広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2009年度(前期) 第11回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2009年06月26日(金9・10時限,B153)
発表者:信岡愛美(西洋哲学,B4)
発表題目:プラトンの『メノン』を考察するにあたって- 想起についての考察(1) -
配付資料:A3原稿3枚(片面)
プロトコル:池田信義(哲学,M2)

1. 発表要旨

 プラトンの前期対話篇『メノン』は「想起説」を初めて提言した著作だが,この段階ではまだ想起の対象がイデアであることが明確にされていない.しかし『メノン』について考察するに当っては,「想起」が単なる<思い出すこと>ではなく,「知」のプロセスであり,「イデア論」,「魂の不死」という思想と深い関連性があることを念頭に置いておく必要がある.われわれは外的なきっかけによって,魂がイデア界において予め学び,この現実世界で身体のうちに閉じ込められることにより忘却した知識,すなわち後の対話篇で指摘されるところのイデアを想起するのであるが,この想起においては対話が非常に有用である.『メノン』においては,図形の想起とアレテーの想起が記されているが,今回は以上のことを踏まえつつ,図形の想起について,特に対話の中でのソクラテスの問いかけが論の展開にどのような意味を持つのかを検討した.ソクラテスはこの場面において,しばしば相手に具体的な回答を求めるが,これは相手の誤ったドクサを露呈させ,相手を探求に向かわせるための前提となる,分かったつもりになっているという状態を誘発,あるいは明確にするためであったと思われる.


2. 質疑応答

[問]ソクラテスと少年との会話において,1プゥスと云うように使われる,プゥスとは何のことか.

[答] 長さの単位のことである.

[問]通常思い出すこと,とは「過去に捉えられた対象の思い出し」であるように思われるが,ここで云われている想起では,なぜ「知識などを再把握する」という云い方がされるのか.

[答]イデアを対象として捉える,ということには問題があると思われるため,そのような表現を用いた.なぜなら,実際に捉えられる対象は,具体的な美しいもの,であって,美そのものではないからである.

[問]ソクラテスと少年の例は,想起の例なのか,それともドクサの例なのか.

[答]ここではドクサを自覚する前の段階の例として,その対話を挙げた. 誤りに気づき,最終的に何らかの結論に到達する一連のプロセス全体のことを想起と云うのである.

[問]想起と記憶の違いは何か.

[答]想起の場合,外的な要因をその契機とすること,つまり外発的であることが特徴として挙げられる.一方で, 記憶の場合は,その契機を自分の内だけにしか持たない,という内発的な在り方が特徴として挙げられる.

[問]「無知であるということを知るためには,分かったつもりになっていることが前提になる」,とあるが,それは前後関係ではなくて,両者が表裏一体になっている,つまり,同じ事柄を二つの面から見ているだけではないのか.

[答] たしかに本当に分かっていたのではなくて,分かったつもりになっていたことに気づくのは,自らの無知に気づいたことと同義であり,同時的ではある.しかしソクラテスと少年の間での対話においては,無知の発見に先立って,自らの知識に対する,自信の揺らぎということが想定されるので,その限りで,前後関係が想定されるということである.




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