広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第13回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年7月22日(木7・8時限,B102)
発表者:米森慈子(哲学)
発表題目:トマス・アクィナス『神学大全』における観想(contemplatio)について−II- 2,QQ.180を中心に−
配付資料:A3原稿2枚(両面),A4原稿1枚(片面)
プロトコル:高橋淳友(西洋哲学,D3)

1.発表要旨

 今回の発表は,発表者によると,「主に知性と愛の視点から」,トマス・アクィナスの「観想概念」の「概要を明らかにすること」を目的としたものである.
 まず発表者は,トマスの述べる「観想」の在り方を,アリストテレスの「観想」と対比することにより説明する.「トマスの目指す究極の観想」として,Visio Dei が挙げられるが,これは「人間知性による純粋直観」,しかも「恩寵」が「増し加えられたことによる特別な観想の状態」であり,アリストテレス的な,端に「理性によって」達成される「観想」とは異なるものであるという.
 ところでトマスの見地からすると,「可知的な真理」を「単純な直観によって認識する」天使とは異なり,人間の知性は,「可感的諸事物」から「可知的な真理」を受け取り,ある種の「推論」により「真理認識」を行うとされている.次に発表者は,このような人間の知性が,「観想」から「神の本質を見る」ことができるまでに至る過程を,トマスの文脈に沿って説明する.この過程でポイントになるのは,以下のような認識の「自己帰還である.まず,人間の「知性」は,「外なる事物へ向かうことによってその認識を始め」る.その後知性は,「自らが認識していることを認識する」に至るが,この「自己帰還」は,「自らの働きの認識」から「その働きの原理である知性自身の認識」へと達する時完成されるのだという.また発表者は,人間が「理性的被造物」であるという点から,「理性的であるという存在の根源的なあり方」のうちに人間の「究極的完成」があることを指摘した上で,「人間は存在の根源としての第一原理を自己認識できる限りにおいてその知性は完全である」とする.このような意味での<自己認識>に至ることで,「観想が可能になり」,「ひいては神の本質を見るという栄光に与ることができる」のである.
 だが発表者はさらに,「完全な知性認識によれば人間は神を見ることができるのか」と自問する.その問いに対し発表者は,トマスが「知性は観想への全体的な活動ではない」と考えていたことを指摘し,「観想」は,神への「愛(caritas )」−これは「愛」とはいっても,amorやdilectioといった<愛>とは区分される−という「情意的で意志的な行為」として理解されていたと述べる.「意志」とは,トマスの見解では,「知性を含めて霊魂のすべての能力を行為へと動かすもの」なのである.したがって観想の働きは知性に認められるにしても,トマスの立場からすると,「意志に基づく神への愛が知性認識よりも大きな意味をもつ」と考えられる.
 最後に発表者は,「被造物であるわれわれ」における「神の根源の直視」,「生の目指すべき終極状態」である観想の可能性について検討し,「観想の生」は「現世」で始まるとしても,トマスの見地からすると,その完成は「天国」においてであると述べる.

2.質疑応答

[問]天使の単純な直観とは例えばどのようなものか.「試行錯誤」はしないのか.
[答]知りうるべきことを天使は最初から知っているので,「天使の単純な直観」とは,彼らにはあれこれ「類推」等が必要ない,といった類のものである.したがって「試行錯誤」もしない.

[問]amorとdilectioの違いはなにか.
[答]amorは「すべてのものの基になっている基体」であるのに対して,dilectioは選択的なものである.

 以上の他,「認識」の主体と対象の関係等についての質問がなされた.また発表者に対し,「第一原理の内実について」,「アリストテレスとトマスの違いについて」等の点が,さらに考えておくよう求められた.



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