ちでいれば、ゴシップなど、どうでもよいことです。
 日本の政治家が小粒になったのも、マスコミが彼らの下半身をネタにして、大衆の野次馬根性を煽るようになったことに一因があります。男性が女性を侮蔑したり、暴力を振るったりするのなら、それは懲らしめなくてはなりません。そういう意味では、フェミニズムの台頭にもそれなりの社会的意義があったと思います。
 しかし、男女が平等な立場で親密な関係をもつことを取沙汰することほど無粋なことはありません。私が小説『一休』(ただ今、休筆中)を書こうと思ったのも、一休が自分よりも四十歳も若い、森女という盲目の女性と深い恋仲に陥った本当の理由を説き明かしたかったからです。
 愛は破壊し、創造します。一休は禅の奥義を極め、礼節の大切さを知り尽くしていましたが、破壊と創造の境界線を生き抜いた狂人です。そして、自分を常識という囚われから解放し、一個の人間として真に救われ、真に悟ったのです。だから、「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉が、彼の口から出てきたのです。
 そして、そんな一休が室町という時代に登場し、無名の若い芸術家の情熱に火をつけることがなければ、今日、われわれが日本文化として誇らしげに語る茶道、能楽、俳諧、水墨画の伝統は誕生しなかったのです。
 私は今、新しい文明のパラダイムとしての「地球倫理」に関心をもっていますが、「風の集い」は、浅薄な倫理研究会ではありません。「風の集い」は自立し、成熟した、あるいは少なくともそれを志す人間が、「ありがとう」の声と共に、おのれの魂を大らかに解き放つ場所であってほしいと願っています。(2011・2・5)

「歓喜仏」