広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2007年度(前期) 第1回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2007年4月20日(金9・10時 限,B253)
発表者:根本裕史(インド哲学,D3)
発表題目:ツォンカパ作rTsa she Tik chen解題
配付資料:A3原稿5枚(片面)
プロトコル:松岡寛子(インド哲学,D2)

1. 発表要旨

ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa:1357-1419)のMuulamadhyamakakaarikaa(MMK,ナーガールジュナ作) 註rTsa she Tik chen(1407年-1408年頃)は彼の代表作の一つであり,彼独自の中観解釈が随所にちりばめられた作品である.近年rTsa she Tik chen研究を取り巻く環境は大きく変化しつつある.まず第一に,Geshe Ngawang Samten師とJay L. Garfield氏の共同作業によるrTsa she Tik chen全体の初の英訳が2006年に出版された.そし て,第二に,ラサのペルツェク蔵文古籍研究所が編纂したbKa' gdams pa'i gsung 'bumが2006年に成都より出版されたこと により,ツォンカパ以前にチベットで著された四点のMMK註が初 めて参照可能となった.

パツァプロツァーワ・ニマタク(Pa tshab lo tsa'a ba nyi ma grags: b. 1055) dBu ma rtsa ba'i 'grel pa

ソナムセンゲ(bSod nams seng ge) dBu ma rtsa ba'i rnam par bshad pa srog gi 'khor lo

シェーラプ・ブム(Shes rab 'bum: 13c.) dBu ma rtsa ba'i bshad pa 'thad pa rnam par nges pa

シャクリントゥンパ(Shag rings ston pa) dBu ma rtsa ba'i Tikka rnam dpyad snying po

これらに加えて,ニマタクの弟子の一人であるシャンタンサクパ・イ シージュンネ(Zhang thang sag pa ye shes 'byung gnas)による PrasannapadaadBu ma tshig gsal gyi ti kaの ウメ字写本が近年発見され,目下テクスト校訂作業が行われている.

発表ではこれらの新情報に関する報告も兼ねて,チベット中観思想史に おけるrTsa she Tik chenの位置付け,ツォンカパが rTsa she Tik chenを著作するまでに至る経緯,並びに, rTsa she Tik chenの研究状況について概論した.


2. 質疑応答

[問] 文殊菩薩がツォンカパに対して説く内容について.「顕れ の側面と空の側面の間に優劣をつけることはできず,特に顕れの側面を 重視すべき」(p.7, ll.159-160)とはどういうことか?

[答] 「顕れの側面」は世俗を,「空の側面」は勝義を意味す る.文殊菩薩は,当時一般的でありツォンカパ自身も陥っていた虚無論 的な中観解釈が誤りであることを指摘したうえで,勝義だけではなく世 俗も重視すべきであると諭している.

[問] 文殊菩薩と交信するという宗教体験がツォンカパ伝に盛り 込まれるということにはどのような意味合いがあるのか?

[答] 文殊がツォンカパに説いたとされる教えの内容は,後に彼 自身がLam rim chen moなどにおいて体系化した「中観派 の不共の勝法」に一致するものであり,彼が文殊と出会う以前の著作に は見られないものである.従って,ツォンカパ30歳代の頃,彼の 中観理解に何らかの重要な転機が訪れたであろうことは確かである. ツォンカパ伝ではその過程を「文殊との交信」というエピソードによっ て象徴的に描写しているのである.

[問] 「取相の対象が全て消滅し,真実義を別の辺であるとする 増益が余すことなく引き抜かれた」(p.7, ll.177-178)とはどう いうことか?

[答] ツォンカパが後にrTsa she Tik chenなどに おいて明確に提示している解釈に従えば,真実義(=空性) を辺と捉えるという発想は,端的には「対象を空と捉えることすらも否 定されるべきである」とする中観思想理解のことを指している.彼によ るとこれは誤った中観理解に他ならず,対象が空であることや対象を空 であると捉えること自体は否定されるべきではない.つまり,一方では 対象を真実のものと捉える見解を捨て去り,他方ではその対象を空であ ると捉える見解を保持することにより,正しい中観理解に至るのだと彼 は考えている.伝記は彼がこうした中観解釈をするに至った経緯を描写 している.

[問] rJe'i gsan yigなどに見られる師資相承の 系譜は何に基づいて決定されるのか?

[答] 誰から口伝(lung)を授かったかということに基づい て師資相承の系譜は決定される.なお.師資相承の系譜に関しては.誰 から思想的影響を受けたかということは全く問題にならない.

[問] ツォンカパの中観解釈にはどのような点で彼の独自性があ ると言えるのか.

[答] ツォンカパは彼以前にチベットに存在していた中観解釈, 特にタンサクパやマチャ・チャンツォンが行なっていたと思われる解釈 を批判し,中観派の存在論や自立派・帰謬派の分岐などをめぐって彼独 自の解釈を打ち出している.近年の研究では.ツォンカパの中観解釈を インド中観派の伝統から逸脱と見なす批判的理解が大勢を占めている. インド中観思想との関連でツォンカパの立場をどのように位置づける か,そして,チベット中観思想の歴史の中で彼の立場をどのように位置 づけるかは今後の課題である.




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