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『生きてこそ』
   人間は、何があっても、与えられた生を全うする責任があります。病気も、倒産も、人間関係のもつれも、みずからの命を絶つまでの理由になりません。すべての試練は、魂の成長のために与えられている「峠」のようなものですから、どんなに苦しくても、その「峠」は次々と乗り越えて行くべきものです。
 肉体を終わらせる決断を下すのは、自分ではなく、神さまです。もうそろそろ店じまいをしたいと思っているご老人もおられるでしょうが、そんな人にかぎって百歳ぐらいまで生きてしまったりするのも、そのためです。
 喜びも悲しみも、肉体あってのことです。肉体があるために、病気になったり、人とぶつかったりして苦しむのも事実ですが、反対に、おいしいものを食べて、おいしいと思えるのも、美しい風景を見て、美しいと思えるのも、肉体があってこそのことです。
 命を授かり、病気になったり、事故に遭ったりしながらも、生きながらえているということは、一つの大きな奇跡です。人間一人一人の存在が、奇跡そのものと思えば、一日たりとも無駄にできるものではありません。
 肉体は神が宿る社でもあるわけですから、なるべく清潔に、そして健康に保つ必要があります。そして働いてばかりじゃなくて、たまには温泉に浸かって「いい湯だな」とか、美酒に酔い痴れて「いい気分だなあ」と思うことも、肉体に宿る神さまが喜ぶことです。「風の集い」で、大真面目に感謝念仏をしている時だけではなく、懇親会で戯れ笑っている時も、天上の神々が祝福してくれているのです。
 できることなら、朝起きてから、夜眠るまで、「嬉しい、楽しい、ありがとう」と思える時間を一分一秒でも長くしたいものです。そして、息の根の絶えるその日まで、何か人様のお役に立てる生き方が出来るのなら、人間として最高の人生ではないでしょうか。
 まあ、人の世のことですから、一寸先は闇です。何があるか分かりませんが、今日という日に素直に神仏に手を合わせ、「ア・リ・ガ・ト」と感謝をしていれば、どんな時にも、きっと守られると思います。(2012・10・7)



「SOHO禅フランス会場となる修道院」




「修道院の外観」




「修道院の門」


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