広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第1回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年4月22日(木7・8時限,B102)
発表者:村下邦昭(哲学,D3)
発表題目:知識学における〈自我は在る〉についての一考察
配付資料:B4原稿4枚
プロトコル:稲葉泰士(哲学,D2)

1.発表要旨

発表者は発表の目的を,フィヒテ『全知識学の基礎』における知識学の第一原則 が,自我は端的に存在すると論じられるとして,この自我のあり方が如何にして導出され,知識学に対して如何なる意味を持つのかを論じることであると述べる.
そこで発表者は,フィヒテが第一原則発見の為の最短の方法として,命題A=Aから始めるていることに着目して論を進める.このA=Aは,もしAが在るならば,その場合Aが在る,ということを示している.この条件文と帰結文は,A=Aという端的な命題が成立するために,必然的連関によって結び付いていなければならない.この必然的連関は判断する主体,即ち,自我において保証されている.そして,必然的連関を保証する自我は自己自身と等しくなければ,その保証を確実なものにすることができない.それ故,自我=自我が要求される.この場合の必然的連関は自明なことであり,それ以上の保証を必要としない.そのため,自我=自我は〈自我は在る〉ということを示す.自我は自我である,ということによって,判断する自我と判断される自我は等しい,ということが論じられ得る.この判断によって自我は自己を定立し,自己によって定立されている.働きと結果とが同じ自我において生じており,これが事行〔Thathandlung〕である.この事行において,自我の定立作用が働いており,それ故,自我は存在し,逆に自我が存在する故に,自我の定立作用が働いている,ということが論じられ得る.このことによって,知識学の第一原則が発見される.それはまた,自我は自己自身の存在を,自己自身に対して定立するということも示している.発表者は,このような自我の在り方が絶対我と呼ばれると述べている.
以上のことから発表者は,〈自我は在る〉ということは自我の端的な定立作用を示しているとして,デカルトの〈我思う,故に我在り〉というような思惟と存在との不可分性は,知識学にとっては不可能である,と指摘する.存在と不可分であるのは,あくまで定立作用だけであり,それ以外の働き,例えば,思惟などは存在の限定である.それ故,フィヒテは〈我在り,故に我在り〉と述べると発表者は論じる.
また,発表者は,〈自我は在る〉を越えて,自我以外の何ものかに自我の原因を求めることはスピノザ主義であると,フィヒテは論じると述べる.スピノザ主義では自我は自我の外なるものの内に定立されるが,知識学においては,全てが自我の内に定立される.あるいは,スピノザ主義が純粋意識を経験的意識から完全に分離したが,知識学においては,純粋意識は経験的意識の内に与えられるものである.あらゆるものに先だって自我が存在しているということが経験的意識の説明根拠であるが,これによって,この純粋意識と経験的意識の結び付き,つまり,絶対我と有限我との関係性が示されている.純粋意識(絶対我)は経験的意識(有限我)において,そのようなものとして意識されることによって,経験的意識と関係している.その理由として発表者は,経験的意識と無関係なものは意識されず,自我にとっては存在しないからである,とする.
結論部分で発表者は,〈自我は在る〉は経験的である一方で,常に経験を可能にし,それを説明する,と述べる.このことから,この〈自我は在る〉から一切のものが説明づけられるということが導出されると発表者は論じている.以上のことから,〈自我は在る〉は自我の自己反省が生じない限りは,自我の意識に上ることはないが,そのことが却って,〈自我は在る〉が意識の根底にあることを提示する,と発表者は結論する.


2.質疑応答

[問] 自我の外にある,或るものもまたスピノザにとっては自我である,ということの解釈について.
[答] スピノザの汎神論をフィヒテが神=自我と置き換えている.批判も多い.

[問] スピノザの神・自然観とフィヒテの自我論を整合的に解釈するのは齟齬が生じないか.
[答] 厳密に言えば生じているであろうが,フィヒテがスピノザの考えを,自らの考えに合うものとしている以上,フィヒテが齟齬を認識していたかについては確信が無い.

[問] 純粋意識と経験意識との区別の意義について.
[答] フィヒテの自我論の哲学的意義.デカルトからカントまで続く「物」と「私」との関係をフィヒテは「絶対者」・「絶対知」としての自我から説明する.

[問] 自我は何故,「絶対性」と結びつくのか.
[答] 第一原則と否定から導かれる.

[問] 思惟の主体は触発されるか.
[答] フィヒテは,「私」があって「物」がある,と考える.「私」が「物」の原因である.それ故,思惟の主体は触発されない.



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