広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2006年度 第12回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2006年7月14日(金9・10時限,B201)
発表者:川上裕(インド哲学,B3)
発表題目:サーンキャ学派について−二元論的世界観−
配布資料:A3用紙3枚,A4用紙1枚(片面)
プロトコル: 田村昌己(インド哲学,M1)


1.発表要旨

 本発表では,六派哲学の一つであるサーンキャ学派について考察し,概説した.

 サーンキャ学派は純粋精神(purus@a)と根本原質(prakr@ti)の二元論が最大の特徴である.彼等は,古代インドの業報輪廻の思想を前提 に,純粋精神は根本原質との結合によって,本来の純粋清浄性を発揮することができず,物質に限定されているために苦を経験し,輪廻すると考える.そこ で,純粋精神・未展開物・展開物の三者を区分して知る識別知(vijj@a@na)が苦を除去する手段として主張される.知を獲得すれば,根本原質に対 するあらゆる執着・欲望が断ち切れて,純粋精神はそれ自身の本来の姿において存在し,根本原質は現象世界を帰滅させて,その働きを停止する.

 また,宇宙の質料因である根本原質が転変(展開)して宇宙と心身が出来るという展開説(parin@a@ma-va@da)をとなえる.サーンキャ学 派は一つの根本原質から多様な現象的世界が展開したことを説明するために,三つのグナ(gun@a)を想定した.グナは性質であるとともに存在の構成要 素と考えられている.三つのグナとは,純質(sattva),激質(rajas),暗質(tamas)である.作用としては,それぞれ,照明・活動・抑 制の働きをなし,相互に依存し,支配しあう関係にある.根本原質の三つのグナの平衡状態が,純粋精神の観照を機会因として激質の活動が破れ,その結果, 世界の展開が開始される.

 根本原質の展開から最初に成立するのは思惟機能(buddhi)である.これはもっとも純質に富み,判断・決定を本質とする.思惟機能から自我意識 (aham@ka@ra)が生じる.自我意識が「わたし」という意識を起こす器官であり,外界の事物を認識する場合にも常に自己との関係を考慮する.

 展開説は因中有果論(sat-ka@rya-va@da)によって論理的に説明されている.原因と結果は同質であって,結果は発生以前にも原因の中に 存在するという考えである.

 「わたし」という誰しも常に持つ観念は,根本原質から,展開した世俗的な感覚であるということが,興味深く思われるとともに,よく理解できない点であ る.この問題も含め,インドの哲学における自我について今後考察を深めたい.


2.質疑応答

[問]「根本原質が純粋精神と結合するのは解脱のためである」にもかかわらず,「純粋精神は根本原質との結合によって,本来の純粋清浄性を発揮すること ができず,物質に限定されているために苦を経験し,輪廻する」のはどういうことか.

[答] この世界が純粋精神と根本原質の二元であることは,両者が結合していなければ知ることができない.したがって,純粋精神と根本原質が結合するのは 解脱のためである,と言える.

[問]純粋精神が根本原質を「観照する(darc@ana)」とはどういうことか.

[答]darc@anaは一瞥する,あるいは眺めるという意味である.しかし,いかなる積極的な働きも運動ももたず,動力因でも質料因でもない純粋精神 が「観照する」という行為の本質を,発表者は正確に理解するには至っていない.

[問]「純粋精神は……原子大で個人存在に対応して多数存在する」と説明されているが,純粋精神は原子大の大きさをもった何らかの物質であるということ になってしまい,純粋精神と言うことはできなくなるのではないか.

[答]発表者は純粋精神を物質的なものと理解していない.指摘された点については今後検討したい.

[問] 思惟機能と純粋精神は異なるものなのか,同じものなのか.

[答] 異なるものである.

[問] 物質的なもの同士,あるいは精神的なもの同士ならば,相互の働きかけは可能かも知れない.しかし物質的なもの(根本原質)と精神的なもの(純粋精 神)の場合働きかけは可能なのか.

[答] 可能である.ただし,サーンキャ学派もこの問題の難点を理解しており,様々に議論している.

[コメント]「積集説(a@rambhava@da)」は誤解の生む表現である.宮元啓一氏の主張するように「新造説」として理解するべきである.

[コメント]純粋精神と根本原質の関係については,しばしば舞台の踊り子と観客に例えられる.参考にすると理解しやすいのではないか.





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