広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
(仮設Webページ)


哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第5回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年5月27日(木7・8時限,B102)
発表者:高橋淳友(哲学, D3)
発表題目:「魂の牢獄」としての「私」−あるいは「エックハルトはグノーシス主義的か」−
配付資料:B4原稿2枚(表裏), B5原稿1枚(表裏)
プロトコル:槙尾朋子(西洋哲学, B3)

1.発表要旨

 今回の発表の概要は次のようなものである.発表者によると,マイスター・エックハルトの述べる「離脱」とは,人間が,あらゆる被造物から「解き放たれ」,神と一致した在り方であるとされる.発表者はまた,このあらゆる被造物の中には,被造物としてのその人間自身の在り方,つまり身体的・感覚的在り方も含まれると述べる.発表者はこのような,人間における解き放たれるべき自己と,被造物としての自己の在り方を,エックハルトのドイツ語説教とラテン語説教を踏まえて,「魂」(「解き放たれるべき自己」)とその「牢獄」(「被造物としての自己」,)の関係として捉えている.発表では,この「牢獄」の「牢獄」としての意味と,それから「解き放たれた」在り方が,「離脱」を中心として述べられている.その際発表者は,エックハルトが時に「グノーシス主義的」と言われること,さらにグノーシス主義においても,身体的なものはある種の<魂の牢獄>とみなされていることを踏まえて,エックハルトとグノーシス主義両者における「牢獄」に対する見方の違いについても触れている.
 発表者は,エックハルトにおける「魂の牢獄」は,それ自体が「牢獄」としての力を発揮するものではないと主張する.「離脱」という在り方を通し,<神人>キリストがそうであったのと同様の「神との一致」を果たすことで,キリスト同様,彼以外の人間においても,「牢獄」は「牢獄」としての在り方を解消しうるものだと発表者は述べる.またこの点において,「肉体の死」を「牢獄」からの解放につながるものと考えるグノーシス主義とエックハルトは異なっているとされる.発表者によると,エックハルトの考える「魂の牢獄」が「牢獄」として機能するのは,身体的・感覚的なものそれ自体に拘束性があるからではないという.むしろこういったものが「牢獄」として機能するのは,魂の側が「感覚的なもの」に<囚われる>からだとされる.

2.質疑応答

[問] 「離脱」した人間にとって,身体は牢獄ではないのか.
[答] そうです.
[問] グノーシス主義とは何か.
[答] 人間と至高神との間には断絶があるが,可視的・物質的世界が終末を迎えるときに神的な本質は至高神の領域へ回帰するという考え.

[問] 「離脱」とはどのようなものか.
[答] 外面の影響が内面には影響を及ぼさない状態に至ること.

[問] 世界創造以前に戻るとはどういうことか.「離脱」とは全てのものから解き放たれるのではないのか.
[答] 「離脱」とは欲望や外的世界からの「離脱」である.それにより,生きることにしかエネルギーを使わなくなる.

[問] 「離脱」の状態にある人は感覚的認識を必要としているか.
[答] 生きている以上は感覚的認識をしている.
[問] では,「離脱」の前と後とではどう異なるのか.
[答] 「離脱」した後は,為すこと全てが神の在り方にかなうようになる.

[問] 真の在り方としての「私」とはどのようなものか.
[答] 奥底にある神的なあり方としての「私」である.

[問] 人は恩寵により神でありうるものになりうるとあるが,人は神でありうるのか.
[答] キリストが神であると呼ばれるような仕方で,他の人もキリストのようになりうる.

[問] 「感覚的なものを引っ張りこむ」ことに<囚われる>魂は「離脱」前のものか.
[答] そうです.
[問] 「離脱」したら<囚われる>わけではないのか.
[答] そうです.
[問] <囚われない>と表現してよいか.
[答] <囚われない>という表現だと,外的なものと関わらないというニュアンスが含まれるので適切ではない.
[問] では,別の表現をするとどうなるか.
[答] 「現世的なものは,彼には全然おいしいものではない」という個所が該当する.つまり,感覚的欲望が最低限である.

[問] インド的とはどういうことか.
[答] 自我の本質と宇宙の根本的原理との結合という点がインド的であると言える.



戻る→ 哲学・インド哲学「論文ゼミ」