広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2007年度(前期) 第7回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2007年06月08日(金9・10時限)
発表者:川上裕(インド哲学,B4)
発表題目:サーンキヤ学派の精神原理について
配布資料:A3用紙3枚(片面)
プロトコル:日高誠(インド哲学,B4)

1. 発表要旨

 本発表では,サーンキヤ学派の学説を要約した現存最古の文献である,イーシュヴァラクリシュナの著作Sa@m@kyaka@rika@(以下SK)に対する注釈書でヴァーチャスパティミシュラによるSa@m@kyatattvakaumudi@における純粋精神(purus@a)の性質を考察し,サーンキヤ学派の精神原理について述べた.サーンキヤ学派とは,六派哲学の一つであり,純粋精神(purus@a)と根本原質(prakr@ti)の二元論を最大の特徴とする哲学体系をもつ学派である.

 一般には,自我にあたる語はa@tmanであるが,サーンキヤ学派では,精神原理を表すのにpurus@a(純粋精神)という語を用いる.SK中では,a@tmanを「自己,自分自身,それ自体」の意味に限っている.サーンキヤ学派は,a@tmanという語がもつ「自己」,「自我」という意味を,精神原理から排除しようと意図したと考えられる.

 SK19では純粋精神の五つの性質を挙げる.(1)証人であること,(2)見る者であること,(3)独存であること,(4)中立者であること,(5)非行為主体であること,である.

 サーンキヤ学派は,根本原質から多様な現象的世界が展開したことを説明するために,性質であるとともに存在の構成要素である三つのグナ(gun@a)を想定した.世界の展開は,根本原質と純粋精神の結合によって始まるとされる.SK21では,純粋精神と根本原質の結合の必要性を示すために,両者を足の不自由な者と眼の不自由な者に例える.純粋精神が「見ること」で世界は展開するが,その世界の苦を自身にあるものと看做し,「独存」,つまり根本原質から離れることを望む.

 サーンキヤ学派は,すべての心の働きを根本原質から展開した機能と説明し,純粋精神とは対立するものと考える.そうであるならば,世界の問題は,すべて自然原理の領域内で解決されるであろう.しかし彼らが求めたのは,世界の苦しみから離れた,永遠なる純粋精神の安らぎであった.彼らにとっても輪廻からの解脱は大きな課題であったのである.今後もサーンキヤ学派の二元論について考察を深めていきたい.


2. 質疑応答

[問]多くの注釈書の中で,a@tmanとpurus@aが同義で扱われているというのはどういうことか.

[答]SK中では両者を同格として扱ってはいない.a@tmanは再帰代名詞として使用される.

[問]「もともと三苦を離れているにもかかわらず,純粋精神が独存のために根本原質と結合する」のはなぜなのか.

[答]独存があるから結合があるのであり,両者が結合していなければ,この世界を知ることはできない.しかし,最終的な目標は独存,つまり解脱である.「解脱のために輪廻している」とも言える.

[問]purus@aは個々人にあるのか.

[答]SK18に議論があり,個々人にあるものとされる.

[問]細相(lig@ga)は二元論の中でどういう位置付けがされるのか.

[答]輪廻の主体は細相である.純粋精神と根本原質の結合により,細相は精神的なものになる.

[問]「人間を中心にして世界の展開を考える」とあるが,人間以外の生物のことは考慮しないのか.

[答]サーンキヤの哲学体系の中にも,四道というものがあるが,「人間の意識から世界を見ている」と言える.

[問]「知覚器官は,物質そのものではなく能力を指す」のに対して,行動器官は能力を指しているのではないのか.

[答]今後,検討したい.

[コメント]瞑想から覚醒への段階を述べた,ヨーガの実修者が考えた哲学体系と考えられるのではないか.



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