広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2005年度 第16回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2005年10月21日(金9・10時限,B153)
発表者:槙尾朋子(西洋哲学,B4)
発表題目:『カルミデス』における「自分自身の知識」をめぐる問題−他の諸々の知識の知識に関して−
配付資料:B4(片面)3枚
プロトコル:米森慈子(哲学,M2)


1. 発表要旨

 プラトン『カルミデス』において,クリティアスは「自分自身の知識」をソープロシュネーの定義として提出するが,後にそれは「他の諸々の知識の知識であり,それ自体の知識」であるとする.ここで,クリティアスが知識の対象を不当にすりかえたのではないかという議論がなされてきた.その議論に関して,クリティアスが「自分自身の知識」と「それ自体の知識」をすりかえ,「他の諸々の知識の知識」を余分に付け加えたとする解釈がある.発表者は「他の諸々の知識の知識」を余分なものとは考えず,「自分自身の知識」を「それ自体の知識」と考えるときに生じる問題点を挙げる.まず,発表者は「他の諸々の知識の知識」が文脈から浮き出てしまうことを指摘し,その点に関するTuckeyらの解釈を批判する.Tuckeyは言葉の対応のためにクリティアスが「他の諸々の知識の知識」を付け加えたとするが,発表者はこの解釈には文脈上の根拠がないと指摘する.次に,174d8-e2のクリティアスの発言に注目する.ここで,クリティアスはソープロシュネーと他の諸々の知識に何らかの関係を持たせようとしている.また,発表者はこの箇所でクリティアスがソープロシュネーを「諸々の知識の知識」としていることに注目し,「自分自身の知識」が「それ自体の知識」ではなく,「他の諸々の知識の知識であり,それ自体の知識」とされたことを指摘する.


2.質疑応答

[問]「自分自身を知ること」と「自分自身の知識」はどのようにつながるのか.

[答]何かについて知る時に何かについての知識をもっていると理解される.この箇所では知識は知ることという理解に当然のこととして同意されている.

[問]ソープロシュネーは「自分自身を知ること」であるとクリティアスは考察するが,ここで意味されている自分自身を知るとは自分自身の知識ということか.

[答]自分自身を知るとは自分自身を対象とするから自分自身の知識ということになる.

[問]「他の諸々の知識の知識」とはどういうことか.

[答]『カルミデス』において結論には言及されてないが,他の知識とソープロシュネーとの何らかの関係づけが図られていると思われる.

[問]デルポイの箴言「汝自身を知れ」はソープロシュネーを意味するのか.

[答]クリティアスは自分自身を知れという意味に解釈し,ここではこの箴言を神から人間への挨拶と受け取っているが,これはクリティアス独自の解釈である.

[問]『カルミデス』においては「他の諸々の知識の知識」はないという理解がされるのか.

[答]他の諸々の知識の知識を関係的な意味,それ自体の知識を再帰的な意味としてもとらえられており,内容の複雑な展開がなされているが,まだ整理ができていない.

[問]「それ自体の知識」が単数形であらわされ,「諸々の知識の」が複数形で表されることに対して発表者がここに問題を見出す理由はなにか.

[答]ソープロシュネーが「それ自体の知識」であれば,この箇所でも単数形の知識の知識とするべきだと思われる.この箇所だけ敢えて複数なのは意味があると考える.

[問]『カルミデス』ではソープロシュネーはもつべきであると考えられているのか.

[答]有益でよいことであるという前提で展開されている.

[問]「自分自身の知識」と「それ自体の知識」が一対一で対応するというのはどのような意味か.

[答]両者は対応関係があるという理解である.

[問]ソープロシュネーはエピステーメーであると広く考える文脈もあるが,『カルミデス』での議論は知ることが知るということを対象化しているというプロセスを伴うものであるところに起因するものであり,感覚においては起こらない議論ではないか.

[答]プラトンにおいても聴覚や視覚など感覚においては考察不可能とされている.

[問]インドの認識論では自分自身を知識自身と捉えるあり方と認識主体自体を捉えるあり方の二つがあるが,ここで解釈されているのはどちらであるか.

[答]当初は認識主体自体と思われたが,展開を検討していくと主体を知識自身と捉えるあり方の可能性もあると思われる.

[補足]ソープロシュネーの問題は善し悪しの問題の判別であり,他者が認識をもっているかいないかの議論である.ソープロシュネーがなんであるのかはテキスト上はわからない.

[補足]テキスト上での議論では知識の持ち主は明記されることはなく,知識が「ある」という前提で展開されている.また学問の内実そのものを知るのとは違い,知識の中身を知ることは問題とされていない.知識をもっているかいないかの問題である.

[補足]プラトンとアリストテレスの問題としているエピステーメーの受け取り方は違いを考察すると,アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第六巻でエピステーメーを規定し,プロネーシスやソピアーと区別しているが,プラトンの場合アリストテレスのいうような意味では使い分けていない.しかしプラトンの使用法が曖昧というわけではなく,ソープロシュネーの概念の中にかなりのものを含んでいたと思われる.

[コメント]インド哲学においては知識の知識の考え方として想起の概念がよく引き合いに出される.また諸々の知識の問題はサンスクリットにおいては「複数」のものを一つのclassとして考えることがあるので,他の諸々の知識も総括するとそれ自体の知識と受け取ることができるのではないか.



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