広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2008年度 第17回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2008年10月24日(金9・10時限,B253)
発表者:田村昌己(インド哲学,D1)
発表題目:バーヴィヴェーカの知覚論批判
配布資料:A3用紙3枚(片面)
プロトコル:杉本桂子(インド哲学,M2)

1.発表要旨

   バーヴィヴェーカは主著『中観心論』第3章第45-65偈において五根の無自性性を論証している.第49-55偈では「眼根を手段として視覚主体(アートマン)が見る」ことが否定されており,第51偈を中心とする第49-51偈においてその本質的な議論が展開されている.しかしながら,先行研究はこの箇所の議論を十分に明らかにしていないように思われる.なぜなら先行研究は議論の核心が提示される第51偈を正しく解釈していないからである.本発表では先行する文脈を踏まえた上で,注釈書『タルカジヴァーラー』に基づき考察し,同偈のより正確な解釈を提示した.その上で,一連の議論の特徴を指摘した.

2.質疑応答

[問]世俗と勝義の違いは何か?

[答]端的にいえば,世俗とは凡夫が経験する日常的なレベルであり,勝義とは聖者やブッダが直観する究極的なレベルである.

[問]同時に視覚主体でもあり聴覚主体でもあるようなアートマンを考えることはできないのか?

[答]確かに我々は日常的に「見ながら聞く」ことを経験する.しかし,その事柄に対し「その人(アートマン)は視覚主体でありかつ聴覚主体である」と判断し理解すること,換言すればその人(アートマン)に視覚主体という本質と聴覚主体という本質を付託することは妥当しない.彼らの本質の定義に基づけば,もしその人(アートマン)がそのような本質を持つのであれば,彼は常に視覚主体でありかつ聴覚主体でなければならないことになってしまう.そのため,「視覚主体でもあり聴覚主体でもあるアートマン」を想定することも不合理である.また,次のような説明も可能かもしれない.バーヴィヴェーカが依拠しているであろうアビダルマの知覚論では同一瞬間に二つの認識が生じることを認めない.この知覚論に立脚すれば,同時に視覚的認識と聴覚的認識が生じることはないから,アートマンが同時に視覚主体であり聴覚主体であることもあり得ないことになる.

[問]視覚が生じるための原因総体の一つである「作意」とは何か?

[答]対象に注意を向けることである.

[問]視覚の場合以外にも作意は必要か?

[答]必要とされている.

[問]「常住なるもの」とは何か?

[答]バーヴィヴェーカは,常住なるものは無変化という自性を持ち,本質を欠くことがないと説明する.ここでは「無変化」ということがポイントである.

[問]'dehantarasarira'について複数の他人の身体と解釈すればよいのでは?

[答]そもそも'dehantara'は「他の身体」を意味し,「他人の身体」という意味はない.また,「他人の身体」と解釈しても,それは喩例として妥当しないと思われる.



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