広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第9回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年6月24日(木7・8時限,B102)
発表者:吉田智彦(哲学,M1)
発表題目:宗教は宗教か? −宗教多元主義についての一考察−
配付資料:A3原稿1枚(両面)
プロトコル:高橋淳友(西洋哲学,D3)

1.発表要旨

 発表者は,「宗教間の対話・交流が実現されうるのてはないかとも期待された」,「存在するすべての「宗教」を認める」「宗教多元主義」は,「今日においては,完全な袋小路に陥っているように思われる」と主張する.今回の発表において,発表者はその原因として,「「宗教」というものに対する反省,あるいは考察」の不足を挙げる.発表者によると,「宗教多元主義」とは,「特定の宗教を特別視したり,他の宗教を虚偽であるとして排除するのではなく,諸宗教を同じレベルの存在として認めてゆこうという思潮」(岸根敏幸,『宗教多元主義とは何か』晃洋書房 2001, 1頁)であるという. しかし発表者は,「多元主義は自らが標榜する多元主義に徹し切れなかった」と主張する.というのも,発表者によると,「宗教多元主義」は,キリスト教の側から他宗教を研究する「諸宗教の神学」−これは,「特定の宗教(自宗教)の亜種と考える限りにおいて他宗教を容認する」という「包括主義」に区分される立場であるとされる−に対する「批判」あるいは「それを超克しようとする議論」という面を持ちながら,その「発信源」は「主としてキリスト教」であり,「宗教多元主義における他宗教理解」とは結局,「一神教,特にキリスト教に都合良く仕立て上げられている」ものだからである.
 発表者はこのように多元主義の不徹底を指摘した後,「宗教多元主義が理論的な破綻に陥った根本的な原因」の考察を試みる.発表者によれば,それは「「宗教」という言葉・概念」にあるという.発表者は,「諸宗教というが,果たしてそれらは「宗教」という言葉で括ってしまってよいのか」と疑問を提示し,この点をあまり検討しないまま,「看過してしまったところに,宗教多元主義の破綻の一因があった」と述べる.発表者は,「宗教」を「改めて考察し直す必要がある」こと,しかも「宗教を「知−信」の中間に位置する人間が直面する信仰と理性の問題と措定した上での検討」の必要があることを主張するのである.

2.質疑応答

[問] 諸宗教は「宗教性」という立場で包括し得るのではないか.
[答] その場合でも西洋的な <宗教>という言葉で括られてしまう.

[問] 「宗教は宗教か」という問いに込めた意味は何か.
[答] <宗教>という場合,そもそもキリスト教的見解に基づいて論じられ過ぎており,このように普通は問われないので,改めて問いかけてみた.

[問] 一神教の立場から見た「多元主義」と「包括主義」の間の区分は何か.
[答] 特にないように思われる.

[問] 果たして<宗教>の共通理解は提示できるのか.
[答] 現状の<宗教>理解の下では,共通理解は提示できないのでは.

[問] <多元>,<多神>というよりも<汎神>の方が理解されやすいのでは.
[答] 西洋人には理解しにくいように思われる.

[問] 例えば,「いかに死を乗り越えるか」という点も,<宗教の根本>として提示しうると思われるが,今回の発表では<死>の問題についての言及がない.それはなぜか.
[答] 「多元主義」においては,教典等について触れることがあっても,あまり<死>について触れている場合は多くない.したがってあまりこの面について触れるのも如何なものかという気がする.

以上の質疑応答の他,発表者に対し,例えば次のような指摘がなされた.すなわち,「「知と信」の間のものとして,「パトス」的なものを考える必要があるのではないか」,また,「発表者自身による<宗教>の定義付けが提示される必要があるのではないか」,さらには,「事実として存在する宗教間のぶつかり合いという現実の問題に対し,どこまで発言できるのか」等々という指摘である.



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