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『人生の折り返し点』
  『ニッポンの底力』(講談社)では、日本の「文化の祖型」には、「追放と復活」のモチーフがあると指摘しましたが、追放が復活に転ずるためには、どうしても「折り返し点」が必要となります。そのような「折り返し点」は、文明にも国家にも個人にも、必ずあります。そして、たいていの場合、「折り返し点」は試練という形で訪れます。
 アメリカ文明からアジア文明のパラダイム・シフトがある時も、人類は何らかの形で試練を体験することになるでしょう。それが、切に戦争ではないことを祈りますが、痛みを伴わない試練というのはあり得ません。
 今回の東日本大震災は、日本にとっての「折り返し点」の一つであることは間違いありませんが、国民の自覚が不徹底だと、もっと大きな歴史的試練が襲いかかってくるかもしれません。日本人は、もういいかげんに眼を覚まして、物欲の生活から、精神性の生活に転換しなくてはなりません。
 個人レベルでの「折り返し点」も、病気・事故・失業・離婚などの形でやって来るので、当人の眼には挫折や失敗のようにしか映りません。しかし、その瞬間、すでに復活が始まっているのです。冬の大地に、早春の芽吹きが用意されているようなものです。
 私の場合、十四歳の家出、三十四歳の寺からの家出、四十八歳のアメリカからの家出が、「折り返し点」だったのかもしれません。そのつど、人生の場面が大きく変わりました。その渦中では失意や戸惑いもありましたが、少し時間を経て振り返ってみると、それが掛け替えのない成長の糧だったことに気づかされます。
 「折り返し点」は、繰り返しやって来ますが、それは人間として成長の機会を与えられているということです。「万事塞翁が馬」とか、「禍福はあざなえる縄の如し」とかいった諺は、人間の人生には良いことと悪いことが交互に起きる事実を伝えています。しかし、禍福の「折り返し点」のたびに成長させてもらえるのなら、災禍はじつは単に災禍ではなく、祝福ですらあると受け止めることができます。
 ときどき高齢者の方にお会いして、戦争体験などを聞かせて頂くと、よくぞ絶望的な状況の中、めげずに生き延びて来られたなと感心させられます。三次元に生かされている人間はある程度、長生きして、人生の辛酸をなめてこそ成長できるのかもしれません。この肉体を大切にして、一日でも命長らえ、少しでも学習の機会を増やしたいものです。
 (2011・8・23)
   

「追放されるスサノヲ」