原民喜「五年後」に感じて

 久保田 訓章(広島東照宮宮司)


 原爆に遭ったのが中学一年生の時、多くの友を失い、惨状を見たので、六度目の申年を迎えた今の生が奇跡のようだ。初めて知った原民喜の「五年後」に苦い記憶が蘇り、今まで思い出したくなかった胸中の一端など独言を記したい。

 爆心地から千八百メートル内の建物、つまり城下町のほぼ全域と、そこで代々生活してきた十万もの地の人達、そして築城以来の町の文化も伝統も記憶も一瞬にして焼け失せた。以来、広島は「ゼロからのスタート」を合言葉に新しく美しい町、原爆都市として今日の如くである。そこでは、父祖たちの築いた伝統や風土や景観などを主張する人はマイナーであり、感覚的な視点として切り捨てられた。便利とか合理とか、経済の名の下に町造りも行政も進められたように思われる。

 原爆は人の心にまでも少なからざる、言うに言われぬ影を残したようだ。この空白というか、捩れのようなものは私の心にも在って、半世紀後も埋らない。そのものすごさ、恐ろしさは今も生きていると言いたい。

 さて、疎開先の八本松(現・東広島市)の教順寺から貨物列車で広島駅に着いたのが八月六日の三日後。見渡す限り瓦礫の焼け跡からは、まだ熱気が異臭とともに伝わってきた。駅を背に、遥か安芸の小富士を見通して、焼け落ちた松原町いろは松の大木並木の横から桜の馬場に入り、東練兵場を横切って東照宮石段に向う。

 宮下東西に流れる元古川沿い、溝の斜面の草むらには黒く膨れ上がった兵士の遺体が二、三体横たわり、肉親を待つかのようだった。石鳥居の左側、木陰には申し合わせたように頭を西にした避難者が二,三十人、横臥して私にも水を求めた。

 「飲んだらすぐ死ぬ」と教えられていたので、子どもごころに「がんばってください」という気持だけで精一杯であった。

 白いシャツにもんぺ姿の少女が横たわっていた。ひと目で中学一年生と分かった。何を言ったのかは忘れたが、女の子は「うみゆかば みずくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かえりみはせじ……」。途中で息を引きとった。今も脳裡を離れない。

 父は饒津神社の社掌として勤務中に被爆、母は社務所の下敷きになり、間一髪自力で脱出して焼死を免れた。

 父は顔面、両手両腕、胸、両足に大火傷。東照宮の祖父母の安否をと向う途中、小学六年生だった、火傷で泣き叫ぶ鶴羽根神社の息女を抱き届け、東照宮に着いた時は皮膚がだらりと垂れ下がり、誰か分からなかったと言う。御供所の一室で雨を避けて寝かされた父は苦しみ、祖母、母、子どもが枕辺で叫び続けた。

 当時、「人骨を粉にしてふりかけると火傷によく効く」との風評があった。宮下の練兵場では毎晩、大穴を掘って多くの遺体を荼毘に付す炎が暗闇のなかで揺れていた。姉妹と一緒に夜、人目を避けて熱々の小骨を持ち帰り、すり鉢で粉にして火傷の顔にふりかけた。粉は膿を吸収してカサブタとなり、効いているように思えた。みんな、必死の思いであった。

 翌春には一人で歩けるようになったが、顔のケロイドと、右耳は溶けたまま回復しなかった。火傷が癒え始めた夏、悲惨な現場に慰霊柱を建て、後に石碑とした。祈りが心を鎮めた。昭和四十八年秋、七十二歳で亡くなった。

 私も今、七十二歳、苦しくともよく生きてくれたと感謝している。苦労をかけた母は八十三歳まで生きてくれた。


(参考資料) 

五年後   原 民喜

竜ノ彫刻モ

高イ石段カラ割レテ

墜チ

石段ワキノ チョロチョロ水ヲ

ニンゲンハ来テハノム

炎天ノ溝ヤ樹ノ根ニ

黒クナッタママシンデイル

死骸ニトリマカレ

シンデユク ハヤサ

鳥居ノ下デ 火ノツイタヨウニ

ナキワメク真紅ナ女

 

 これは五年前のノートに書きなぐっておいたものである。 

 五年前……。私はあの惨劇の翌日、東照宮の境内にたどりつき、そこで一昼夜をおくった。

 石段わきの木陰に、沸いて流れる水があって、私はときどき咽喉を潤したものだ。あの水のところには、絶えず誰かが来て、かがんでいたようだ。水を飲むためばかりでなく何となく、私の足はあの清水のところに向かうのだった。今でも……。満目惨たる記憶のなかで、あのささやかな水は何かを囁いていてくれるようだ。

 東照宮の鳥居の下で、反転していた火傷の娘、

 兵隊サン 助ケテ

 あの声が真紅だったのか、あの口が真紅だったのか……くらくらと空間がくずれ墜ちるようだ。


広島花幻忌の会『雲雀』第4号、2004年、1-2頁。