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『死海に浮かぶ』
  いま、外務省主催の「イスラム世界との未来対話セミナー」に出席するため、ヨルダンに滞在中なのですが、時差で眠れないので、夜中にこの「折々の言葉」を書いています。窓の外は、大雪です。中東でこんなことを体験するとは、想像もしていませんでした。
 会議前にタクシーを雇い、死海まで行き、真っ青な水面に浮かんで来ました。あれだけカラダが浮いてしまえば、死海というけど、絶対に死ねません。「この湖で泳いでるのは、塩ダラぐらいかな」と愚かなことを考えながら、穏やかな太陽の光のもと、水面に漂っているだけでカラダの毒素が抜けていくような心地よい感覚を受けました。
 ところで日本を発つ前に、故・森信三氏の教えを信奉する人たちが開催している講演会に呼んで頂きました。それだけ多くの人から慕われている森信三という人がどういう人なのか理解したくて、断片的にその人が書いたものを目にしたことがありますが、それでもよく分かりません。
 しかし、あちこちで森信三先生に心酔している人に、お会いします。なぜ、そこまで心酔しているのかと思って、また彼の書いた文章などを垣間見てみるのですが、やっぱり古文典籍には造詣が深いものの、具体的にどういう行動をとられた人物なのか、いまだに理解できないでいます。
 少なくとも森信三という人は、とても真面目な人だったようです。それは、彼を信奉する人たちにも大真面目な方が多いことからも察しがつきます。でも私自身は、マジメということがあまり好きではありません。
 私の師匠も生涯独身で、とても真面目な人でした。五十代半ばでも、われわれ修行僧と同じように、いつも三時半に起きて勤行をし、徹底的な菜食主義で、肉はもちろん、卵も牛乳も魚も口にはしませんでした。そのくせ晩酌は欠かしませんでした。
 独り酒はよくないと思っていたので、時々、話し相手になりましたが、興に乗ると二時間でも三時間でも日本帝国海軍の歴史をとうとうと語り続けました。その間、ずっと正座して聞かされることの辛いこと。いまやたらと私の膝が痛むのは、酔っぱらった師の長話のせいかもしれません。
 三千家の菩提寺でもある大徳寺の管長のくせに、極端に社交を嫌い、誰とも会いませんでした。学問に否定的な叩き上げの禅僧でしたが、筆を持てば、その書はまさに達人の域に達していました。大徳寺管長の墨蹟ともなれば、一枚何十万円で売れるのに、そんな欲は持ち合わせませんでした。いまの坊さんたちが、小学生の習字みたいな字を書いて、金儲けしているのを見ると悲しくなります。
 そして、とても寒がりのくせに、底冷えする部屋に暖房も入れず、いつも素足で頑張ってました。いつか黙って石油ストーブを置いておいたら、烈火のごとく、叱られました。ひとたび怒れば、殺されるのではないかと思うほど、恐ろしい人でした。
 九歳のとき愛媛の漁村で暮らしていたご両親が結核で亡くなって以来、地元の寺に預けられ、その後、特攻隊に送り込まれ、終戦後は、禅堂で泣く子も黙る厳しい師匠のもとで、鍛え抜かれた人だったので、ともかく自分にも他者にも「甘え」というものが、ほとんどない人でした。
 そして今の私より若い六十歳のとき、肝臓ガンで急死しました。師には彼の息の根が絶えるまで、弟子として身を呈して尽くしたつもりでいますが、私から言えば、バカです。
 真面目というのは、ロクなことがありません。道元もそうです。彼の言葉は、いつも清明で、心打たれます。しかし、雪深い永平寺にこもって、九十五巻もの『正法眼蔵』を書いて、五十三歳で死んでいます。
 そんな長くて難しい書物を書く暇があったら、永平寺の裏山でもウォーキングして、たまには越前の名湯ででも養生されればよかったのにと思います。法然の易行往生という考えを頭から否定したストイックな人物ですから、そんな怠慢を自分には許せなかったのでしょう。
 人は無理をせず、適度に運動し、おいしい物を少し食べ、ゆっくり温泉にでも浸かって、馬の合う人と楽しく語らい、天寿をまっとうすべきです。その中で、ごく自然に気づいていくことが、真の悟りではないでしょうか。それこそが、死海で戯れるナマグサ坊主の私の悟りです。
 ところで、この春から「風の集い」が、広島や神戸や大阪やパリでも開かれることになりました。それを主宰している町田宗鳳は極めて不真面目な男でも、「ありがとう」の言霊は、やはり放っておいても広がるのだなあと感じ入っています。感謝念仏・観音禅・夢実現念仏の三種類の瞑想法を実践しますので、ご都合のつく方はぜひご参加ください。(2012・3・1)



「死海浄土」


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