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『業(ごう)を生きる』
  人間は、それぞれに業(カルマ)を背負って生きています。その業が、人間関係や金銭上の苦労として現れてくる人もあれば、病という形をとって、双肩にのしかかって来る人もいます。ただ、その業は決して神が人間に天罰を下したというものではなく、むしろ神からの豪華(業火?)プレゼントと考えるべきものです。
 たとえば、重い不治の病というのは、ひょっとしたら業病と呼ぶべきものかもしれませんが、重い病や障害をもつ人の中には、素晴らしい知恵を獲得している人がいます。それは業を悟りに変えてしまったからです。そういう人たちは、たとえ寝たきりだとしても、この世の菩薩として見事な働きをしてくれます。詩人の星野富弘氏も、そのお一人ですが、事故で首しか動かなくなってからも、素晴らしい詩と絵を描き続け、無数の魂を救っています。
 われわれは、ほかならぬ、業においてこそ、悟る機会を与えられているのです。解脱への道というのは、坐禅や念仏といった形式的な修行において開かれる場合もありますが、いちばん深い悟りは、業そのものにしかないのです。
 比叡山の大阿闍梨・酒井雄哉師は、前代未聞の二千日回峰行でホトケに出会われたのかもしれませんが、彼の知恵が深いのは、出家以前の生き方にご苦労があったからだと想像しています。
 白い紙に黒点を描いて、そこに虫メガネで光を集めれば、紙が燃えだします。紙という凡夫が燃えることができるのは、黒点という業があるからです。虫メガネで集める太陽光は、神であり、仏であり、宇宙の輝きのことです。
 業なんか、ないのにかぎりますが、業のない人間なんていません。この世に肉体を持って生まれてきただけでも、業なことです。人間は、黒点が描かれた一枚の紙みたいなものですから、肉体という紙があるうちに悟ったほうがいいのです。「煩悩即菩提」ということも、無明の黒点こそが光明の輝きとなり得ることを示しています。
 では、虫メガネとは何でしょうか。それは、信仰心であり、意識の持ち方のことです。それは、自分の業を見つめる力を与えてくれます。業を見つめることによってのみ、人間は霊的に成長します。あれこれ宗教を遍歴したり、精神セミナーをハシゴしたりしているうちは、虫メガネをあちこち移動させているのと同じですから、おのれの業を正視していないことになります。
 ここで注意すべきは、虫メガネにどんなレンズを嵌めているかということです。レンズが曇っていたり、度数が低かったりすると、せっかくの太陽光を集めることができません。レンズの純度が高いほど、無明の業が速やかに感謝の灯火に変わります。
 本来、誰でも「不生の仏心」をもっているものの、どうやら人間は、「善人」と「悪人」の二つのタイプに分類できるようです。善人タイプは、善良で親切心と正義感に溢れていますが、難点は人を批判し、皮相な「善」を他人に押しつけようとすることです。
 ところが、けなげな善人タイプも、自分自身の矛盾を直観しているので、そのストレスが身体の不調などに現れます。そういう人は、どこかで「善人」を卒業しないと、いつまでもシンドイ人生を歩むことになります。「善人」と「悪人」の境界線は紙一重ですが、その一線を乗り越えるのは、並大抵ではありません。
 反対に悪人タイプは、自分自身の救いがたいエゴに気付いているので、他人のいい加減さをも許さざるを得ないのです。自分の業の深さに気づいていれば、誰に対しても謙虚にならざるを得ません。深い内省によって、レンズの度数が高くなれば、感謝の炎が早く燃え上がることになります。「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機説も、じつはレンズの度数の話だったのです。
 私は最近、ふたたび一休の小説を書き始めましたが、彼は積極的に悪業をなし、そのただ中で自分の業を燃やし尽くそうとした「大悪人」です。破戒のかぎりを尽くした一休ほどの悪僧は、日本仏教史上、稀有の存在ですが、彼の美徳は、世間と自分の双方にウソをつかなかったことです。
 「仏界入り易く、魔界入り難し」は、業の深みにおいてこそ、本物の悟りを開いた人間にしか吐けない言葉です。ただし一休のような生き方は、人生哲学の中でもウルトラC級ですから、へたにマネをすると、大やけどをしますので、ご用心ください。
 だから、われわれ凡庸な人間は、あれこれクヨクヨ悩みながらも、その悩みから逃れず、それを正視して、反省すべきは素直に反省し、その中に自分の成長を見届けていく。そういう地道な努力が求められているのだと思います。
 ちなみに、虫メガネに嵌める最高級レンズは、「嬉しい、楽しい、ありがとう」という意識です。その特殊レンズは、風の集いで無料配布していますので、どうぞ何枚でもご遠慮なくお持ち帰りください。(2011・6・27)

星野富弘作