広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
(仮設Webページ)


哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2004年度 第18回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2004年11月1日(月9・10時限,B253)
発表者:松岡寛子(インド哲学,M2)
発表題目:TrBhにおける〈分別〉と三性説の関係
配付資料:A3原稿2枚(表裏)
プロトコル:田村昌己(インド哲学,B3)


1.発表要旨

修論では,TrBh全体に亘る√vr@tと〈分別〉の用例を検討することにより,ヴァスバンドゥによって識転変説のもとに再構成された,アーラヤ識に 基づく二種の分別生起の因果関係(アーラヤ識縁起説)について考察することを計画している.今回の発表ではその一部となるTrBhにおける識転変説と三 性説の関係,〈分別〉と三性説の関係について取り扱った.
三性説は『解深密経』以来唯識観を根底から支え,瑜伽行と共に展開してきた実践理論である.それぞれの段階にある行者との関係において,世界が (1)〈構想された自性〉,(2)〈他に依存する自性〉,(3)〈完成した自性〉をもつものとしてあらわれる.識転変説の導入を最大の特色とする『唯識 三十論』(TrBh)において三性説はどのように説かれているのか.ヴァスバンドゥによって17頌において〈識転変〉と等置される〈分別〉という語 は,TrBhの三性説において,三性それぞれの定義に関わり,「この〔世界(欲界・色界・無色界)の〕すべて〔の存在形態〕は〈ただ分別のみ〉にほかな らない」という述言すら見出される.それらの〈分別〉の用例を検討することにより,〈分別〉と三性説の関係を考察した.
Tr20-21における三性説の定義を〈分別〉をキーワードとして検討した結果,以下のことが結論づけられる.識転変説に密接に関係する〈分別〉が, 三性それぞれの定義において中心点的役割を果たしていることが分かる. 三性説(Tr20-21)-〈分別〉との関係-識転変説(Tr1, 17)
(1)〈構想された自性〉-分別される事物-〈個我や存在要素に関する比喩的表現〉
(2)〈他に依存する自性〉-〈分別〉-〈識転 変〉
(3)〈完成した自性〉-〈ただ分別のみ〉-〈ただ識のみ〉
このうち,他の唯識文献には見られず,TrBhにおいてもスティラマティによってただ一度しか用いられない〈ただ分別のみ〉という語について検討した 結果,〈ただ識のみ〉と文章構造が同じであり,等置されていることが分かった.このことから,スティラマティが〈ただ分別のみ〉を唯識観と同様に瑜伽行 者の実践観として新たな解釈を試みている可能性があるといえる.但し,〈分別〉と〈ただ分別のみ〉の明確な相異点等については今後の課題とする.


2.質疑応答

[問] 修論構成について.√vr@tの用例を検討することの意図は何か.また,それは今回の発表の〈分別〉とはどのように関わるのか.

[答] TrBhは識転変説,三性説,入無相方便という唯識派の教義が体系的にまとめられ,〈識転変〉という語が初出するという点を特徴とする唯識論書 である.したがって〈識転変〉から三性説・入無相方便がヴァスバンドゥによってどう再解釈されているかの考察に当たって,それぞれ異なる文脈における共 通する語,すなわち識転変説と三性説の文脈における〈分別〉,識転変説とアーラヤ識縁起説と入無相方便の文脈における√vr@tの用例を検討することが 必要であると考えた.修論構成については再考したい.

[問] 「分別」も「識」も認識を表していることから,当然ながら,〈ただ分別のみ〉は〈他に依存する自性〉ではなく,〈ただ識のみ〉とみなせるのでは ないのか.

[答] 〈ただ分別のみ〉が〈ただ識のみ〉であり,〈完成した自性〉でるとすれば,無分別智によって把捉されることになるという点に矛盾があると思われ る.

[問] どうして〈ただ分別のみ〉を瑜伽行者の実践観と解釈するのか.

[答] 「この世界はただ識のみのものである」という唯識観と同様,「この世界はただ分別のみのものである」という表現は,瑜伽行者の識がそこに定まる ことが意図されている点で瑜伽行者の実践観といえる.

[問] 結論について.「〈ただ識のみ〉,〈分別〉といった訳語についても吟味する必要がある」とあるが,どうしてか.

[答] 玄奘訳をそのまま用いるのではなく,具体的には,〈ただ識のみ〉と〈識転変〉におけるそれぞれの識の意味,〈ただ分別のみ〉と〈分別〉における それぞれの分別の意味が明確になるような現代語訳を検討したい.

[問] 結論について.「〈ただ分別のみ〉という語を具体的にどのように組み込もうとしているのかは不明である」とあるが,どのような方法で解明してい くのか.

[答] 〈ただ分別のみ〉という語はTrBhで一度しか用いられず,他の唯識論書にも見られないため,この箇所から判断しなければならないと思われ る.〈ただ分別のみ〉の分別の意味について再考したい.




戻る→ 哲学・インド哲学「論文ゼミ」