広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第7回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年6月10日(木7・8時限,B102)
発表者:西村智基(哲学, D3)
発表題目:『哲学探究』第II部x節における"Ich glaube..."の分析について
配付資料:B4原稿1枚
プロトコル:高橋祥吾(哲学,D1)

1.発表要旨

 この発表は,ウィトゲンシュタインの『哲学探究』第II部x節での,"Ich glaube..." (私は...と信じている)という表現について考察する.ウィトゲンシュタインのねらいは,ムーアのパラドックスの解消を通し て,「信じる」という心理学的概念の周りに張り巡らされている文法の網を記 述することであったと考えられる.発表では,その点を踏まえたx節の読解の ため,ムーアのパラドックスに対する,ウィトゲンシュタインが行っている, 2種類のパラドックスの解消について見てゆく.
 ムーアのパラドックスをまとめると次のようになる."Ich glaube P, und -P" (例えば,「私は晴れていると信じている,しかし雨が降っている」) は,不合理で排除されるべき命題と考えられるが,しかし,伝統的論理学の見 地からすると,矛盾しないと説明することができてしまう.ここにパラドック スがある.この命題を記述説で説明すると,"Ich glaube P" は,個人の心的 状態を記述し,他方で "P" は世界についての記述として区別できるため,矛 盾が生じないと考えられるからである.
 しかし,この記述の区別による説明をウィトゲンシュタインは拒否する.と いうのは,記述説の場合,"Ich glaube P"という心情の記述は,発話本人には その記述の整合性を確かめることが出来ないからである.記述説の場合,その 記述の整合性に対する判定は,第3者によるものでなければならず,結果とし て「私は信じている」と自身の精神の状態を記述する事はできないのである.  そのためウィトゲンシュタインは,"Ich glaube P"を「報告ゲームの方向転 換」という可能性を提示し,パラドックスの解消を計る.このとき,"Ich glaube" はインデックスとして導入されたものと見なされ,その結果,問題の 命題"Ich glaube ..., und es ist nicht so" は,P=-Pを意味することにな り,それは矛盾するとして理解される.
 また第2の解消方法として,新しい言語のあり方として,"Ich glaube"のよ うな表現が,まったくあらわれない言語を考えることが提示される.この言語 は,"Ich glaube"のような直説法の汾l称は存在しないため (3人称や,接続 法の汾l称の表現は存在する.また存在する表現も,「信じる」の代わりに 「〜と言う気がある」という表現となる.),ムーアのパラドックスは生じる 原因がないことになる.
以上のようにウィトゲンシュタインは,ムーアのパラドックスを,一方で矛 盾として,他方で原理的に発生を防ぐ仕方で解消しているのである.

2.質疑応答

[問] ムーアのパラドックスは,どこがパラドックスになっているかが曖昧で あったので解説してほしい.
[答] "Ich glaube P" と "P" をあわせて,"Ich glaube P, und -P"と言うと きに不合理が生じる.この発言は,不合理であるが,伝統的論理学の見地から すると,"Ich glaube P" であり,且つ "P"であることは,矛盾ではないと考 える事ができるからである. 発言自体が不合理であるはずなのに,矛盾がな いと説明できるところにパラドックスがある.

[問] 『哲学探究』からの引用(p. 191) で,「彼は信じている」と3人称が 使われている理由は何か.というのは,それまでの話は「私が信じている」こ とが話題と綯っていたから.また,「一つの語形を欠いた」と言われている が,その語形とは,汾l称のことなのか.
[答] 欠けている語形は汾l称である.そして3人称は欠けないので,ここで 言及される意義が生じている.

[問] ムーアのパラドックスを受けて,これは通常の使用からは乖離している と言うが,乖離している使用とは具体的には何を指して言っているのか.
[答] "Ich glaube P" のような使用方法のことである.

[問 (意見)] 問題は"glaube"というドイツ語の使い方の問題ではないかと思われる.

[問 (意見)] "P=-P"という表現は,"="の定義が曖昧である.

[問 (意見)] "glauben"という語の文化的,思想的な背景などを考察すること が,より有益な考察に繋がるのではないか.



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