広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2012年度(前期) 第12回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2012年07月18日(金9・10時限,B201)
発表者:指山藍佳(B4)
発表題目:アドルノのシューベルト論における「和解」
配付資料:A4, 3頁
プロトコル:藏敷壮志

1.発表要旨

当時25歳の音楽評論家としてのアドルノが,1929年のシューベルトの死後100年を記念して書いたのが「シューベルト論」である.アドルノはこの論文の中で,シューベルトの音楽によって人々が受け取る感情が,その形象を崩壊させ,形象として表されていた真理を発現させると述べる.そして最後に,人々が受け取る感情は,涙という形となって表れ,それを人々が経験することが,自然との和解へとつながるという.この論文における「和解」について発表者は詳しく検討している.音楽は人間によって「語れぬ種類のもの」というのが,自然に共通する部分だとアドルノは言いたいのだろう,と,東口の論文を根拠に発表者は主張する.アドルノが求める「和解」とは,「シューベルト論」においては,シューベルトの音楽を人間が理解しえずとも,その真理に触れることだと発表者は解釈している.そして,その音楽を自然美に見立てたアドルノは,それまでの,人間の自然を支配しようとする考えを批判しているのであり,人間と,ものである自然と音楽という区別をなくし,同じ次元にどちらともなく歩み寄る必要があると述べているように思える,と,発表者は主張している. 


2.質疑応答

[問]人間が自然と和解するのを助けるために音楽があるということか?

[答]人間が自然と和解するように,人間も音楽と和解するべきだ,とアドルノが求めている.

[問]音楽において,沈黙のなかにその本質を求めるとはどういうことか?

[答]言葉がない,ということである.言葉に重きをおいていない.

[問]シューベルトの音楽を聴いた人は,〇〇にあやかれる,と言われるが,それほどまでに宗教的なものなのか?

[答]繰り返しによって真理が見えてくる,とアドルノが言っている.聴いてみないと分からない.

[問]アドルノが求める「和解」の他の人の解釈はどのようであるか?

[答]上野仁は,自然は支配すべきもの,というロック以来の考えへの批判と解釈している.東口豊は,自然も音楽も超越的で人間が把握できないような存在である,と理解している.

[問]シューベルトの音楽によって人々が受け取る感情が,その形象を崩壊させ,形象として表されていた真理を発現させる,とは,どういうことか?

[答]音楽作品はそれ自体が真理なのではなく,素材としてだけ存在し,聴く側が作品に入って行くことで真理にふれるのである.

[問]シューベルトを聴いてみて,発表者自身はアドルノの説に賛成か,反対か?

[答]どちらでもない.シューベルトが作曲時にここまで考えていたのか,とは思う.

[問]「これら真理特性は音楽によって生み出されたのではなく,受け取られたのであり,受け取ることによってしか,人間としては語れぬ種類のものなのだ」とはどういうことか?

[答]例えば我々がピカソの絵を観たとき,観るという行為は我々が生み出すものだが,「すごい」という感動は絵がないと受け取れない,ということではないか.

[問]音楽評論家としてのアドルノはどういう位置づけか?

[答]作曲家を目指したが,諦めて評論家になった.生前はそこまで高評価ではなかったと思われる.彼は寄稿していた雑誌の出版社から途中で解雇された.

[問]「和解」について調べるのがこの発表のテーマなのか?

[答]はい.

[問]シューベルトは極めて独創的であるとは言えないが,彼の音楽は分析できるのか?

[答]ベートーベンとシューベルトを比べると,ベートーベンにある弁証法的なやり方がシューベルトにはない.

[問]「わたしたちが泣くのは,わたしたち自身がこの音楽の約束するようなもになりえていないからであり」とはどういうことか?

[答]日常的な次元を超えたものになりえていない,ということである.

[問]インド哲学では芸術を具体的に研究しているが,西洋哲学においてはこのように抽象的なのか?

[答]個人的なイメージでは,西洋は理性より感情を下に見ているので,あまり芸術を考えていないのではないか.

[問]共通性や不確実性をシューベルトがよく表しているのか?なぜシューベルトを扱うのか?

[答]アドルノが考えた「和解」のあり方が,シューベルト論に見られるのではないか,と考えたからである.




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