広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
(仮設Webページ)


哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2005年度 第10回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2005年06月30日(木7・8時限,B102)
発表者:イ ジェヒョン(インド哲学,M2)
発表題目:「言語活動が[実在の]部分の一部に随順する」と いう主張について
配付資料:A4原稿5枚(片面)
プロトコル:田村昌己(インド哲学,B4)


1.発表要旨

インドの言語哲学者・文法学者であるバルトリはリの主張によ れば,言葉は対象をあるがままに表示するものではなくて,そ れの一部か,対象とは別物による決定か,或は[実在に対する ]顛倒か,非存在に随順する,即ち表示するものとして起るの である.そして,言葉がこのように実在をあるがままに表示す ることができないのは,言葉の表示領域とも言える現象界が, 究極的な実在,即ち表示されるべき対象であるブラフマンのあ るがままの姿ではなくて,単一なるブラフマンが,それが持つ 多様な<能力>によって様々なものとして現れたものに過ぎな いからである.これは,「言語活動は[実在の]部分の一部に 随順する」とバルトリはリが主張する時,言葉の表示対象であ るその<[実在の]部分>,さらに<その[実在の]部分の一 部>は決してそれ自体として実在性を持つものではない,とい うことを意味する.そして,究極的な実在であるブラフマンと 非実在である現象界の間の媒介体として<能力>が考えられる 時,その<能力>とブラフマンの関係,或はブラフマンにおけ る能力の位置が慎重に定義されなければならない,ということ も暗示するのでる.


2.質疑応答

[問]我々は完全な実在を知ることができるのか.

[答]普通の知覚や言語活動では不可能である.

[問]「単一なブラフマンが多様化して現れる」という記述が あるが,一体,ブラフマンは単一なのか,それとも多様なのか .

[答]究極的には,ブラフマンを〜であると規定するこ とはできない.従って,究極的には単一とも多様とも規定する ことはできない.

[問]<ブラフマンの部分>という表現と<[実在の]部分> という表現はどう違うのか.

[答]<究極的な実在>とはブラフマンを意味しているから, 結局同じものを指す表現である.

[問]「<能力>はブラフマンと同一なものであると同時に, またそれと同一なものとも異なるものとも規定できないもので ある」という記述があるが,これはどういう意味か.

[答]ブラフマン自身に現象界の色々な性質が備わっているこ とではない.ブラフマンはそれとはぞ元を異にしているもので ある.しかし,現象界における多様な差別を我々はブラフマン から由来するものとして考えるしかない.なぜならば,究極的 に実在するものはブラフマンしかないからである.その時,現 象界のたような差別を説明するために,ブラフマンが持つ多様 な能力が想定される.即ち,非実在的な現象界の差別を説明す るために,実在であるブラフマンに多様な能力が<付託される >のである.究極的には実在するものはブラフマンしかないか ら,諸能力はブラフマンに属するものとして考えられるしかな いし,このような意味で諸能力はブラフマンを期待とするもの ,更にはブラフマンと同一なものとして理解される.しかし, 厳密に言って諸能力は非実在であるから,究極的にはそれをブ ラフマンと同一であるとか,異なるとか規定することはできな い.存在しないものを存在と同一であるとか,異なるとかと判 断することはできないからである.

[問]<[実在の]部分>,そして<部分の一部>とあるが, どういう意味か.

[答]<実在の部分>はブラフマンが個別体として現れたもの を指し,<部分の一部>は,例えば個別体「壷」が持つ様<属 性>などを意味する.





戻る→ 哲学・インド哲学「論文ゼミ」