比較論理学プロジェクト研究センター/第3回研究会

発表日:2004年1月13日
場所:大会議室
発表者:稲見正浩(東京学芸大学)
発表題目:仏教論理学派における論理と宗教--因果という観点から--
配付資料:A3用紙1枚(レジュメ)
時間:発表 15:00〜15:40
   質疑 15:40〜16:00
司会:本田義央(インド哲学・助手)
プロトコル作成:江崎公児(インド哲学・博士課程後期1年)


発表要旨

  仏教論理学派の認識論・論理学にとって、因果関係は重要な役割を担っている。 同派の中心人物ダルマキールティは実在を「因果効力をもつもの」と定義する。また、 確実な認識(プラマーナ)を、後にその対象の効果(結果)が確実に得られるもの、 すなわち、「欺かない知」と理解する。さらに、この確実な認識は知覚と推理の二種 とされるが、このうち、知覚は外界対象との因果関係でもって説明され、推理に関し ても、その基盤となる「本質的関係」の一つとして因果関係が説かれる。  この因果関係は、ダルマキールティにおいては、「AがあればBがあり、Aがなけ ればBはない」というアンヴァヤ・ヴィヤティレーカに他ならないものとされ、知覚 と非知覚によって決定可能なものとして扱われる。具体的にはこの決定は「Aが知覚 されると、これまで知覚される条件を備えていながら知覚されなかったBが知覚され る。A以外の原因があってもAがなければBはない」というプロセスをとる。この因 果関係決定の理論はダルマキールティ以降の仏教論理学派の認識論・論理学において 一貫して説かれるものである。  しかし、プラジュニャーカラグプタなどの一部の仏教論理学派の著作には、このよ うな方法によって本当に因果関係は決定できるのか、という発展的議論が見られる。 彼らの説明によれば、因果関係は真実にはいかなる認識手段によっても把握されず、 単なる思いこみにすぎないものとされる。真実には知には因と果という二つのものは 顕現せず、因果関係は決して把握されることはない。これによれば、因果関係とその 決定は単なる世俗的なものでしかない。  彼らの同様の指摘は認識の確実性の問題に対しても見られる。知の確実性の基盤で ある、知の斉合性(欺かないこと)は真実には決して把握されない。前後二つの知は それぞれ自身の対象を把握するのみで、斉合性を知ることは決してない。この論によ れば、因果関係同様、斉合性にもとづく知の確実性も単なる世俗的な真理でしかない。 したがって、自らの説く認識論・論理学というプラマーナ論は世俗的な真実であって、 究極的真実ではないことになる。  ダルマキールティ等の仏教論理学派の人々がこのような日常的な認識・論理の限界 を意識していたことは明らかである。この世界の土台である因果・斉合性は突き詰め ていけば破綻するものであると彼らは認めている。日常的な真理はあくまでも日常的 なもの(世俗)であって、それを超えた究極的な真実(勝義)の世界が存在する。そ れは主観・客観などのあらゆる分岐を離れた不二の世界とみなされている。これは修 行の完成として得られる仏知の世界である。  この勝義からすれば、日常の現実世界を取り扱う彼らのプラマーナ論の立場は否定 されるべきものであるが、かといって全く無益なものではない。それはこの勝義の世 界を後に導くものとして位置づけられる。修習により徐々にレヴェルアップしていく 知の一つの段階として考えられている。これによれば、彼らのプラマーナ論は仏教の 宗教的真実と全く無関係なのではなく、むしろ仏教思想体系の大きな枠組みの中に位 置づけられることになる。ジュニャーナシュリーミトラは、現実世界を因果的な世界 とみなすこの世俗の立場を経量部のものとし、それを超越した不二という勝義を唯識 の立場と理解している。このような異なった立場が一つの修道体系の上に階梯をもっ て並ぶと彼らは考えていると思われる。


質疑応答(摘要)

問:因果関係はそれ自体存在すると考えてよいのか。

答:それはリアルなものとして存在するのではなく、あくまで世間的な通念としてある。

問:発表者の学位請求論文の中では、真理の自律性・他律性も論じられているが、そ の自律性・他律性とは、インドではどのように論じられているのか。

答:認識の妥当性の生起が自律的であるか他律的であるか、或いは認識の妥当性を知 ることが自律的であるか他律的であるかという問題が伝統的に論じられている。

コメント:因果関係に関する仏教論理学派の各学匠の見解が明快に提示された。その 中で登場する彼らの真理観について有益な議論がなされた。


以上