【更新は不定期。】

『樹木は語る』
  カリフォルニアに、十日間ほど旅してきました。その間、まったく「折々の言葉」を更新していなかったので、なぜだろうと思われた方も多いかもしれません。せっかくホームページを開いて頂いたのに、申し訳ないことをしました。今回は旅をしながら、11月に角川文庫から刊行予定の『法然オジサンに聞いてみよう』(仮題)の原稿を書いていたので、ほかの文章を書く気にならなかったのです。
 カリフォルニアを訪れるのは久しぶりですが、私はアメリカに暮らしていた頃から、西海岸特有の解放感がとても好きでした。今回は森を訪ね歩く旅でしたが、カリフォルニアにはセコイアやレッドウッドのように、日本には存在しない巨木の森林があります。そういう巨木を初めて見る人は、「地球上にこんな木もあったのだ」と、腰を抜かすほど驚くかもしれません。
 私は昔から、どこの国を訪れても森の中を歩くようにしていますが、それは樹木から元気と智恵を授けてもらえるような気がするからです。『エロスの国・熊野』(法蔵館)という私の最初の本も、熊野古道を歩いた時のインスピレーションだけで書いた本です。日本の森は外国の森とは異なって、壮大なスケールというのはありませんが、緑がしっとりとしていて、その中を歩いていると、とても癒されるように感じます。とくに神社の神域にある樹木からは、特別な気配を感じます。ああいう場所にある樹木というのは、ほんとうに威厳があり、とても強い気を発しているので、摩訶不思議です。
 成田空港に着いてから、翌日に予定されていたよみうりホールでの講演会まで時間があったので、今まで一度も訪れたことのない鹿島神宮に足を運んでみました。成田から鹿島に向かう電車の中で、すでにその地域一帯に流れる強い古代王朝の匂いを感じましたが、神宮を訪れて、ますますその感を強めました。
 とくに鹿島神宮・奥宮の背後にある大杉は、今だかつて私が遭遇したことのない衝撃的なご神木でした。私はどのご神木にも、感謝念仏を称える習慣があるのですが、「アリガト」の声に、その木は確実に感応道交してくれました。それがどういうものであったか、ここでは敢えて書きませんが、確かめたい人は、ご自分で参拝してみてください。興味本位ではなく、敬虔な気持ちで、ご神木に触れてみてください。
 『古事記』を読むと、古代日本人が周囲の山川草木と生き生きとして会話していた光景が繰り返し描写されています。それを神話上のフィクションと読むのは、近代合理主義に冒された現代人の悲しさです。古代の人々は、ほんとうに自然と会話していたのです。頭でっかちの現代人に欠けているのは、自然と会話するだけの身体感覚です。
 その感覚を国民が取り戻せば、日本は必ず復活します。その身体感覚は、知性と矛盾するものではなく、その知性を単なる情報の集合体から、生きた智恵に転換してくれるものです。皆さん、ぜひ今日は、近くにある森を訪れて、樹木の声に耳を傾けてみてください。
 (2011・9・14)
   

「レッドウッドの森」