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『イスタンブールの夜』
   ヨルダンの首都アンマンでの国際会議を終えて、このまま帰国するのは、もったいないと思い、帰途、トルコのイスタンブールで三日間過ごしました。以前からイスラム建築の秀逸性には敬意を表していましたが、今回も市内にある巨大なモスクの精緻な美しさに、思わず息をのみました。愚像崇拝を否定するイスラム教徒は、いっさいの具象画を描くことはありませんが、そのぶん建築と抽象文様に、卓越した才能を発揮するようです。
 それにしても、古都イスタンブールの観光を楽しいものにしてくれるのは、市内をめぐる路面電車です。狭い石畳の道を最新式の電車が、ひんぱんに静かに走っており、運賃も安く、市民と観光客にとって欠かせない足となっています。
 私は京都市の出身なので、市電が無くなって以来、あの町の雰囲気がガラッと変わってしまったことに落胆する者の一人です。排ガスや渋滞が深刻な問題となっている今日、京都のみならず、全国各地で美しい路面電車が復活すれば、都市景観の回復に役立つのではないかと思います。
 ところで、私がイスタンブールでもっとも感動したのは、夜の文化センターを訪れて見た二つの舞踏です。一つはイスラム教のスーフィーによる回旋舞踏です。それは、神との一体感に浸ることを目的とした宗教儀礼として、厳粛に執り行われます。回旋が始まる前に、踊り手がゆっくりと歩き回りながら、丁寧におじきをし合うのですが、そこにも創造神話にまつわる深い意味があると聞きました。それにしても、よくも目が回らないものだと思いますが、堂々たる体格の男性たちが、真っ白なスカートをひるがえしながら回旋する光景は、圧巻です。
 二つ目は、有名なベリーダンスです。もちろん、美女が舞うベリーダンスも、うっとりするほど妖艶なものですが、男性のベリーダンスの迫力には、言葉を失いました。舞踏に合わせて、古典的楽器が奏でる美しい音色にも、心奪われました。皮膚の露出度が高いベリーダンスは、卑猥な印象を与えがちですが、そんなレベルをはるかに超えて、きわめて芸術性の高い舞踏です。
 私は昔から世界各地の民族舞踊を鑑賞するのが、趣味の一つになっていますが、今回も期待を上回る体験をもつことができました。人間の肉体が表現する美が完成の域に達するまでには、幾世代にもわたって多くの人々の知恵と努力が注がれて来たという事実に、感動するのです。
 私が今までもっとも衝撃を受けた民族舞踊は、ヒマラヤ山中で荷役ポーターたちが、寒さ・疲労・空腹を忘れるために、粗末な服をきたまま踊り続けた輪舞です。そこには死と隣り合わせにある「生の叫び」のようなものを感じました。
 世阿弥の長男・観世元雅の能楽『隅田川』の中でも、人買いにさらわれた子の死を知った母が絶望の中で、隅田川河畔で舞い狂う場面がありますが、踊りは言語をはるかに超えて、人間感情のもっとも深いところに潜む想念を表現する力をもつものです。
 「風の集い」でも、どなたか「風の舞」、あるいは「ありがとう踊り」の振り付けでも編み出してくだされば、参加者全員で楽しく踊ってみたいものです。ただし、ベリーダンスふう振り付けだけは、もろもろの理由により、やめておきましょう。
 ちなみに、今週水曜日からNHK教育テレビで『仕事学』(夜十時過ぎ)という番組が四回連続で放映されていますが、稀代の偏屈建築家・安藤忠雄氏の横でこき使われている若者の場面がチラチラ出てきますが、それがわが次男坊・玄です。親父が死海で浮かんでいるうちに、長男がカーネギーホールで太鼓を打ち、次男が大阪から世界の建築を設計してくれているのですから、私のグウタラ教育哲学も、まんざらではありますまい。(2012・3・8)



「回旋」



「ベリーダンス」


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