広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2007年度(前期) 第9回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2007年6月22日(金9・10時限,B253)
発表者:片山由美(インド哲学,D1)
発表題目:『法華経』「方便品」における一条思想−tathAgatatveの解釈を中心に−
配付資料:A3原稿2枚(両面)
プロトコル:松岡寛子(インド哲学,D2)

1. 発表要旨

 『法華経』第二章「方便品」において,シャーリプトラの「三請」を経て,シャカムニ・ブッダ(世尊)は,一乗法を開示する.この一乗法が,一切衆生の成仏を目指す教えであることはよく知られている.しかし興味深いことに,このような一乗思想が,『法華経』のどの箇所に,どのように説かれているかに関しては統一的な見解がいまだ見られない.平川[1989],高崎[1974]は『法華経』に『涅槃経』の「一切衆生皆悉仏性」あるいは如来蔵思想を連想させる言明を求め,苅谷[1983]は,『法華経』に直接「一切衆生皆悉ぼさつ」という思想を表明した言明を求める.

 本発表の目的は,如来の本願に焦点をあて「仏たること」(tathAgatatva, 如来性)がどのように解釈されるべきかを明確にすることによって,『法華経』「方便品」における一乗思想の一端を明らかにすることであった.考察の結果,次のことが明らかになった.

 まず,「方便品」では,菩提を軸とした衆生との関係の中で,仏が方便による教説を通じて一乗法を開示する.このような仏と衆生の関係を考慮すると,ab句とcd句の両方にtathAgatatveは適用されるべきである.

 次に,第100偈における如来の菩薩時の誓願と第101偈を併せ考えると,第101偈中のtathAgatatve における位格表現は,衆生に如来性を獲得させるという目的の意味で解すべきである.

 以上の考察から『法華経』「方便品」における一乗思想を簡潔にまとめると,それは,一切衆生を菩提の獲得に向けて修行させたいという世尊の本願によって表明されるものである.


2. 質疑応答

[問] 発表者は,「ab句とcd句との両方にtathAgatatveは適用されるべき」(p. 7, ll. 320-321)と結論するが,そのことは試訳に反映されているのか?試訳「〔如来たちは〕未来において,実に〔一切衆生が〕如来になることができるように(tathAgatatve),教えへ入る数多くの幾千万億という入り口を説き明かすでしょう」(ab句);「そうすることによって,この一乗を示しながら,法をお説きになるでしょう」(cd句)では,ab句にのみ適用されており,cd句には適用されていないように見える.

[答] ab句はcd句の前提条件であるから,結果的にはcd句にも適用されていることになる.

[問] 発表者の提起する先行研究に対する問題は,第三節「如来の本願」(pp. 3-4)における第100頌の内容の考察によって回答が得られているようにように見える.構成上,第四節「一乗と法の関係」(pp. 5-7)の必要性はあるのか?

[答] 第三節では,tathAgatatveという語の位格表現を根拠の意味で解する先行研究(E. Burnouf, le Lotus de la Bonne loi, 2Vols, Paris, 1982, etc.)を批判し,目的の意味で解するべきことを明らかにした.一方,この位格表現を目的の意味で理解する先行研究として,伊藤氏によるものがある(伊藤瑞叡『法華菩薩道の基礎的研究』平等寺書店, 2004).しかしながら,これにもまた,「一乗」理解の点で問題がある.第四節では,氏の「一乗」理解を批判したうえで,それとは異なる発表者の「一乗」理解を明らかにした.構成が分かりにくかった点は,今後是正したい.

[問] 「諸々の法の根源(prakRtir dharmANa)はいつも輝いている(prabhAsvara)」(p. 5, ll. 216-217)とはどういうことか?

[答] この「輝いている」つまり明浄とは,専らの心性本浄の浄,自性清浄心の清浄を示す熟語である.ここでは,諸法の本性であって,心の本性ではない.しかし『法華経』では,心性本浄思想を曖昧な形で受容しているのではないかと指摘されている.

[問] 発表者は,第105頌を根拠として「一乗が寂静の境地と言い換えられていることに注意すべきである」(p. 6, ll. 270-271)とするが,「乗」(yAna)が,菩提も菩提へ至る道のいずれをも意味するのは当然ではないのか.

[答] 一乗を行ぜられるべき法とみなす,伊藤氏に対する批判を根拠づける意図があった.

[コメント] 第四節「一乗と法の関係」では,「法」という漢訳や先行研究者の訳語の問題が採り上げられているが,伊藤氏の論証法(法の三義など)に問題があることを指摘したうえで,よりテクストに基づく考察を行った方がよい.




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