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知的社会研究所

Institute for Studies on the Intellect-based Society

(ISIS)

 

6. ヒトの社会システムの進化─アメリカ合衆国のかたち(1. への追加)

6.6. アメリカ建国の要因(4)連邦政府の成立と独立革命

1)はじめに

2)ボストン茶会事件

 (1)エリート弁護士ジョン・アダムズの登場

 (2)東インド会社へのイギリス政府経済支援が起こしたボストン茶会事件

 (3)イギリス政府の「強圧的諸法」に付随していた「ケベック法」

3)啓蒙思想家トマス・ジェファソンの登場

 (1)トマス・ジェファソンの生い立ち

 (2)矛盾のかたまりだったジェファソン

 (3)ジョン・ロックの思想を受け継いだジェファソン

 (4)革命のイデオロギー論争を制した思想家ジェファソン

4)「国家」を求める大衆の心

 (1)「国家」のもとに共通の利益を探究する欲求と経済不況にたいする恐怖

 (2)「自由が奪われ法による秩序が破壊される」ことへのアメリカ人の恐怖

 (3)イギリスの武力行使宣言、植民地の同盟のための第一次大陸会議

 (4)外交官としてのベンジャミン・フランクリン

 (5)レキシントンとコンコードでの武力衝突

 (6)フランクリンの活動─長期の戦争を予想した準備と連合規約原案の作成

 (7)第二次大陸会議─ワシントン総司令官が陸軍を創設、植民地連合の結成

 (8)イギリス国王との訣別を決定づけたトマス・ペインの「コモンセンス」

 (9)ジェファソンが書いた独立宣言

 (10)独立宣言のブラックホール─奴隷制

 (11)独立宣言案の審議で幸運にも議論されなかったこと

 (12)各州で制定された憲法のモデルとなったマサチューセッツ憲法

 (13)実質的に初のアメリカ憲法となる大陸会議の「連合規約」の制定

5)独立戦争の経過と決着

 (1)8年半もつづいた独立戦争のパラドックス

 (2)偉大な総司令官ワシントン

 (3)二流の人材を指揮官にあおいだイギリス軍

 (4)戦争の成り行き

 (5)ヨーロッパに同盟を求めたアメリカ特使フランクリン外交の成功

 (6)フランス艦隊に支配された制海権

 (7)戦争終結とフランクリンが立案者かつ立役者として働いたパリ講和会議

 (8)アメリカとイギリスの不思議な関係─イギリスとの単独講和

6)アメリカ革命の甚大な影響

 (1)大した損害も受けず工業大国への道を進んだイギリス

 (2)弱体化したヨーロッパの王室

 (3)イギリスに裏切られたアメリカ先住民

 (4)南部奴隷制の拡大

 (5)奴隷制廃止運動の加速

 (6)国王忠誠派のカナダへの移動─代りにカナだを手に入れたイギリス

 (7)内戦の悲劇をかろうじて免れたアメリカ独立戦争

 (8)ワシントンによって阻止された軍事政権への動き

 

文献

【文献27】Paul Johnson, A History of the American People, HarperCollins Publishers, Inc. (1997)、ポール・ジョンソン「アメリカ人の歴史」(I、II、III)(別宮貞徳、べっく さだのり、訳)共同通信社(2001);6.3., 6.4., 6.5., 6.6., 6.7., 6.9., 7.2., 7.3., 7.6., 7.11.

 

1)はじめに

それにしても、この時点から建国にいたるまでの道程ははるかに遠く、目的地は地平線の遥かかなたにかすんでいてまだ見ることはできません。多様な人種、多様な宗教、多様な各植民地、それらがさまざまな利害の対立を越えてまず共和制のひとつの国家にまとまらなければ、そもそも戦争することは不可能です。軍隊も組織しなければならないし、インディアンの脅威も問題です。たまたま愚かな首脳陣が揃っていたとはいえ、イギリスは政治的にも経済的にも軍事的にも当時の超大国です。だから、いろいろな分野をカバーする超一流の才能が必要だったのです。そして必要とする多彩な才能がこの時期のアメリカに集中して現われた、このことは世界史上非常にまれな幸運であり奇跡です。しかも彼らはその際立った個性のゆえに対立せず最初から協力しました。

 

2)ボストン茶会事件

ついにボストン茶会事件が起こり、事実上アメリカ独立戦争の引き金が引かれました。事件の内容を見てみましょう(【文献27】(I)p.218-220)。その前に、ここで活躍を開始するアメリカの生んだ知的エリートであるジョン・アダムズを登場させましょう。アリカには伝統的に弁護士出身の政治家が多いのですが、彼もハーヴァード大学出身の弁護士です。ここでは、ワシントンとフランクリン(6.5. 参照)についで三人目に登場するアメリカ独立の父祖です(【文献27】(I) p.217-8)。(1)〜(3)です。

(1)エリート弁護士ジョン・アダムズの登場

ジョン・アダムズは1735年のクインジー生まれで、マサチューセッツ湾植民地農民の四代目の子孫だった。独善的で自説を曲げず、独立心旺盛で反抗的、というマサチューセッツ精神が骨の髄まで染みついていた点では、かってボストンコモンに足を踏み入れたことのあるどの市民にもひけを取らなかった。ハーヴァード大学出身で、この有名校特有の高潔な知的優越感を抱いており、しかも1764年にウェイマス(ボストン南郊の町)のアビゲイル・スミスと結婚したことでその自尊心はいっそう高まった。アビゲイルは、有能で明晰、しかも魅力的で社会に名を知られた女性である。

ボストンの原初共和派はホイッグ党を名乗っていたが、これはロンドンの議会でイギリス政府批判を展開するエドマンド・バーク、チャールズ・ジェイムズ・フォックスらに共感してのことで、アダムズは印紙法反対闘争の当時、このホイッグ党のメンバーとして有名になった。「ボストン・ガゼット」紙に、匿名でイギリス政府を攻撃する4つの注目すべき記事を書き、のちに実名で『教会法と封建法に関する考察』(1768)を発表し、印紙税は憲法にも法令にも違反しており無効だと論じる。あからさまな衝突が起こるまではイギリスの公平さが盛んに喧伝されていたため、アダムズはこの激烈な攻撃演説をわざわざロンドンで出版したのである。当時アダムズは三十代、ボストンでは著名な弁護士。若きアダムズはひときわ目立って、しかも辛辣だった。

しかし、ここで注意しておかねばならないのは、アダムズは当時もその後も、議論に耳を傾ける人がいるかぎり武力に頼るような人物ではなかった。いとこのサム・アダムズやその他の暴徒とは異なりボストン市中の暴力行為を遺憾に思い、「虐殺」容疑で告発されたイギリス軍兵士を弁護士として弁護する用意もあった。そのアダムズでも、1773〜4年には辛抱しきれなくなる。イギリスの首相ノース卿の並はずれた愚行によって、ボストン駐屯のイギリス軍が、弱いくせに復讐心に駆られ高圧的でしかも滑稽な態度を見せたからである。

(2)イギリス政府の東インド会社経済支援が起こしたボストン茶会事件

ボストン茶会事件は、もともとアメリカとは何のかかわりもないのである。当時、東インド会社は財政的混乱に陥っていた。会社の経済支援のため、ノースは法律を制定して東インド会社が茶をアメリカに直接「割引価格」で送れるようにした。同時に、イギリス政府は密輸対策を強化する。アメリカでは貿易商人の約9割までが密輸にかかわっていたため、こうした業者は憤慨する。ボストンの大衆は、こうした措置が自分の生活を脅かし、憲法上の権利を侵害すると考える。

一方、喜んだ東インド会社は、3隻の船に茶298箱、金額にして1万994ポンド相当分を積み込んでボストンに送り出し、船隊は1773年12月16日にボストン埠頭に到着する。オールドサウス集会所で対策を協議していた民衆の数は7000人に達していた。船長との交渉が始まる。同時にハッチンソン総督に課税の免除を懇願するが総督は拒絶する。このニュースが群衆に伝えられると声があがった。「お茶と海水を混ぜたら、どうなるかな」。議論のまとめ役を頼まれたサム・アダムズ(ジョン・アダムズのいとこ)が、「低い声で」つぶやく、「國を救うためには、それしかない」。

扉が勢いよく開くと、千人もの男たちが列をなして波止場に向かった。準備はできていたのである。「愛国者たちは毛布をまとい、頭を布で覆って顔を赤銅色に染め、それぞれ斧やまさかり、二丁拳銃で武装していた」。この「アメリカ・インディアン」の一群は、ミルク・ストリートを駆け下りてグリフィス埠頭に着くと、「ダートマス号」によじのぼり茶箱をたたき割っては海に投げ込む。「折からの干潮で、茶の葉が巨大な干し草の山のように盛り上がった」。次には「エレノア号」と「ビーバー号」が襲われる。その夜9時には、東インド会社の船は3隻とも船荷をひとつ残らず捨てられて空っぽになっていた。

ボストンの著名なパンフレット作家で演説家でもあったジョサイア・クインジーは次のように述べている。「ボストンの市民は、誰でもこの夜のことは決して忘れないだろう。これは、この國では例を見ない、つらいがすばらしい闘いの先駆けとなるにちがいない」。

ジョン・アダムズは、殺された者はもちろん、負傷者がなかったことを抜かりなく書きとめている。そして、この行動は力の行使ではあったが、体制上の問題をまさしくドラマチックに表現するものとして必要だったと評価している。即ち、「民衆の蜂起には、記憶に残るできごと、注目に値し、印象に残る行動がなくてはならない。茶の投棄は、大胆にして型破り、力強くかつ勇猛で毅然としており、その影響は大きく、また長くつづくにちがいない。それゆえ、これは歴史上画期的な事件と考えざるを得ない」。

アダムズの見かたは正しい。ボストン茶会事件は、アメリカ、イギリス双方に、自分たちがいったいどんな立場に立っているのかをいや応なしに考えさせる効果があった。見解は二極化した。アメリカ人あるいはその大部分は、明るい気分になり誇りを感じた。イギリス人あるいはその大部分は、腹を立てる。サミュエル・ジョンソンは、茶会事件を窃盗およびフーリガン行為と見て格言をつくった。「愛国心はならず者の最後の口実である」。

(3)イギリス政府の「強圧的諸法」に付随していた「ケベック法」

1774年3月、政府の要請によりイギリス議会はボストン港を全面的に閉鎖し、その2ヶ月後「強圧的諸法」を通過させる。理屈に合わないが、そしてよくあることだが、この懲罰的諸法にはカナダに高度の自由を認める「ケベック法」が付随していた。これによってカナダのカトリック教徒の住民は安心し、上カナダと下カナダは自治政府とイギリス領自治領への道を着々と歩むことになった。ケベック法は、カナダ人、とりわけフランス語圈の居住者にイギリス国王に忠誠を守らせるために制定され成果をあげた。

しかし一方で、アメリカのプロテスタントを怒らせ、またも長期にわたる陰謀が進んでいるのではないかとの疑いを抱かせた。ジョン・アダムズはこれを、「スチュアート王朝の忌まわしい専制政治」と呼んでいる。当時の感情的雰囲気からすればそう思われても仕方がない。さらには、ボストンをはじめ各地のアメリカ市民にイギリス軍部隊の宿営を強制的に割り当てる「宿営法」などもあり、こうした法律をアメリカのメディアは「耐えがたい諸法」という名でひとまとめにする。そしてこれが、アメリカ独立戦争の事実上の発端となるのである。

 

3)啓蒙思想家トマス・ジェファソンの登場

独立戦争を戦うには、北アメリカの諸植民地が同盟を結び、フランクリンが提案していた連邦政府を設置することが必然的に重要なことになります。つまり諸州を代表する国家の建設です。ここで登場するのがアメリカ建国の父祖のひとり、トマス・ジェファソンです。この章に出てくるのは、ワシントン、フランクリン、ジョン・アダムズに次いで四人目です。以下の(1)〜(4)です。(【文献27】(I)p.221-5)

(1)トマス・ジェファソンの生い立ち

トマス・ジェファソン(1743ー1826)はその頃三十代前半、ヴァージニアではすでに名の通った政治家になっていた。

ジョージ・ワシントンと似た大農園主の家系の出で、ヴァージニアの名家の多くと親族関係にあった。父ピーター・ジェファソンは測量技師、フエアファックス卿の大領地の一部だった北部荒野の地図を制作している。ジェファソンは10人の子どものひとりで、献身的な姉ジェインに、本を読むこと、音楽を愛することを教わった。ヴァイオリンが得意で旅行にはいつも小さな楽器を携えていた。フランスやイタリアの歌を好んで歌った。16歳でウィリアム・アンド・メアリ大学に入学したときには、もうラテン語やギリシャ語にも堪能だった。乗馬、狩猟、ダンスもこなし交遊の才に恵まれていた。スコットランド人の教授ウィリアム・スモールの忠実な弟子である。スモールは、アメリカで最高の科学装置を大学に導入した学者。17歳年上でヴァ−ジニア出身の優れた法学者ジョージ・ウィズにも師事している。ウィズは当時のアメリカに輩出した意欲的な博学者のひとりで、自宅は才能豊かな客でにぎわっていた。ジェファソンは、「このふたりが我が人生の運命を決めた」、と述べている。

ジェファソンは、ある意味で啓蒙思想をそっくり体現しており、ウィズの弟子の中で最初に頭角を現わした。多方面にわたる学識、才能、感覚、それに業績でも並ぶものはなく、教養あるアメリカ人から何世代にもわたってワシントンやリンカーンをしのぐ評価を得ている。1985年の上院議員の世論調査で、保守派もリベラル派も一様にジェファソンを自分の「お気に入りのヒーロー」と考えていることがわかっている。

この非凡な人物については、誰もが熟知しているか、またはそのつもりでいる。20巻におよぶ著作集は読者をたじろがせるほどテーマが多岐にわたっている。その上、25巻の論文集といくつもの書簡集があり、その中には弟子で後継者のジェイムズ・マディソン宛ての手紙だけをまとめた分厚い3巻も含まれている。マディソンもアメリカ建国の父祖のひとりである。

(2)矛盾のかたまりだったジェファソン

ジェファソンはさまざまな点で、矛盾のかたまりだった。奴隷制を不道徳な制度と認め、奴隷を抑圧する以上に奴隷所有者を堕落させる害が大きい、とみていた。しかし、自分では成人後も生涯奴隷を所有し、売買し、増やしている。理信論者あるいは懐疑論者だったようだが、「隠れ神学者」でもあり、毎日新約聖書の多国語版を読んでいた。教育に関してはエリート主義で、「この方法で毎年くずの中から最良の20人の天才を選り分けられる」と言いながら、半面エリートを罵倒する。「烏合の俗衆に抜きんでながら、権力と富の座に安住しようといつも策を弄する輩」と。また、民主主義擁護者で「人民による選挙の権利を片時も目を離さず守っていく」と発言する。しかし、上院に関しては「人民みずからの選択が、必ずしも叡智をともなうとはかぎらない」として直接選挙に反対している。もしかしたら革命の暴力を賞賛する過激派になれたかもしれない。「一世紀半も何の暴動もなかった國がかってあっただろうか・・・自由の木は、愛国者と圧制者の血によって時折活性化されなければならない。その血は天然のこやしになる」。

しかし、ワシントンについてはこう述べている。「おそらく、その穏健、高潔な人柄が革命の挫折を防いだ。多くの革命は、確立をめざしたはずの自由をくつがえすことで終わってしまうものだが、おかげでそうならずにすんだ」。ジェファソンほどアメリカ合衆国の創設に貢献した者はいない。しかし、ヴァージニアを「わが国」、連邦会議を「外国の立法府」と呼んでいた。愛読書は『ドン・キホーテ』と『トリストラム・シャンディ』(L・スターンの小説)。

そのくせユーモアのセンスは持ち合わせていなかった。妻を早く亡くしたあと、黒人の愛人を持ったと言われている。一方、卑猥な冗談や汚い言葉には道徳家ぶって口やまかしく、「不愉快だ」と悟らせる表現を磨いていた。とびきり激しい言葉をつかうこともできたが、ふだんは落ち着いた小声で話し、雄弁家のたぐいを軽蔑した。書物が生涯にわたる情熱の対象で、財力を超える膨大な量の書籍を収集したものの、やがて金を工面するために蔵書を残らず議会に売り渡すはめになる。

毎日考えつくかぎり詳細な帳簿をつけていたのに、莫大なしかも取り返しのつかない赤字運営になっていることには気がつかなかった。誇張癖もあった。しかし厳格さを愛した。あらゆる数字、重さ、距離、数量をこまごまと書き残している。馬車には車輪の回転を記録する装置をつけ、自宅には湿度計、雨量計、温度計、風力計がひしめいていた。自分で選び指輪に刻んだモットーは、「暴君への反逆は、神への服従である」。しかし実際には暴力を避け神の存在は信じていなかった。

ジェファソンは、十四歳で父から2000ヘクタール余りの土地を相続した。夫と死別した裕福なマーサ・ウェイル・スケルトンと結婚し、妻の父親が死ぬとさらに約4500ヘクタールの土地を譲り受ける。この上流階級の青年がヴァージニア植民地の下院をめざすのは自然な成り行きで、1769年に下院議員となり、そこでワシントンと出会う。当初から、演説ではなく存在自体で議会に並はずれた神のごとき印象を与えていた。アビゲイル・アダムズ(ジョン・アダムズの妻)はのちに、その外見を「神のようとも言えなくもない」と述べている。あるイギリス人の役人も「もしこの男をヨーロッパの王の横においたら、王の方が従僕に見えるだろう」と言っている。

(3)ジョン・ロックの思想を受け継いだジェファソン

ジェファソンが最初に崇拝したのは、同僚のヴァージニア人、パトリック・ヘンリーだった。この人物は、ジェファソンにないものを全部そなえているように見える。激情家、過激な民衆煽動家にして思慮におぼれない行動派、口から発する言葉で人の感情を燃え立たせる力があった。

しかし、ジェファソンはそれ以上に大切な資質に恵まれていた。歴史状況を深く分析し、行動指針を提案し、それを審議会が合意に達するように説明する力にほかならない。印紙法の騒乱からボストン茶会事件にいたる10年間に、おおぜいの有能な文筆家がアメリカのディレンマに制度的な解決法を示した。しかし、1774年、それらの論のすべてをひとつのすばらしい論文『イギリス領アメリカの諸権利概要』にまとめたのがジェファソンだった。それは、独立に向かって歩みを進める先駆者たちの著作─ジェイムズ・オーティスの『イギリス植民地人の権利を擁護する』、リチャード・ブランドの『イギリス領植民地の諸権利に関する研究』(1766)、およびサミュエル・アダムズの『植民地の権利についての声明書』(1722)─と並んで、ジョン・ロックの『統治二論』の第二論文第五章に深く依拠していた。

この論文は、人が美徳や才能や勤勉によって地位を得る能力主義社会(メリトクラシー)の長所を述べたものである。ロックは、富の獲得は、たとえその額が大きくても、公正な手段で得たものであれば正義にもとることでも道徳に反することでもない、としている。これにより、社会は必然的に生まれではなく個人の能力によって階層分化する。怠惰に対立するものとして勤勉を正義の社会の決定要因とする理論は、国王や貴族とその取り巻き連中にはきわめて不利にはたらき、代議制共和主義政体には好ましい影響をおよぼすものだった。ジェファソンが小冊子で展開した論は、ロックの能力主義的社会論の二つのテーマと融合していて、革命闘争の強力な中心思想となる。まず第一に個人の権利の優越─「われらに生命を授けた神は、同時に自由も与えた。たとえ権力の手がわれらを滅ぼそうと、この天賦の諸権利を奪うことはできない」。

(4)革命のイデオロギー論争を制した思想家ジェファソン

同じように重要なのは、ジェファソンが深い、ある意味で根元的な関心を持っていた人民政府の枠組みに、この諸権利を組み込んだことである。「物事の本質から見て、それぞれの社会はいかなるときもその内部に立法の主権を保持していなければならない」

ジェファソンは、ともに神の摂理に根ざす人民の政府と自由を結びつけ、さらにそれを古代の習慣とイギリスの伝統で正当化する。こうして、アメリカ植民地人の行動を支える力強く明確でわかりやすい思想的基盤が提示された。イギリス政府とアメリカの忠誠派が展開する議論は、この何分の一の力も持っていない。彼らは現行の法と自分たちの考える義務に訴えるだけ。それしかなかった。アメリカの反逆者は、最初からメディア戦争で勝利を収め、イデオロギー論争もまたたくまに制したのである。

 

4)「国家」を求める大衆の心

2回の大陸会議(1774、1775)を経て独立宣言(1776)が行なわれ、あらためて独立国の州として州憲法が整備され、実質的に初のアメリカ憲法となる連合規約(1777)の成立に至る劇的な過程を見てみましょう。以下の(1)〜(13)です。(【文献27】(I)p.225-245)

(1)「国家」のもとに共通の利益を探究する欲求と経済不況にたいする恐怖

しかし、ほんものの剣を振るう戦いが始まる前に、反逆者は心理戦(人心掌握の抗争)にも勝たなければならなかった。アメリカのふつうの男女がさまざまな理由で立ち上がり、まず共和制を求める。それは「レス・プブリカ(国家)」つまり共通の利益の探究に、それぞれの利己的で多様な利害を託すことである。これを過小評価してはならない。自分の名前を書くのもおぼつかない大衆が、「国家」を直感的に強く求めていたのである。その心の中では、共和制が漠然と古代ローマ人の道義や名誉とつながっていた。また共和主義は広い意味を含んでおり、それぞれ自分の最も激しく感じる政治的情動を投影することができた。

しかし、現実には欲求と同時に恐怖もあった。1770年代初めに、イギリスの勢力圏全域で経済不況が目立っていた。1765〜73年にかけてイングランドの作物が不作で1770〜76年は初期の景気循環下降期。イギリスの購買力低下で、アメリカの大半の植民地では輸出が打撃を受け、さらにイギリス産品のボイコットが経済的混乱を増幅する。ニューイングランドの輸出は、1765〜75年の10年間で1765年の実績に達したのがわずか2回。それ以前は長期にわたって順調に成長していたのである。ヴァージニアとメリーランドの輸出は、1765年の実績を頂点に1775年まで毎年減る一方だった。イギリスはこの事態に悩まされ、議会は「アメリカにつけを払わせよう」と決意を固める。だからアメリカ人の間には深刻な不安があった。イギリス政府の苛酷な要求は自分たちの好況(おおかたの入植者はそれしか経験していない)に終焉をもたらすのではないか、と。

(2)「自由が奪われ法による秩序が破壊される」ことへのアメリカ人の恐怖

別の、もっと深層に根ざす恐怖もあった。宗教の次に植民地の政治思潮をはぐくむ大きな力となっていたのは法による統治という考え方である。これはあらゆるイギリス人に共通する考えで、法律は単に必要というだけでなく、どんな市民社会にも欠くことのできない貴いものだった。平日に法廷や議会で起こることは、俗界という違いこそあれ日曜日に教会で行なわれることと同じ価値があった。イギリスの法による統治はマグナ・カルタより古く、マサチューセッツ植民地代議会やヴァージニア植民地下院の先駆けにあたる古代のアルフレッド大王と賢人会議までさかのぼる。

ウィリアム征服王は重税を課そうとして失敗した。十七世紀初頭の法の権威、王座裁判所長コークは、この税を「ノルマンのくびき」と呼ぶ。さらに時を経てチャールズ一世がふたたび導入を試みたものの、長期議会で挫折する。そしてこんどは、尊大で独善的なイギリス議会が、歴史の教訓を忘れて生まれながらに自由なアメリカ人に「ノルマンのくびき」を課し、人々の慣れ親しんだ法による自治を奪い、その法ゆえにアメリカ人がイギリス人と同等に享受してきた諸権利を侵害しようとしている!イギリスの首相ノース卿は、自分がいったい何をしようとしているかに気づけば目が覚めただろうが、それは無理というもの。多くの、いや大多数のアメリカ人ははっきり自覚していた。

このためアメリカ人は、1640年当時のイギリス議会党員がしなければならなかった仕事に取り組むことになった。のちにジェファソンが述べている。「われわれが手がけたのは、ラッシュワースの著書を手助けに、その頃の革命の先例をあさることだった」。この意味で、アメリカ合衆国は長期議会の忘れがたみだった。先例にならうとすれば、「自由が奪われ、法による秩序が破壊されようとしている」というアメリカ人の恐れは劇的に表現されなければならなかった。ここに、ジェファソンの友人で崇拝の的でもあったパトリック・ヘンリーが登場してこの役割を果たす。

(3)イギリスの武力行使宣言、植民地の同盟のための第一次大陸会議

北アメリカの諸植民地が、同盟を結んでイギリス議会の方針に抵抗する準備を進めるため、植民地議会の指導者たちは1774年9月5日から10月26日までフィラデルフィアで会議を開いた。第一次大陸会議である。ジョージア植民地だけが総督に参加を阻止され代表を送れなかった。12植民地の代表およそ50人が一連の決議を採択して、強圧的な諸法撤廃の要求、民兵の組織訓練、納税拒否などを表明する。10月14日には重要な票決が行なわれ、声明と決議を承認する。アメリカの内政事項に対する干渉をきびしく非難し、植民地議会が独自に立法と課税を行なう権利を主張するものだった。一般アメリカ人の政治意識もまとまってきており、代表者たちははっきりと国家意識をもった肉声で発言しはじめたのである。

会議の終わりに、パトリック・ヘンリーは、この変化をいつもの芝居がかったやり方で指摘する。「ヴァージニア人とニューイングランド人の間にもはや区別はない。私はヴァージニア人ではなく、アメリカ人である」。まだ、誰もがこれに同意したわけではなかった。大陸会議で投票したのは、個人としてのアメリカ人というより植民地人である。しかし、この組織は本質的にはフランクリンが以前に示した案にもとづいており、1775年5月に会議を再開する合意がまとまって永続的なものとなった。

その会議に先立つ1775年2月、ロンドンのイギリス議会は植民地の中で最も反抗的で手に負えない存在だったマサチューセッツに騒乱状態を宣言し、状況に応じてあらゆる武力を行使することを官憲に許可する。戦いが始まったのである。ヴァージニア植民地が議会を召集し、第二次大陸会議に代表を送るよう指示したとき、パトリック・ヘンリーは、ヴァージニアは義勇軍を募り戦闘にそなえるべきだと提案する。ヴァージニアはいったい何を待っているのか?マサチューセッツは戦っているではないか。「きょうだいはすでに戦場にある。われわれは、何故いたずらにここにたたずんでいるのか。戦場の紳士たちは何を願っているのか」。ここでヘンリーはひざまずいて、手かせをはめられた奴隷の姿勢をとり、低いが抑揚をきかせた声で唱い上げる。「鎖と隷属の犠牲を払ってあがなうほど人生は貴く、平和は甘美だろうか。全能の神よ、隷属を禁じたまえ!」。

(4)外交官としてのベンジャミン・フランクリン

第二次大陸会議が開催される頃には、もはや引き返せない地点に到達していた。ベンジャミン・フランクリンは、自分はイギリスとアメリカのよき仲介者で、ほかの誰よりも大西洋の両側に意見や事情に通じていると(そのとおりだが)自認していて、1774年にロンドンに赴いた。以後、事実上アメリカの国務長官としての重責を果たす。和平工作を進める中で、不人気なマサチューセッツ総督ハッチンソンの解任請願書を枢密院に提出する意向だった。まだ交渉による妥協を信じていたのである。しかし苦労は報われない。請願は折りあしくボストン茶会事件とそれにつづくイギリスの世論の硬化と重なった。ノース内閣の法務長官アレグザンダー・ウェダバーンは、フランクリンを「不平分子の先導者」とか「大アメリカ共和国の思想にとりつかれた」反逆者と非難し、請願書は「事実無根で腹立たしく、中傷的」だとして却下され、郵政長官代理の職まで追われる。フランクリンがフィラデルフィアに向けてイギリスを出航したとき、和平工作のために自分がロンドンでできることはもう何もない、と腹をくくっていた。

(5)レキシントンとコンコードでの武力衝突

5月5日(1775年)、第二次大陸会議開催予定日の5日前、フランクリンがフィラデルフィアに到着したときには、最初の武力衝突がすでに起こったあとだった。4月19日、イギリス軍16中隊がレキシントンとコンコードにあるパトリオット(愛国派)の武器庫を押収するため派遣された。しかし武器は奪えず、混乱つづきの戦闘は最悪の結果に終わる。73人が戦死、負傷者と行方不明者は合わせて200人を超えた。アメリカ側の死傷者は戦死49、負傷39、行方不明5。ジョン・アダムズは、この損失に大きな動揺を覚えている。「ニューイングランドがこれまで遭遇した最も衝撃的なできごとだった」として、この武力衝突に、内乱のあらゆる悲劇の縮図を見ている。「二、三世代前には親がきょうだいだった者同士が戦っている。そう思うと、身震いがした。しかもこの不幸はいつ終わるのか知るすべもない」

(6)フランクリンの活動─長期の戦争を予想した準備と連合規約原案の作成

アダムズ、フランクリン、ジェファソン、ワシントンは第二次大陸会議で一堂に会した。フランクリンとワシントンは20年前の七年戦争当時に知り合っていた。しかし、他のほとんどは初対面でしかも大半が若かった。フランクリンは、「全員の意見が一致しているのは驚くべきことだ」と記している。

しかし、それは抵抗運動にかぎっての話である。即時独立は、まだ少数派が考えているだけだった。たとえば、イギリスに最後のチャンスを与え和解を求めるためジョージ国王に直訴しようと、「オリーヴの枝嘆願」を執筆した人物もいる。メリーランドの資産家ジョン・ディキンソンである。しかし元来穏健な者でさえこれを無意味だと思った。攻撃的で辛辣なジョン・アダムズは、「豊かな資産と乏しい才能の産物」、「われらの行動に水を差す愚かな所行」と一蹴する。アダムズは、「力と大砲がわれわれのとれる最も有効で確実かつ絶対的な和解に手段だ」と考えていた。フランクリンも暗い気持ちでこれに同意している。もはやイギリスの政治的見解を変えられないのはわかっている。フランクリンは独立だけが唯一の解決法と思うようになり、長期の戦争を覚悟して紙幣の印刷や火薬の製造、独自の郵便制度の立案に追われていたのである。そして連合規約を作成する。これは自身の合同防衛計画を大きく前進させ、アメリカ合衆国憲法の青写真のさきがけともなるものだった。13植民地(今回はジョージアも大陸会議に参加していた)に加えて、カナダ、西インド諸島を含み、希望があればアイルランドにも適用される。イギリスとの訣別は残念だが、アメリカには巨大な経済と人口(両方の側でフランクリンのようにそれらの規模の大きさを評価している人物はさほどいなかった)という利点があり、同盟国を早急にさがす必要はあるにしても、勝利はまちがいないと確信していた。イギリスの過激派ジョゼフ・プリーストリー宛ての書簡に自信たっぷり述べている。「イギリスは、この作戦で300万ポンドを費やして、150人のヤンキーを殺した。1人あたり2万ポンドの出費になる。この間、アメリカでは6万人の子どもが生まれている。」

(7)第二次大陸会議─ワシントン総司令官が陸軍を創設、植民地連合の結成

けれども、一方では、イギリスを交渉の席につかせるには軍隊が必要だという点で全員が一致していた。マサチューセッツの医師ジョゼフ・ウォーレンは簡潔にこう述べている。「アメリカ側が強力な陸軍を持つことが、専制的な内閣の急成長を阻止するために残された唯一の手段である」。彼は大陸会議の暫定議長を務め、まもなくバンカーヒルの戦いで愛国心に殉じた。

しかし、誰が指揮をとるのか。レキシントンの武力衝突のあと、ヴァージニア代表で堂々たる体格のワシントン将軍がフェアファックス民兵軍将校の制服姿で現われるようになっていた。ワシントンは、大陸会議でただひとりの軍服代表である。ジョージ三世の国王宣言(1763年10月、アレゲニー山脈以西への白人移住を禁止)以来、先頭に立ってイギリスの植民地政策を批判していた。印紙法を「合法的な窃盗行為」と呼び、タバコの値段を引き下げたことでイギリスを非難した。タバコはワシントンの「利権」だったのである。邸宅用にイギリス産の品物を買うのを拒み、かわりにアメリカ人に代用品を作らせた。1769年という早い時期から、「最後の手段」としてではあるがアメリカ陸軍の創設を提唱している。ボストン茶会事件には強い不満を示す。それは無秩序な行動で、イギリスに「高圧的な統治」の口実を与える無用の徴発行為ではないかと。しかし、「耐え難い諸法」で決意を固める。とどめの一撃は、七年戦争で働いた将校に気前よく公有地を供与するイギリスの政策だった。恩賞は正規軍のみに適用され、西部の土地に対するワシントンの要求は葬られてしまった。もし、武力に訴える「権利」を持っているとしたらこの男だろう。

ワシントンは、ジョン・アダムズに「1000人の兵を募って自費で養い、ボストンを救うために先頭に立って行進するつもりだ」と述べて、戦闘に熱意を持っていることをはっきりと示した。一方、大陸会議の代表仲間には、インディアンを大きな脅威、「われらの背後の残虐で血に飢えた敵」とみている、とも語っている。この発言はワシントンに有利にはたらいた。代表は経験豊かで真面目な男ぞろいで、性急な人間に指揮されるのを望んでいなかった。そしてワシントンの外観が気に入っていた。「身の丈は靴をはかずに188センチ、体重約80キロ・・・がっしりした筋肉質の体格から、ただならぬ強さが見てとれる」、「相手の顔をきちんと見て話し、慎重で丁重、人をひきつける魅力がある。物腰には常に落ち着きと威厳があり、身のこなしや身振りは品がよく、歩き方は堂々としている」。その上、「広く愛されていた」。

大陸会議の議事録によれば、ワシントンが満場一致で選ばれている。現実にはそれほどの選択肢はなかった。選出されたことに気圧されて、自分で受諾の書状を書くことができず口述筆記させている。署名だけが本人のものである。即ち、ほかの短所はあったにせよ、彼は尊大さや図太さとは無縁だったのである。ワシントンは総司令官の報酬を断り、経費だけを請求する。この態度は大いに共感を集め、その瞬間から、代表団がワシントンを単なる司令官以上の扱いをしようとしたのは明らかである。つまり、この時点から実質的に大統領の地位を占めていた。「大陸会議はここに宣言する。会議は件(くだん)のジョージ・ワシントン閣下を支持し、支援し、同じ大義のために生命と財産を賭してともに戦う」という声明が読み上げられた。

1775年6月14日、大陸会議の合意により、「アメリカ大陸軍」と呼ばれる軍隊が創設される。費用は、個々の植民地ではなく会議が負担し、ペンシルヴェニア、メリーランド、ヴァージニアの辺境で6中隊を編成する。ワシントンはこの軍の規則を作成するよう指示を受ける。新総司令官はすでに7月3日にはケンブリッジで指揮をとっていた。ニューイングランド人がワシントンの選出に非常に熱心だったのは、それまで彼らが戦闘の矢面に立っていたからである。ニューイングランド人は、最大の人口を持つヴァージニアが本格的に関与するかどうかも心配していた。ワシントンは迅速にボストン戦区に移動してその懸念を払拭し、全アメリカ人と國のために大陸戦争を遂行する決意を示したのである。

しかし國はもうできていたのだろうか。ワシントンが陸軍を引き受けてから3日後、大陸会議は「武器をとる理由とその必要性についての宣言」を公表した。ボストンのプロスペクトヒルに初めて植民地連合の旗がかかげられるのは1776年1月になってからである。旗には13本の赤と白の線が交互に並び、左隅には赤、白、青のユニオン・ジャックが入っていた。

しかし、大陸会議のとった方策は、願いどおりにイギリスを交渉の席につかせるどころか逆効果となった。マサチューセッツの最後の忠誠派総督、ゲイジ将軍は本国に報告する。「政府は、断固とした手段をとらないかぎり絶対に勢力を回復できません。現時点では和解の希望は皆無で、大陸会議は強大すぎる権力をにぎっており、和平志向はほとんどありません。問題が税金ではなく完全な独立であることは明らかです」。ジョージ三世は、助言に従って「全植民地が反乱状態にある」と宣言した。

(8)イギリス国王との訣別を決定づけたトマス・ペインの「コモンセンス」

一方では、イギリス主権下で和解する交渉の是非について世論は二分されていた。大陸会議も「あくどい議会対善良な国王」という区別にまだこだわっていた。この問題に鋭く切り込み、「実効ある唯一の結論は完全独立をめざすこと」の方向に世論を導いたのは、トマス・ペインのパンフレット『コモンセンス』である。1776年1月10日、フィラデルフィアの路上に出まわり、まもなく全植民地で飛ぶように売れた。ほんの1、2週間で1万部以上が捌け、実際に誰もがその内容を読むか聞くかしていた。パンフレットは二つの点でとりわけ衝撃的だった。

第一はイギリス軍の残虐行為のプロパガンダ。開戦の年にはイギリス軍とその傭兵の残忍行為が多発し、またそれを超える伝説が生まれた。ファルマス(現メイン州ポートランド)、ノーフォークといった場所では、イギリス軍の手で町中が焼き尽くされ、女性や子どもが避けきれない流血の混乱の中で殺害されている。ペインはこうした事件に飛びつく。純粋なアメリカ人で、こんな体験をしながら反逆もせず戦う覚悟ができていない人間を、「その心情は臆病者、精神においてはおべっか屋」だ、と論じた。言い方は荒っぽいが急所をついていた。ワシントン司令官でさえ1月31日にはすでのこれを読んでおり、賛意を表明する。

第二に、実効ある唯一の結論は完全独立であることを力説したこと。あくどい議会と善良な国王という区別を認めようとせず、ジョージ三世を「高貴な野獣」と呼ぶ。実際の国王は頑固で無知だが、それなりに善意の人だった。ところがペインは、この人物を人間怪獣、政治的な暴君に変身させ、その後代々にわたってアメリカの小学生をこわがらせる鬼のような男に仕立てあげた。戦争とはそういうもの、プロパガンダとはそういうものである。『コモンセンス』は煽動的なたわごとと思った人も多いが、それまで出版された中で最も成功し、その影響は大きかった。

トマス・ペインは、十八世紀にどっと現れた独学の博学者仲間の一人である。意欲満々、反逆の志に駆られたイギリス人として登場した。ペインはよりによって税官吏兼収税吏だった。加えて社会に恨みを抱く不満分子、際立った不平家で、のちの時代に生まれていれば労働組合の指導者になっていたかもしれない。現に組合のリーダー役を務めており、達者で説得力のある文章を駆使してイギリスの収税吏3000人を代表して給料の引き上げを要求する。その勇気ゆえに解雇されて1774年にアメリカに渡ったのである。そこで「ペンシルヴェニア・マガジン」の編集に携わり、ほどなくフィラデルフィアの愛国派の中でも急進的な一派の一員となる。彼の真の才能はジャーナリズムを舞台とした論争の分野にあり、最高の能力を発揮した。著作はジャーナリズムの範疇を超え政治哲学の域に達していたが、大衆向けに効果的に話題性を盛り込み、すばらしい速度で書かれた。問題を鋭くえぐる記事や、力強く論旨の一貫したパンフレットを手がける一方、初めから終わりまで面白く読める本を一気に書き上げることができた。彼は理神論者であり、『理性の時代』というパンフレットを出している。(6.9.参照)

(9)ジェファソンが書いた独立宣言

トマス・ジェファーソンは、こうした一触即発の状況の中で、最も充実した時を迎えた。大陸会議での戦いは、半ばから四分の三まで進んだが、それでも即時独立に反対する一派は、植民地間の利害の衝突が連邦の崩壊を招き、アメリカが統治者を失ったままの状態になることを恐れていた。しかし、戦争はいや応なしに進展する。イギリスはドイツ人傭兵だけでなくロシア人傭兵まで導入した。ロシア兵は、典型的な専制君主であるツァーリが派遣したもので、まっとうなアメリカ人の背中を打ち据えるため鞭を携えているといわれていた。もっと深刻だったのはイギリスが奴隷の反乱を煽動したことで、これが南部の決意を強固にした。

ヴァージニア植民地議会は、「植民地連合は、自由にして独立したステーツ(国家)であり、また当然の権利としてそうあるべきこと」を宣言する決議案を大陸会議に提出するよう、代表のリチャード・ヘンリー・リーに訓令した。マサチューセッツ植民地代表、ジョン・アダムズがこの案を支持する。しかし、この段階ではペンシルヴェニア、ニューヨーク、サウスカロライナ、ニュージャージーは独立に反対していた。それにもかかわらず、大陸会議はフランクリン、アダムズ、ロジャー・シャーマン、ロバート・リヴィングストン、ジェファソンを「会議が合意に達した場合に備えて」独立宣言起草委員会の委員に指名する。

大陸会議が、特別な任務のためにこうした有能な人材を選んだのは、自分の立場をじゅうぶんに心得てのことだった。世界的大国に対する戦いは長びき、外国の理解が必要になるだろうと認識していたのである。すでに、フランクリンを長とする「通信委員会」、つまり事実上の「外務省」を設け、フランス、スペイン、オランダその他、同盟できそうな國と接触していた。大陸会議は、独立の問題を「国際世論の法廷」に訴えたいと望んでおり、アメリカの行動とその理由を述べた声明書、すなわち、威厳があり論をつくし、しかも格調高く記憶に残るような宣言、を必要としていた。また、未来のアメリカ国民に、自分の國に起こったできごとを物語る歴史的声明文を残し、子孫がそれを学んでそらんじられるようにもしたかった。

アダムズは、委員の中で最年少だったジェファソンを委員長に推したのは実は自分である、と記録している(裕福なニューヨークの判事の息子リヴィングストンを除く)。ジェファソンは奇跡を起す男であると確信した、と。アダムズは、次のような対話も記録している。ジェファソン「どうしてですか」、アダムズ「理由はじゅうぶんですよ」「第一に、君はヴァージニア人だ。ヴァージニア人は仕事の先頭に立たなければならない。第二に、私は嫌われ者で疑いを持たれ人望がないが、君はその反対だ。第三に、私より十倍も立派な文章が書ける」。これは全部当たっていた。

ジェファソンは見事な草案を作成する。自作の1774年のパンフレットがその準備に役立った。さまざまの哲学者や政治家の影響が案文のなかに流れ込んでいる。委員はみな博識だったが、ジェファソンは若かったのにいちばん博学で、それまでに歴史書や政治、行政論の読書に費やした限りない時間をじゅうぶんに生かすことができた。

独立宣言は、数世代を通じて最高のホイッグの思想を力強く、そしてすばらしく簡潔に要約している。何よりもその最初の部分が衝撃的である。書き出しの二つの文節には、これ以上改善する余地など思いつかない。第一文節では、まず悲痛な調子でイギリスとの連合を解消する悲しみに触れ、理由を挙げて「人類の意見に正当な敬意」を払いたい、という希望を述べている。第二文節は、前の文と連携して全体の核心を成している。「われわれは、すべての人は平等につくられ、造物主によって一定の奪うことのできない諸権利を付与されていること、その中には生命、自由、幸福の追求が含まれていること、を自明の真理であると信じる」。この文書のつづきは、どんな読者も(ジョージ三世でさえ)読まずにはいられないだろう。「これらの権利を確保するために、人類の間に政府が組織されること、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであること」、とつづく。起草委員会はジェファソンの草案にほとんど手を加える必要がなかった。実務家フランクリンが、ジェファソンの大袈裟な言葉づかいをやわらげる。こうして、「神聖にして侵すべからざる」真理が、「自明の」真理へと手だれのわざで改訂された。しかし、4人の委員は概してジェファソンの仕事をよろこんで受け入れる。当然のことだろう。

(10)独立宣言のブラックホール─奴隷制

大陸会議の方は、また話が違って、アメリカの自由を求める主張の核心部にブラックホールがあいていた。奴隷についてはどうなのか。いったい大陸会議が「すべての人は平等につくられ」などと言うことができるのか。60万の奴隷が全植民地に散らばっており、なかでも一部の植民地に膨大な人数が集中し、法律上家畜なみに扱われ、まったくの無権利状態におかれているのが現状である。ジェファソンほかの委員は、(かなり強引にと言わざるを得ないが)アメリカの奴隷制をイギリスとジョージ国王のせいにしてこの議論に幕を引こうとした。原案では、「人間性に反する残酷な戦いをしかけ」て「遠隔地の人々」を攻撃し「捕らえて北半球に運び奴隷にした」責任を国王に負わせている。

しかし、6月28日に宣言案が総会に提出されると南部代表はこれに反発する。特にサウスカロライナ代表は、奴隷制をどんな形でも悪と認めること、とりわけ「最も神聖な生命と自由の権利」を侵しているという認識を受け入れる気はなかった。もし宣言にそう書かれれば、論理の帰結としてすべての奴隷をただちに解放しなければならない。こうして、奴隷の項は削除される。これがその後8年の間、同じ問題をめぐって多くの妥協が行なわれるきっかけとなった。やっと決着がつくのは、おびただしい涙と血が流されたあとである。しかし案文には「平等」という文言が残っており、そのことは、あたかも宣言の背後にひそむまぎれもない異常な事態は最終的には是正される、ことを体制が保証している感がある。

(11)独立宣言案の審議で幸運にも議論されなかったこと

大陸会議は宣言案を3日間にわたって審議する。代表は、神聖なものと位置づけた基本原理を検討するのにほとんど時間をとらなかった。宣言の大部分が、イギリスに不利な特定の詳細な事例、とりわけ国王の悪行を扱っていたからである。革命の闘士たちは、邪悪な大臣と「不正を犯すことはあり得ない」国王を区別するふりをやめ、国王に対する忠誠もきっぱり放棄しようと決意していた。そこで、宣言の核心とみられた国王の告発をめぐって激論が戦わされた。

立憲的、イデオロギー的枠組みの論議は、奴隷制の問題以外はほとんど手つかずのままとなる。それがかえってよかった。もしも会議がジェファソンの広範にわたる仮説と提案を討議する方を選び、相違点を言葉の妥協で解決していたら、ジェファソンのペンが生み出した魔力はまちがいなく消え失せ、世界はもっと貧しくなっていたことだろう。

かくて、ニューヨーク代表は棄権したものの、7月2日原案が承認され、7月4日には全植民地が、正式には「アメリカ13植民地の総意による宣言」と呼ばれる文書を採択した。当時もその後も、しばしばトマス・ペインが宣言の原文作成者と誤解されたが、この文章とは直接何のかかわりもなかった。「ユナイテッド・ステーツ(合衆国)」という言葉だけは、たしかに彼の造語である。

7月8日(1776年)、独立宣言はフィラデルフィアの議事堂広場で民衆の面前で公式に読み上げられる。王室の紋章が引きずり下ろされて焼かれた。8月2日、宣言は羊皮紙に書き写され代表全員が署名する。ジョン・ハンコックによると、この直後にフランクリンが冗談を飛ばす。「さて、紳士諸君。われわれも腹をくくって団結しなければ、一人ひとり首をくくられることは間違いなさそうですな」。面白いことに、このできごとの136年前にあたるイギリス大内乱当初、クロムウェルがマンチェスター伯に向かって同じ感想をもらしている。

(12)各州で制定された憲法のモデルとなったマサチューセッツ憲法

独立が宣言され国王が排除されると、全州で主権確立が求められるようになる。州の憲法が、旧来の特許状と「統治機構」にとって代わるのである。このことは、各州のために重要だが、のちにアメリカ合衆国憲法の制定を助けるためにも重要だった。さまざまな点で植民地(以後、州と呼ばれる)は十七世紀から自治を行なっており、その証拠となる文書や法律もある。コネティカットとロードアイランドはすでにある種の憲法を持っており、独立にさいして変更はほとんどいらなかった。実際、1763年以降少なからぬ州がイギリス議会の不当な課税に主権という点から抵抗してきた。従って、アメリカ合衆国憲法の全準備期間は、1763年から91年までの30年近くにおよぶと考えてしかるべきである。

1775年、最初に政府を組織するという行動に踏み切ったのはマサチューセッツで、1691年の特許状をよりどころにしていた。他州もこれに倣う。同じ年にニューハンプシャーとサウスカロライナ、1776年にはヴァージニア、ニュージャージー、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド、ノースカロライナ。そして1777年初めジョージアがこれにつづく。ニューヨークは、州としては初めてかなりの権限を持つ知事制をとる。マサチューセッツもこの着想を取り入れ、憲法修正の草案を作成した。マサチューセッツの新憲法案は1777年3月、史上初の住民投票にかけられたが、2083票対9972票で否決される。ついで憲法制定会議の選挙が行なわれ、1780年ここで最終案がまとめられて、3分の2の得票で承認されるにいたった。

マサチューセッツ憲法(改正法)は他州の手本となった。ペンシルヴェニアとジョージアを除く全州が二院制を採用し、1789年から90年にかけてこの二州も考えを変えた。全ての下院が直接選挙制をとり、上院議員も選挙人団によるメリーランドを除いて、全部が直接投票で選出された。サウスカロライナ以外の州では毎年下院選挙を行ない、おおかたの州は住民投票で知事や行政官を選んだ。12州では選挙人は土地所有者に限られていたが、その条件は通常約20ヘクタールで、アメリカでは何ほどのこともなかった。3州では納税証明書が必要だった。1州を除いて候補者には資産証明書が求められた。参政権のある白人男性の比率は州によって異なるが、平均的な選挙母体のサイズはイギリスよりも4倍も大きい。こういった憲法は概していえば人民主権に等しく、1770年代にしては実に過激であった。

州の憲法はヨーロッパ全域とラテンアメリカに即座に衝撃を与え余波は長くつづいた。ペンシルヴェニア憲法は当初さらに急進的な方向に進んでいた(立法部を一院制とし、合議制の行政委員会に行政権をゆだねた)。フランクリンはその生みの親を自認し(おそらくはペインの弟子、ジェイムズ・カノンが書いた)、フランスを訪れたさいには誇らしげに携えていったところ、自由主義者の大物たちが感服のあまり息をのんだという。アダムズがこう伝えている。「テュルゴー氏、ラ・ロシュフーコー公爵、コンドルセ氏をはじめ多くの人が、フランクリン氏の憲法に夢中になった」。しかし、この憲法は「不都合」とわかり1790年に廃止される。しかしそのときには、フランス革命の大立者たちにすでに潜在的な影響を植えつけていた。

(13)実質的に初のアメリカ憲法となる大陸会議の「連合規約」の制定

諸州が独立政府を組織している間に、大陸会議の方も戦争遂行の権限を得なければならなかった。そこで、1776ー77年にかけて実質的に初のアメリカ憲法となる「連合規約」が制定される。フランクリンの考えていたことが現実になるのである。草案をまとめるにあたって、各州代表は論理にはあまりこだわらず、実をとる方に熱心だった。このため、アメリカはイギリスと10年以上にわたって主権のありかをめぐって論議してきたにもかかわらず、奇妙なことに連合規約ではアメリカのどこに主権をおくのか確定されず、諸州の権利についても何の言及もなされていない。

大陸会議は戦争と外交政策を、各州はその他の「内部治安」と総称される事項を扱うことに全州が合意する。ノースカロライナのトマス・バークは、各州が「主権、自由、独立および、あらゆる政治権力と司法権を保持し、これを大陸会議に委任しないことを連合規約によって保障する」という条項を提案し、13州中11州が賛成してこの規約が第二条となった。しかし、その後バーク自身が次のように述べるにいたる。「連合は、諸外国および戦争に関するすべての事柄、あるいは諸州が共通の利害関係を持つ場所については、ひとつの主権としてあたるべきである」。こうして問題は棚上げされたままとなったのである。

あらゆる手続きが大急ぎで行なわれ、1777年11月15日に完了する。しかし批准は遅れた。実は、メリーランドが連合規約を批准するのは1781年3月1日のことである。このときには、さらに強力な行政機関が必要であること、そしてそのためには新しい、もっと考慮をつくした憲法が求められることが経験上あきらかになっていた。

 

5)独立戦争の経過と決着

さて、実際の戦争はどのような経過をたどり、最終的にどのような決着を見たのでしょうか。一回目の世界戦争であるイギリスとフランスの七年戦争は国家間の紛争であり、こちらの二回目の世界戦争は、ジョン・アダムズが言うように「二、三世代前には親がきょうだいだった者同士が戦う」内乱の悲劇です。そこには自ずと違いがあるはずです。また、この戦争はインディアンや黒人奴隷にどのような影響を与えたのでしょうか。その辺の事情を見ておきましょう。以下の(1)〜(8)です。(【文献27】(I)p.245-257)

(1)8年半もつづいた独立戦争のパラドックス

独立戦争は実に8年半もつづく長い戦いで消耗戦だった。問題は次の点にある。アメリカ人は、長期間にわたって戦いを持ちこたえ、じゅうぶんな能力と火力をそなえた前線軍を維持し、イギリスに戦争継続の熱意を喪失させ、しかもその費用を支払うことができるのか。

内実は、植民地のための戦争である七年戦争の経費にたいするイギリスの納税者の負担軽減のために始められた戦争なのである。これが独立戦争の基本的なパラドックスで、矛盾は最後には決定的なものとなった。イギリスはこの戦争をしても、基本的に国家利益がない。勝てばさらに余計な政治問題を抱え込むだけ、負けても自尊心が傷つくだけで損害はほとんどない。したがって、ロンドン以外のところで戦争の結末に関心を示す人はめったにいなかった。当時の文学、書簡、新聞、日記にも、驚くほどわずかな影響しか与えていない。もちろん、誰ひとりとしてこの戦争に志願するものなどいなかった。二、三のホイッグ党員が熱心に戦争に反対したが、大衆の支持はなかった。戦争を遂行する国王や閣僚にさえ支持者はいない。大衆集会もなければ抵抗もなく、また戦争支持のデモをする者も現われない。これは植民地戦争、帝国主義戦争で、ある意味では当時の七年戦争よりも二十世紀のヴェトナム戦争やソ連が関与したアフガニスタン戦争と共通点が多い。これは初の解放戦争だった。

(2)偉大な総司令官ワシントン

これから見ると、アメリカのパトリオット(愛国者)は総司令官に恵まれていた。ワシントンは、気性も手腕もこの種の抗争には理想的な指揮官である。野戦の指揮官としては優秀とはいえない。9回総攻撃をかけ、3回を除いてすべて敗北に終わっている。しかし戦略家だった。自分の最高の任務は陸軍を訓練して戦場にとどまらせ、物資を補給し、給料を払支払うことと心得ていた。これをこなすことで、13州すべての政府と大陸会議を機能させ、ひとつの國にまとめ、その国家は8年にわたる戦いのあいだに急成長をとげた。立法府は何とか役目を果たし、裁判所は開廷し、税金は徴集され、新独立政府はつづいていた。

このため、イギリス軍が戦った相手は単なる暴徒やゲリラの群れではなかった。ひとつの組織体としての國と対戦しており、最後に切っ先がずぶりと刺さった。こういったすべてのことを実現させたのがワシントンである。加えて、戦場におけるアメリカ陣営の尊厳を保った。これは敵も認めるところだった。ワシントンは、戦争にありがちな卑劣、残虐、復讐心に駆られた行為とは無縁で、終始一貫、紳士らしく振る舞っている。

ワシントンが頼りにできる兵力は大したものではない。どの時期にも兵員の総数が6万人を超えたことはなく、脱走兵の発生率も年20パーセントにおよんだ。武器、弾薬、大砲、輸送手段、衣服、軍資金、食糧─あらゆるものが、常時不足していた。しかし活動をつづけられるだけのものは手に入れた。文字どおり何百通という手紙を大陸会議と州政府に送り、何とかしのげる程度の物資を確保してほしいと依頼した。こういったことは得意とするところで、軍隊運営はある意味でヴァージニアの大農園の経営と似ている。足りないものがたくさんある中でどうにか間に合わせてやっていくのである。ワシントンはいつも沈着冷静で忍耐強く、すべての人に安心感を与えた。ジェファソンによれば、実際は─赤毛の男らしからず?─短気なのだが、たいていはその気性をしっかりと抑制していた。少なからぬ行政責任を背負わなければならなかった。これは本来大陸会議が負うべきものなのに、陣容がととのわず対応できなかったのである。

ワシントンは膨大な書類事務をこなした。よい補佐役もいた。フリードリッヒ・フォン・シュトイベンが軍の訓練を担当し、実質的な副官を務めている。1777年の初めから、西インド諸島出身の若く聡明なニューヨーカー、アレグザンダー・ハミルトン(1755ー1804)が秘書兼主席副官となる。(この人物については6.7.参照)ハミルトン大佐は、すでに砲兵隊士官として抜群の成績をあげており、アメリカの総司令官の副官のなかでも史上最も有能な存在となった。しかし、本質的には任務はすべてワシントン自身が負わなければならなかった。

(3)二流の人材を指揮官にあおいだイギリス軍

ワシントンは意識的に持久戦に持ち込んだが、これを相手にしてイギリス軍の戦略は意味をなさなかった。むしろ、イギリスには終始明確な首尾一貫した戦略がなかったともいえる。政治の才に恵まれるが軍事には心もとないイギリスが、政治的解決を拒み軍事的な決着に全幅の信頼を寄せたのはひとつの謎である。ジョージ・ジャーメイン卿は、ノース首相に戦争を託されたものの、軍事的な才能は持ち合わせず、かといって政治の天分もさっぱりだった。ジャーメイン卿は、アメリカの民兵隊はまったく役に立たず、王党忠誠派の人数が革命派愛国者を大きく上回っていると信じていた、が根拠はない。彼はアメリカに足を踏み入れたことはなく、現地に出かけて自分の目で何をなすべきかを調べ、あるいは名誉ある妥協交渉ができるかどうか探ろう、などとは思いもしなかった。政府の関係者は、誰ひとり実地調査のために大西洋を渡ろうとは考えていない。将軍は、さまざまな機会に交渉の権限を与えられはしたが、それは反乱軍が降伏に同意したあとのことで、何の足しにもならない。実は、将軍は頻繁に交代している。不始末の歴然たるしるしである。多くの言語同断な失策の責任はジョージ三世に帰する。この国王は、怒りの弾丸が発射されるのを目にしたことも、外国へ行ったこともない。老人になるまで海を見たこともない人だった。

イギリスの司令官は兵員数にはこと欠かなかった。約3万人の傭兵が派遣されている。しかし、これはおそらく逆効果で、傭兵の行動には王党忠誠派さえ憤慨した。1776年、ハウ提督とハウ将軍の兄弟がニューヨークで指揮をとったときには、戦艦の数は73隻を下らず1万3000人の水兵を乗せており、さらに輸送船が3万2000人の部隊を運んだ。イギリスの基準では大遠征軍である。しかし、イギリスが戦争につぎ込んだ兵力や軍備はどれひとつとして効果が長続きせず、あるいはまったく役に立たなかった。ジョージ三世かノース卿が、文字どおり第一級の将軍を司令官に選び、現地の軍事、政治両面に無制限の権限を与えていたら、事態はちがっていたかもしれない。しかし、そのような人物ならまちがいなくこの戦争を愚行と判断し、終結交渉を始めたにちがいない。現実には、将軍は全員(提督は別)二流の人材で、しかもそれは目にもあきらかだった。

(4)戦争の成り行き

戦争の成り行きをざっと見ておこう。開戦当時、戦闘がボストン周辺に集中していた1775〜76年の冬は動きが少なく、ワシントンは大陸会議軍を編成することができた。1776年のハウ将軍のニューヨーク攻略作戦は、ニューヨーク市を占領し、ニューイングランドとそれ以南の地域を分断して反乱を中心地のマサチューセッツで壊滅させようとするねらいだった。ワシントンはこれを防ぐため軍をマンハッタンからブルックリンに移動し、ハイツ(高台)に塹壕を掘った。ハウがその裏をかき、ワシントン軍は1500人の兵力を失う。これに対してハウの損害は400人。ワシントンがマンハッタン島に9000人の兵を退却させたのは賢明だった。

ハウはアメリカ軍を包囲して全滅させようとはせず、ワシントンはニュージャージーに逃れ、さらにデラウェアに渡る。ワシントンは冬季の戦闘に勝利を収め、トレントンでドイツ人傭兵1000人を戦死もしくは捕虜に追い込み、プリンストンの守備隊を破り、1777年1月末、整然とモリスタウンに後退する。ハウは南に移動、フィラデルフィアに下り、1777年9月11日ブランディワインでワシントン軍を撃退する。

一方、カナダで指揮をとるジョン・バーゴイン将軍は、リチャード・モンゴメリーひきいる第二のアメリカ軍を破っていた。この軍は、セントローレンス川流域でアメリカに味方する者を募兵しようとして北上していたのである。しかしカナダ人は、イギリス人の子孫のプロテスタント信徒だろうと、フランス人を先祖にもつカトリック教徒だろうと、興味を示さなかった。1774年にイギリスと有利な取引をし、それ以後忠誠を守っていたのである。このためバーゴインは攻撃に出ることができたが、将軍は軽率だった。1777年6月、忠誠派、インディアン、ブラウンシュヴァイク出身者など7000人を集めて船でシャンプラン湖を渡りハドソン川流域に進出する。計画では、バーゴイン軍とハウ軍が、ワシントン軍を両側から挟み撃ちにするはずだった。しかし、うまくいくどころかバーゴインはたちまち苦境に陥る。9月19日と10月7日、二つの小規模な戦いに敗れ、つづいて敵に包囲されて1777年10月17日サラトガで降伏の憂き目を見る。これをきっかけに、イギリスは初めて真剣に関係修復の条件を提示することになるが、当然却下される。

ワシントン軍はなんとかもうひと冬を越した。寒期には兵隊の数が減り、ワシントンは主として宿営で冬ごもりをして過ごしたが、1778年の春にはまた軍の規模がふくらみ、年々拡大していった。司令官と軍は、過去の失敗を教訓にして徐々に兵員の服務期間を長くし、給料を上げ、軍規をきびしくして極端な場合には絞首刑も認めることとし、砲兵を増強し、輸送を改善し、補給を確実にした。

(5)ヨーロッパに同盟を求めたアメリカ特使フランクリン外交の成功

1778年2月、フランクリンの使節団がヨーロッパに同盟を求めて成果をあげていた。フランスでは、それまでのアメリカ特使の中で最高の成功を収めたといってよい。以前イギリスに住んでいたときには、フランクリンは上流階級の人士に好かれなかった。垢抜けない服装、行儀の悪さ、職人の経歴(と職人風の話し方)のせいである。フランスの貴族は、イギリス嫌いのためかインテリ気取りからか、または単なる好奇心からか、フランクリンを名士として待遇する。フランクリンの学問的業績をイギリス人よりはるかによく理解していた。ルソーに並ぶ、あるいはそれ以上に魅力的な人物と見ていたようである。アメリカ人のフランクリンの方が、珍しくもないスイス生まれのルソーよりも異国情緒をそそったらしい。

フランクリンは、ショーモンのジャック=ドナシアンの支援を受けていた。ジャックは裕福な実業家で、アメリカに幅広い関心を持ち、愛国派の援助に200万リーヴルの私財を投じていた。ド・セギュール公爵は、フランクリンのみすぼらしい外見の裏に現実的な美徳と高潔さを認める。「むさくるしい身なり、気取らないが威厳のある態度、率直な言葉、手入れの行き届かない髪。簡素な古代世界のプラトンと同時代のギリシアの思想家か、カトーやファビウスの活躍したローマの共和制論者のような人物が、十八世紀の退廃的で抑圧された時代に突然魔法で姿を現わしたような感じがする」。ふしぎな同時発生現象というか、アメリカ人を新しいローマ人とみる考え方が文化の新しい流行に合致した。時あたかもロココ様式が、唐突に復活した古典様式に道を譲り、フランクリンはその新しい波を体現する人物とみられたのである。

実はフランクリンの暮らしぶりはそれほどつましくもなかった。それだからどうということもない。フランクリンの使節団は成功し、官界や上流社会より庶民にいっそう人気があった。

こうして、1778年の春からはアメリカはもはや孤立していなかった。フランスの港町ナントが、ヨーロッパにおけるアメリカの補給基地となる。その近郊には海軍省がアメリカ向け大砲を鋳造する特殊鋳造工場を建設した。ある裕福な商人は、軍需品を積んだ船を1778年7月だけで10隻、ボストンに送り出している。1782年には、この商人の輸送は30隻に上った。そして、サラトガの戦いで勝利したとの知らせが同盟通商条約の調印を促進する。フランスの条約締結でスペインとオランダも参戦に踏み切ることになった。もっともスペインはジブラルタルを奪回したいという野心からフランスを支援しただけで、自国の植民地を崩壊させかねない反逆者と思われる連中と公式に同盟を結ぶことはなかった。

(6)フランス艦隊に支配された制海権

フランスの海陸双方からの介入はイギリスの頭痛の種子をふやしはしたものの、戦争を早期に終結させるには至らなかった。1778年夏、フランス海軍提督デステーニュ伯爵が艦隊をひきいてアメリカ沿岸に現れたが、ハウ提督を破ることはできなかった。翌年にはアメリカ軍と連合して、10月ふたたびサヴァナ攻略を試みたが、失敗に終わる。

膠着状態のままもうひと冬が過ぎて、ハウ提督と交代したサー・ヘンリー・クリントンがチャールストンを占領し、ベンジャミン・リンカーン指揮下のアメリカ兵5500人を捕虜にする。これは独立戦争中に愛国派がひとつの戦いで受けた最大の被害だった。1780年5月のことである。3ヶ月後の8月16日、コーンウォリス卿がカムデンでホレイショ・ゲイツ将軍のアメリカ軍を破る。クリントンは、コーンウォリスに南方軍の指揮をまかせて主要基地ニューヨークに戻る。コーンウォリスはノースカロライナに侵入したが、味方の忠誠派軍は1780年10月7日キングズマウンテンで壊滅する。次いで1781年1月、バナスター・タールトンのトーリーズ(英国派軍団)は、カウペンズでダニエル・モーガン将軍に敗北を喫し900人を失った。コーンウォリスも2ヶ月後、ギルフォード・コートハウスで戦線を守り抜いたものの多数の死傷者を出す。こういった戦いのどれも決定的なものではなく、格別に重要でもなかった。しかしこれが累積して、イギリスに戦争継続の意志を喪失させる効果をあげることになる。

その後コーンウォリスは作戦を誤り、自分の軍勢を沿岸のヨークタウンに終結させようと決心した。クリントンはこの動きに強硬に反対する。万一フランス軍が艦船を集中してイギリスから制海権を奪うようなことがあれば、コーンウォリス軍が危険にさらされるという。まさにそのとおりになった。その頃にはフランスはド・ロシャンボー伯爵の指揮する5500人の精鋭部隊をロードアイランドの基地に配備していた。さらに重要なのは、ド.バラ伯爵がニューポートで艦隊を指揮していたことである。1781年夏には、ド・グラス提督が西インド諸島から常備軍の艦船20隻と増援部隊の兵3000人をひきい、急遽北上する。提督は、ワシントン軍とド・ラファイエット侯爵指揮のフランス軍とをチェサピーク湾からジェイムズ川に移送するのに間に合った。こうして大規模な連合軍の陸海軍の軍勢がコーンウォリスの陣地周辺に結集する。イギリスにとってさらに悪いことに、ニューポートからド・バラ伯爵の小艦隊も到着した。かくてヨークタウン付近の水域はフランス艦隊が支配するところとなる。ニューヨークから封鎖解除のために派遣されたトマス・グレイヴズの作戦は失敗に終わり、ニューヨークに戻らざるを得なかった。イギリスは、少なくとも大西洋北西部ではもはや軍事力を海路増強することができなくなり、これが戦争の作戦全般に破滅的影響を与える。兵力8000人のコーンウォリス軍は、多数の大砲をそなえ1万7000の兵を擁する米仏連合軍と対戦した。イギリス軍は物資が不足していたが、1781年10月19日コーンウォリスが降伏するに至ったのは自分が砲撃にさらされたためだった。

(7)戦争終結とフランクリンが立案者かつ立役者として働いたパリ講和会議

かくてイギリスは、老練な兵と銃砲と完璧な制海権を手に圧倒的優位に立って開戦しながら、兵員と武器の数で追い抜かれ、制海権をフランスに奪われて戦いを終えた。イギリスはまだニューヨーク、サヴァナ、チャールストンを支配していたが、ヨークタウンの惨敗で主戦派は打ちのめされた。1782年3月19日、ノース卿は首相を辞任し、シェルバーン、フォックス、バークの講和グループに道を譲る。

関係者にとって幸いなことに、イギリスはフランスとスペインに対する一連の輝かしい勝利のおかげで、自尊心を抑えてアメリカ独立を受け入れるのが多少とも楽にはなった。スペインのジブラルタル封鎖解除、インドでの勝利、そしてとりわけ4月12日のセインツの海戦でハウ卿がドグラスの艦隊を壊滅させてイギリス領西インド諸島を救い、絶対的制海権を回復したのであった。

フランクリンは講和のためにふたたびパリに派遣され、フランス代表ヴェルジェンヌ、イギリス代表トマス・グレンヴィルと交渉を開始する。グレンヴィルは学識ある賢人で、「印紙法」のグレンヴィルの息子だが、フォックス流の人物である。フランクリンはパリ講和の立案者かつ立役者だった。1782年7月に提示した「4項目」が合意の基盤となった。第一の条件は、アメリカの即時独立とイギリスの全軍撤退、第二に、カナダのイギリス領残留と国境線の確定、第三は、全13州の境界についての合意、そして第四にニューファンドランド沖の漁業権(初の国際的漁業協定)という内容である。

(8)アメリカとイギリスの不思議な関係─イギリスとの単独講和

交渉とその背景で注目される点は、イギリスのアメリカに対する相反する二つの態度と、その逆のアメリカのイギリスに対する両面的な態度である。

少し前にはイギリスは塀ぎわに追い詰められていた。フランス、スペイン、オランダがアメリカと同盟を結んで実際に参戦したのみならず、武装中立国の連盟(ロシア、デンマーク、スウェーデン)もイギリスに敵対して戦いにそなえていた。フランクリンは、フランス海軍省と協力して、ジョン・ポール・ジョーンズが海軍、ラファイエットが上陸軍をひきいてイギリス沿岸に侵攻する計画を練っていた。フランス軍は、二個師団、計4万人の兵が上陸作戦の準備を完了し、フランス・スペイン連合艦隊の64隻の艦船が4774門の砲を積んで上陸軍を支援する手はずになっていた。これに対するサー・チャールズ・ハーディの海峡艦隊はわずか38隻、砲2963門、イギリス軍は世界中に広く薄く配置されていたのである。イギリスの陸相バリントン卿は、優秀な将軍はみな海外にいてイギリスには誰ひとり侵攻阻止の軍をひきいるにふさわしい者はいないと述べている。フランス・スペイン連合軍に手痛い打撃を与えたのは、なんと暴風と病気である。おそらくこのために英仏海峡を横断する出撃は取りやめとなった。

その直後、しきりに劇的な関係逆転のうわさが流れた。イギリスはアメリカ合衆国の主権を認め、連合してフランスとスペインを攻撃し、両国を北アメリカから完全に追い払ってしまうだろう、というのである。アメリカはすでにこう認識していた。「フランスとスペインは不実で信頼できない同盟国だが、結局のところイギリスは貿易の主要相手国で、イギリスが制海権をにぎることがアメリカの繁栄の前提条件となる。」ひとたびイギリスがアメリカの独立を認めると、両者は論争するよりも折り合いをつけるべきことがずっと多かった。そしてこうしたうわさ(もちろん、アメリカ人から出たものではない)の中に、40年後のモンロー主義のかすかな予兆をつきとめることができる。

フランスは、講和会議でイギリスがアメリカに譲歩する覚悟を固めていることに驚き、ヴェルジェンヌがこう断言する。「イギリスは和解するというより平和を金で買っている。その譲歩ぶりは可能と思われる限度を超えている」

それはフランクリンの努力のたまものだった。アメリカに寛大に接してほしい、とイギリスを説き伏せ、なんと、お返しにフランスを捨てて、1782年11月30日に単独講和仮条約を結んだのである。パシーで開かれた祝賀会でのフランス人招待客とイギリス代表の応酬が核心に触れている。このフランス人が、お世辞まじりにアメリカの重要性が増していくのを強調して、「連合した13州は世界最大の帝国になるでしょう」と予言すると、イギリス代表は応じた。「そのとおりですとも、ムッシュ−。それにアメリカ人はみんな、ひとり残らず英語を話しますよ」。戦火の中から不死鳥さながら、あの長命の不思議な怪物、米英の特別な関係、が生まれる瞬間である。そして今も生き永らえている。それは対イラク戦争でも証明されている。

 

6)アメリカ革命の甚大な影響

二回目の世界戦争の影響は甚大でした。それは広い範囲におよび、長年にわたってあとをひくものでした。これがその後のアメリカの歴史に何をもたらしたのか、全世界的な視野から検討すると非常に興味深い事実が見えてきます。(1)〜(8)です。(【文献27】(I)p.257-271)

(1)大した損害も受けず工業大国への道を進んだイギリス

総合的に考えれば、イギリスは長い戦いから大した損害も受けずに抜け出したといえる。国民は感情面で戦争とかかわりを持たなかったし心の傷も負わなかった。ホイッグ党に限らず数々の業界が戦争に一貫して反対していたし、とりわけ商人は戦争を終わらせ大西洋貿易を続けたがっていた。どちらかといえばこの戦争はイギリスの景気を押し上げ、経済は華々しく1780年代(第一次産業革命の出発点)に入る。重商主義はこの戦争を境に終わりを告げ、強圧的政策に終始強く反対していたアダム・スミスの学説が勝利を収めたのである。1783年末、ウィリアム・ピット(小ピット)が平和時にふさわしい内閣を組織するとスミスはダウニング街10番地(首相官邸)の客として歓迎され、その自由貿易主義がイギリスの政策に取り入れられるようになる。イギリスはいまや初の工業大国になろうとしていた。自由競争による資本主義と世界市場というスミスの学説が認められたことは、アメリカの農民にとっても生まれたばかりの製造業者にとっても朗報だった。

(2)弱体化したヨーロッパの王室

独立戦争は、昔ながらのヨーロッパの王室にとっては災難だった。スペインはパリ講和では収穫はなく、国王支配は財政、権力とも弱体化し、中南米の総督たちはモデルや刺激を求めてしだいに北アメリカに目を向けるようになる。大敗北を喫したのはフランス。この國も講和交渉で得たものは何もない。戦争に10億リーヴルもつぎ込み、ヨーロッパの銀行家の信用を失った。ネッケルの予言どおり、参戦はフランスの国家財政に取り返しのつかない損失をもたらし、王室が破産したあとは三部会の召集、バスティーユの陥落、テロ、共和制、軍事独裁、そして20年間にわたる悲惨な戦いへと道はつづく。私財を投じてアメリカを支援した裕福な貴族や有力な商人もみなすべてを失い、その中には悪意に満ちた議会の手で貧窮者のリストに押し込まれてしまった例も一、二ある。

(3)イギリスに裏切られたアメリカ先住民

いまや曲がりなりにも連邦となったアメリカの13州。戦争は計り知れない苦難や損失を残したが、その一方で利益や予想外の恩寵ももたらしている。

長い目でみた場合、敗者の筆頭はインディアンである。独立宣言の頃は、20万人のインディアンがミシシッピ川の東側に85の部族として暮らし、本能的に中立を守っていた。イロクォイ族のある族長は、1775年3月、コネティカット総督に語っている。「われわれは、どちらの側にも味方したくない・・・。古いイギリス、新しいイギリス─両方とも愛している」。戦いが始まると、イギリス、アメリカ両陣営ともインディアンに助力を求めたが、たいてい味方につけるのはイギリスだった。過去にインディアンの利益を擁護していたし、インディアンの方もアメリカが独立すれば白人の西部拡張が無制限に認められるだろうと直観的に感じていたのである。こうして約1万3000人がイギリスのために戦った。インディアンの代理人として偉大な存在だった「6部族の名誉族長」サー・ウィリアム・ジョンソンが1774年に他界していなかったら、先住民との同盟はさらに成果をあげていただろう。ジョンソンの息子ジョンと甥のガイがあとを継いで最善をつくし、先住民の方も懸命に戦って全体としては勝ち戦と信じていた。

そのために、パリ講和の結果には狼狽することになる。イギリスはインディアンを見捨てたのである。イギリスの特使はナイアガラで族長たちの抗議を受ける。「もしもイギリスが、われらの國を、同意も求めず意見も聞かないままアメリカ人に引き渡すと偽って言い触らし、卑劣にも裏切りをはたらいたというのが事実ならば、それはキリスト教徒だけがやれる残酷で正義に反した行いである。」

アメリカ人は、講和条約をインディアン征服の権利を与える保証と解釈して本腰を入れて対応しはじめる。1785年、連邦代理人はデラウェア族とワイアンドット族に通告した。「われわれは征服によって國を占有する。与えはするが受け取りはしない」。大平原のインディアンも土地を失った。もともとミシシッピ川流域に権益を求めるフランスの保護を受けて西部拡張から守られていたが、境界線は1763年に消滅する。次いでイギリスが国王宣言をかかげて救いにやってくる。それもこうして効力を失う。インディアンは孤立無援となった。

(4)南部奴隷制の拡大

奴隷にとってアメリカ革命の影響は明暗が入り交じっていた。全体をまとめるために13州は小異を捨てて大同につかねばならず、このため奴隷制という「オーガニック・シン(組織的な罪)」(信仰復興運動の中で生まれた造語)にいらだちを募らせていたニューイングランド人も、しばらくの間これを見逃さざるを得なくなる。こうして、以前から奴隷制に激しく反対していたアダムズさえ、この問題に触れた一節を独立宣言から論議抜きで削除することに同意している。これは奴隷にとってあきらかに敗北である。憲法制定の過程では、それ以上に由々しい事態が起ころうとしていた。その上、戦争の最中から直後にかけて奴隷の数がふえ、分布も広がっているのが現実だった。

気のめいる話だが、ヴァージニアの奴隷の数は、1755年から82年の終戦までの間に倍増していた。もっとも、これは主として自然増と寿命の伸びによるもので、南部の奴隷が健康で少しは快適に暮らせるようになったという一面がある。この地域の奴隷は、アフリカの同胞の2倍、南アメリカの1倍半長生きだった。

それにもかかわらず、戦争を終えた南部は経済的に貧しくなった。軍による占領、海軍の攻撃、愛国派と国王派の内乱、インディアンとの戦争、そして何千という奴隷のイギリス軍への、あるいは自由を求めての、逃亡の結果である。少なからぬ数の南部人が、富を取り戻す唯一の方法は奴隷制をそっくり復興し、その拡大を急ぐことだと感じていた。そして実際にそのとおりになる。奴隷所有者たちは、当時は次第に自由になっていた西部攻略に乗り出し、奴隷をともなってケンタッキー、テネシー、サウスカロライナ、ジョージアに進出する。このため、奴隷制をとる南部は、木綿産業が大革命を迎える前に膨張していく。奴隷の需要がふえ、さらにアフリカから直接輸入された。その数は1783年から1807年にかけて、合計10万人に上った。

(5)奴隷制廃止運動の加速

一方、新しい自由と平等の潮流に触発されて、北部人を中心とした多くの人が、自由を勝ち取ったばかりの國で、人間を男女とも奴隷として所有しつづけることの異常さにあらためて目を向けるようになったのも事実である。

奴隷制廃止運動は、一部の州では独立戦争前から始まっていた。1766年、ボストンは大陸会議の代表に「今後、奴隷の輸入と売買を禁止する法律を提案せよ」と訓令し、ニューイングランドのほかの町もこれに同調する。1771年、禁止法は通過したもののハッチンソン総督は署名しなかった。しかし同年12月、王座裁判所長マンスフィールド卿がロンドンで下した名高い判決で、奴隷制は「きわめて憎むべき」制度で、「明確な法律以外にその存続をやめさせることのできる手だてはない」と述べた。この裁定で、イギリスの慣習法では奴隷制は非合法となった。

アメリカでも大半の植民地がイギリスの慣習法を尊重していたため、奴隷制反対が法案にはっきりと盛り込まれる。そしてペンシルヴェニアが1773年、ロードアイランドとコネティカットは1774年に奴隷貿易禁止法を制定した。

1774年の第一次大陸会議で採択された総則には奴隷貿易に反対する条項があり、加盟州は「12月以降は、いかなる奴隷の輸入も買いつけも行なわない」ことを誓約し、その後は「奴隷貿易を全面的に中止」し、「みずからそれにかかわることなく」、また「奴隷貿易にかかわる者に船を貸したり、商品や製品を売ったりしない」としている。1786年から1801年にかけては、奴隷解放に関する法律や解放の規制を撤廃する法律が5州で成立した。その中にはケンタッキーやテネシーといった奴隷州も含まれている。ヴァージニアはこれに先立って1782年に奴隷の解放を認めており、その直後に1万人が自由の身となった。メリーランドは翌年、これに倣い1世代後には黒人の20パーセントが自由となっている。

革命戦争時には、ニューヨークとニュージャージーを除く北部全州が高揚した雰囲気をもろに受け、イギリスの先例に倣って奴隷制そのものの禁止に向けて歩みはじめる。1780年、ペンシルヴェニア州がアメリカ史上初の奴隷解放法を制定すると、他州も追随し、南北戦争を前にしてニュージャージーがそのしんがりとなった。この時期には、かってのイギリスのように、積極的な法律に加えて慣習法も黒人に有利にはたらいた。1781年には、ベットことエリザベス・フリーマンは、1780年のマサチューセッツ新憲法の、すべての人は「生まれながらにして自由、平等」であるという一節が、白人と同様、黒人にも適用されると主張する訴訟を起した。ベットが勝訴し、この判決が他の判例法に加わって、マサチューセッツの奴隷制に終止符を打った。その上、政治闘争と戦争の中から、イギリスでは、サミュエル・ウィルバーフォースと「クラパム派」の組織する広範な奴隷制反対運動が産声をあげ、まもなくアメリカをはじめ各地に波及していく。この運動が最終的に奴隷制禁止法のイギリス議会通過を早めることになり、国際的な奴隷貿易は、1807年に禁止された。

(6)国王忠誠派のカナダへの移動─代りにカナだを手に入れたイギリス

白人への影響も明暗が入り交じっていた。当時、アメリカ人は三つに分かれていたとみられる。愛国派が三分の一、国王忠誠派が三分の一、残りは日和見派である。戦争に積極的にかかわろうとしない者も優に国民の半分を占めていた。戦闘的な勢力もほぼ二分されている。

トーリーズ(国王派)はその性格上指導者はおらず、最大の敗北者となった。現実にあらゆるもの(職業、家、土地、貯え、しばしばおのれの命さえ)を失った。永遠に身内の縁を切る家族もあった。国王忠誠派は全般的に反乱に対してうまくレジスタンスを組織することができなかった。忠誠派のディアスポラ(四散)の影響がもっとも大きかったのはカナダである。アメリカから逃れた忠誠派の総数は8万人にも上った。一部はイギリスに渡り、西インド諸島のイギリス領植民地をめざす者もいたが、大多数は北カナダに移動して國の人口統計に急激な変化をもたらす。それ以前は、上(北部)カナダは住民が少なく、下(南部)カナダのフランス語圈の人口が北の英語人口を上回っていた。独立戦争中は、英語圈、フランス語圈とも国王支持だったが、熱烈な忠誠派が流入してカナダのイギリス国王との結びつきは決定的となり、また英語派が優勢な國に変貌する。イギリスはたとえアメリカを失ったとしてもカナダを手にいれたことになり、この事実は1812年の戦争でいよいよ確かなものとなる。

忠誠派の圧倒的多数はアメリカに踏みとどまったが、必ずしも元の地域にいたわけではない。特に南部諸州の大勢の人が北部や西部に流れていった。戦争の結果、純粋なイギリスの血をひくアメリカ人の人口比率は下がったが、それ以上に重要なことは、古い類型を破る新しいカップルが誕生して混血が進み、人種の「るつぼ」の温度を高めたことである。そこにはすでに、さまざまな民族、宗教出身の人々を完璧なアメリカ市民に変身させる仕組みがはたらいていた。

(7)内戦の悲劇をかろうじて免れたアメリカ独立戦争

おおかたの「解放戦争」の例にもれず、アメリカ独立戦争もまた苦い内戦だった。このような苦労とそれにともなう悲痛な事態を考えると、戦争を終わらせるのに一役買ったフランス軍の介入は極めて重要な出来ごとであった。それがなければ内戦はゲリラ戦の様相を呈して何年にもわたって長引き、イギリスにそそのかされた奴隷の反乱やインディアンの襲撃によってさらに悪化していたかもしれない。一世代後、この状況が中南米で実際に起こることになる。反乱軍とスペイン、国王派と反国王派分子の戦闘が何十年もつづき、独裁君主制、軍事政権、軍の暴動や反乱、そしてあらゆる種類の残虐行為をもたらした。この中南米の革命戦争の本質は、そこから生まれた自主的市民社会の弱さと不安定さや、つい先頃まで軍が演じた政治的役割を解明する助けとなるだろう。アメリカは、こういった事態は免れた。しかし危機一髪だった。

(8)ワシントンによって阻止された軍事政権への動き

戦時中から戦争直後にかけて、見苦しいできごとがいくつか起こった。大陸会議は行政部門が弱く、ないも同然で、戦争管理者としては徹底的に無能だった。まともな通貨がなく、実質的に急激なインフレ状態になった。ワシントンは、実は戦争の指導も管理も一手に引き受けており、彼がいなければ独立革命は軍事的にも社会的にも挫折していただろう。それにもかかわらず、1777年末の一時期、ワシントン更迭のうわさが流れたが、結局は何ごとも起こらなかった。

ヨークタウン攻囲戦のあと、一部の士官は大陸会議の力不足と怠慢による陸軍の物資欠乏に不満を隠さず、ワシントンに権力をにぎるよう圧力をかけるにいたった─ラテンアメリカの独立を阻むことになる状況と、まさに同じである。ワシントンに「王位に就く」ように促す手紙を書いたものもいる。給与の支払いは滞っており、1783年3月10日には駐屯地で反乱未遂事件も起きている。この事件は、「アメリカ史上、知り得るかぎり唯一のク−デター未遂事件」とされている。

ワシントン自身がすばやく軍務を退く決断を下したことで、最終的には独裁君主制に対する露ほどの疑いも消え去った。1783年12月23日、ワシントンはフィラデルフィアの大陸会議に出席し、ポケットから自筆の原稿を取り出すと、はた目にわかるほど震える手で開き、議長を務めていたトマス・ミフリンに向かって読み上げた。「議長、進退をかけた大事業がついに成ったいま、大陸会議に心からお祝を申し上げ、私に託された信任をつつしんで皆さまの手にお返しし、国務から引退するわがままをお許しいただきたく存じます。・・・そして、私が、かくも長い間、その御指示のもとに活動してまいりました偉大なる大陸会議に、敬愛の念をこめてお別れの言葉を申し述べ、ここに私の任命辞令書を返上し、公的生活のあらゆる業務から退くことにいたします」。ここで、ワシントンは任命辞令書を軍服の上衣から取り出し、演説の原稿をたたんで二つの書類をミフリンに手渡した。そして大陸会議の全員と握手を交わすと、愛馬にまたがり、夜を徹して走らせて、翌朝マウントヴァーノンのわが家に帰り着いた。

 

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