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『徳あれば必ず隣あり』
  個人のことであれ、国家のことであれ、「禍が転じて、福となる」ためには、祈りが大切です。そしてその祈りは、電気・ガス・水道・ガソリン・食糧の節約という具体的な形を通じてなされなくてはなりません。日本経済を支えるために、もっと消費をしなければいけないという考えもありますが、浪費は浪費であり、もっと意味ある消費をすればいいのです。ともかく今は、国民全体が真摯な祈りを行動で示さなくてはなりませんが、節約生活が大切な理由が、もう一つあります。それは、モノを節約すれば、人間としての「徳」を積むことになるからです。
  私は自分の乏しい人生体験から、人間の幸福を決定づけるのは、才能でも頭脳でもなく、「徳」だという確信があります。「徳」のない人間は、人望がなく、ここ一番という時に応援されません。自分の人生を振り返っても、ずいぶん辛い目にあったこともありますが、よくよく考えてみれば、私自身に「徳」がなかったことが最大の理由です。
 論語の素読を小学生にさせてはどうかと先述しましたが、それは封建的な考え方を子供たちの頭に刷り込むためではありません。「徳」こそが勉強よりもスポーツよりも、人間にとって大切な財産であることを教えるためです。
 人間が生きていく上で、もっとも大切な価値をまったく教えないのは、親と教師の職務怠慢です。人に親切にしなさい、優しい言葉づかいをしなさい、モノを大事にしなさいというふうに、当たり前の規範を子供たちに教えないのも、大人の責任回避です。そういう大切な教育的機会を奪われた子供たちが、やがて親となり、どこまでも自分中心のモノの考え方しかできないモンスター・ペアレントになっていくのではないでしょうか。
 私は以前、自殺予防をテーマに、その分野の専門家と鼎談でしたことがあります。専門家の視点からは、弱者を自殺に追いやってしまう差別的な社会構造に問題があるという意見でした。それはもっともな意見だと思いましたが、私にはまったく異なった考えがありました。
 先進国の中でも、日本の自殺率が異常に高いほんとうの理由は、「モノの逆襲」にあると思います。それは、モノを粗末にすることによって、命の尊さが分からなくなっているからです。アメリカでもヨーロッパでも案外、日本人が想像している以上に、質素な生活を送っている人が多いのです。自動車・電化製品・衣料など相当に型が古くなっても、おいそれと買い替えず大切に使っていますし、家具などは古いものほど良いという考えをもっています。
 ところが日本人は消費の狂想曲に乗せられて、いろんな製品を買いまくり、捨てまくっています。そして大型ゴミを、人目につかない森や山に捨てたりしています。何千年にもわたって、山川草木を神々と崇めてきたアニミズム民族にあるまじきことです。今回の震災も、そのバチが当たったとも言えないことはありません。
 ですから、モノを大切にすることを子供のころから、繰り返し教えていかなくてはなりません。教科書や筆箱、ランドセルや靴などをていねいに使う。型が古くなっても、使えるものは使い切る。こういう当たり前のことが、もっとも大切な情操教育なのです。
 モノを大切にすることを学べば、自分を大切にします。自殺なんか、できるものではありません。モノをおろそかにすれば、自分をおろそかにします。それが、私のいう「モノの逆襲」です。
 水・電気・ガス・石油・食糧を大切にすることは、「徳」を養う行為なのです。全国民的にそういう意識をもてば、「徳」のある国の未来が暗いはずもありません。「徳は、必ず隣あり」と論語にも書かれています。経済力が多少落ちても、国際社会から愛され、尊敬される国になります。
 そして、次なるリーダーも大胆不敵な大改革をやってのけるわけですから、「徳」のある人物でなくてはなりません。でなければ、ヒットラーやポルポトみたいな、悪しき強権的リーダーになってしまいます。
 かつて日本経済を自由化・国際化させるために大ナタを振るった土光敏夫・元経団連会長は、同じ生活用品を何十年も使い続けるほど質素な暮らしをしていることで、有名でした。東芝の再建を任された時、「社員諸君にはこれまでの三倍働いてもらう。役員は十倍働け。私はそれ以上に働く」と言ってのけ、大企業の社長であるにもかかわらず、いっさいの接待を受けず、通勤も公共のバス・電車だけでした。だからこそ、部下も彼の「モーレツ経営」についていき、政治家にも物怖じせずに直言できたのでしょう。
 「徳」のある人には、自信があります。その揺るぎのない自信があるからこそ、世間の声に惑わされることなく、大胆な改革をやってのけることができるのです。東日本大震災の復興は、国民、そして未来のリーダーの「徳」の有無一つにかかっています。それには、押しつけがましい道徳論も、わざとらしい宗教もいらないのです。私たち一人ひとりが、浪費を止め、モノを大切にするだけでいいのです。
 同じ日本人でありながら、私たちはみんな異なった意見を持っています。政治や宗教上の信条の違いとなれば、まったく相容れないものがあったりします。それは、政党間の足の引っ張り合いや、宗派同士の対立などを見れば、よく分かります。
 思想的な違いだけでなく、感性や趣味の違いとなれば、ほんとうに千差万別で、「蓼食う虫も好き好き」ということになります。カレーライスなら毎日食べてもいいと言う人もいれば、カレーライスなんか、一生食べなくてもいいと言う人もいます。それが世間というものであり、今さらそれほど驚くべきことでもありません。
 しかし、一歩引き下がって考えてみれば、同じ時代に同じ日本人として生まれ落ち、東日本大震災という歴史的な出来事を共有することになったわけですから、凄いご縁がある仲間です。ですから小異を捨てて、大同を取らなくてはなりません。この国がどうすれば良くなっていくのか、その気持ちを大切にして、お互いに力を合わせていくべきです。日本人としての「絆」を大事にしようではありませんか。
 国会で議員たちが足の引っ張り合いみたいな議論をしているのを見ると、同じ日本人として、本気でこの国を良くしようとしているのかと、悲しくなって来ます。震災を単なる災難に終わらせるか、日本再生の絶好のチャンスとするか、それは私たちのチームワーク次第です。どうせ短い人生なのですから、願わくば未来に希望を抱き、お互い励まし合いながら、やるべき仕事を成し遂げて、笑って死にたいものです。(2010・5・13、『ついに日本の出番がやって来た』(講談社から7・20発売)より抜粋)

「徳の伝授」