広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2006年度 第12回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2006年7月14日(金9・10時限,B201)
発表者:安藤聡男(西洋哲学,B4)
発表題目:「アリストテレスにおける「自然的な正しさ」について」
配布資料: B4(片面)1枚,B5(片面)1枚
プロトコル: 高橋淳友 (哲学)


1.発表要旨

 今回の発表では,アリストテレスが『ニコマコス倫理学』において「正義」について述べる中で,「自然的な正しさ」と「人為的な正しさ」を区別して論じている箇所を取り上げ,「自然的な正しさ」についてどのような説明がなされているのかを調べた.その中で,「人為的な正しさ」こそ「正しさ」の全てであると主張するソフィスト達に対して,アリストテレスは「あらゆる正しさが可変的である」ことを認めながらも,「可変的でありながら,なお自然的である様な正しさ」が存在すると述べている.先行研究者によると,アリストテレスがこの様な見解を持つに至った理由を論証するには,二つの立脚点があるとされる.

 一つ目は,あらゆる正しさが「人為的な正しさ」とされた場合,人間社会は恣意に流され,腐敗してしまうとアリストテレスが述べている点から,「正しさ」の中には「人間の自然(本性)に基づいた正しさ」が存在し,またそれを基に社会を運営する必要性をアリストテレスが感じていたというものである.

 二つ目は,アリストテレスの自然観(彼は自然を目的論的に捉えている),また,そこから導き出される人間観に基づいて論証が行われるのだが,今回の発表までにこの理論を理解できなかったので,これを次の課題としたい.


2.質疑応答

[問]配布資料では,『ニコマコス倫理学』から「自然的な正しさ」なるものを説明しているという個所が引用された上で,「アリストテレスが言おうとしていること」は,「ある「正しいこと」は可変的でありつつも,なお自然的ということ」だという見解を取っている.この「自然的な正しさ」とは何か.

[答] 本性的―つまり人間本性に根ざした―正しさ,人間が自然的な状態で持っている当然の正しさということである.

[問]配布資料では,上記の「ある「正しいこと」は可変的でありつつも,なお自然的ということ」が意味するところについて,まず「人為法の問題」点からの説明を試みている.つまり同資料によると,「人為法は時代や場所によって様々に変動しまったく人間の約定にのみ基づくかのように見え」るが,「どのように小さな人為的規定であっても,そのような規定を作り出す根原には,何か人間の本性に根ざす究極原理が働いているように思われ」るのだという.この場合,「人為的」なものよりも「自然的」なものの方が,上位にあるということか.

[答]上位にあると思われる.なぜなら,人為的なものは―自然的なものとは違い―時代によって変わるからである(「あらゆる人為法の根原に不変の自然法を措置しなければならないとされる」,「そうせずに,あらゆることを人為的な決定によって左右するならば,政治や社会体制は,人間の恣意に流されて腐敗する,とアリストテレスは言って」いると配布資料にある).ただし,自然的なものも絶対的に不変という訳ではない.

[問]配布資料で挙げられている「何か人間の本性に根ざす究極原理」の例について.同資料では,「自己ならびに他者の命の尊重」ということが「不変の原理」であるとされているが,この場合の「他者」とは,ギリシャ人に限ってのことなのか.

[答]そうではなく,あくまで一般論としてである.

[問] また,先の「ある「正しいこと」は可変的でありつつ,自然的である」ということの意味を説明するもう一つの見地として,「正義は一見様々」だが,「それらは唯一の本性的正義の逸脱(倒錯)形態である」ということが挙げられている.この「逸脱(倒錯)形態」とは何か.

[答] 現在考慮中である.

 この他,アリストテレスや参考文献からの引用の様式についての注意,〈「自然的」と「本性的」の違い〉や,〈「可変的」の原語は何か〉といった,語句についての確認がなされた. また議論において,〈「自己」はともかく「他者の命の尊重」は「不変の原理」とは違うのではないか〉等々の意見も出た.





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