広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2010年度(後期) 第21回a
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2010年12月03日(金9・10時限,B201)
発表者:信岡愛美(西洋哲学,B4)
発表題目:プラトンの想起説成立における『メノン』の意義〜アレテーの想起〜
配付資料:A4原稿7枚(両面, 13頁)
プロトコル:赤井清晃(哲学)

1. 発表要旨

 今回の発表ではアレテーについて考察した.アレテーには徳という訳語があてられることが多いが,この言葉はプラトンの著作中で目のアレテー,馬のアレテー等という使われ方をすることから,むしろ卓越性という訳をあてるほうが適切であろう.アレテーについて『メノン』ではそれが教えられうるものであるかを検討する過程で,アレテーは知識ではないと明言し,それ故にアレテーは教えることのできないものであるとする.そのため『メノン』という対話篇において,アレテーの想起についてそれを可能であると語る記述は見られない.しかしながら,中期著作の記述とプラトンがこの後も膨大な対話篇を書き残し探求し続けたという事実から,アレテーの想起は不可能であるとは言えまい.アレテーは知識がより高次に発展した段階であるところの永遠なるものであり,完全なる想起は人間には想定が難しくとも,その一部分について探求し明らかにしていくことは可能であると考える.

2. 質疑応答

[問]想起説は, プラトンの考えかソクラテスの考えか.

[答] プラトンの考えである.

[問] 以前,「思いなし」といっていたものは「思わく」とどうちがうのか.

[答] 同じである. ドクサの訳語として統一すべきかもしれない.

[問] アレテーを教えることはできない,といっても,不完全な形でなら教えることはできるのではないか.

[答] 『メノン』で想定されるアレテーは,人間のアレテーであるから,不完全な形での可能性は否定されないかもしれない.思わくまでは教えられる,少なくとも,正しい思わくまではいけるのではないかと思う.

[問] 犬のアレテーという場合に,犬にとっての犬のアレテーと,人間にとっての犬のアレテーは異なるのではないか.

[答] プラトンの挙げる例は,人間の立場からのものである.

[問] サンスクリットを学んでデーヴァナーガリーで書かれた文献を読めるようになったとしても,もともと知っていたことを想起しただけ,ということになるのか.

[答] そういうことになる. 学習は,想起のきっかけを与えただけである.

[問] では,一度学んだものを忘れてしまうのは,どう説明されるのか.

[答] 想起するきっかけを失っただけで,完全に忘れてしまったわけではない.

[問] アレテーの実例として,正義,勇気,節制,知恵の4つに集約されるということだが,アレテーは,これらの総称なのか.また,プロネーシスは,これら個々の徳目のどれかひとつとは違うというとき,プロネーシスがアレテーなのか.

[答] プロネーシスがアレテーなのではないと思う. また,個々の徳目とは別にアレテーがあるわけでもない.

[問] アレテーは,知識ではなく,従って,教えられないが,善きものの原因・贈り主である神によって人間に与えられる,ということだが,その神はどういう神か.

[答] 制作者としての神だとすれば,人間にとっては,現世ではなく,来世にかかわる問題となるし,ソクラテスのダイモンのようなものを考えれば,現世での話になる.もう少し,論点を明確にする必要がある.

[問]『メノン』にプラトンの想起説の原点があるという主張は,他の研究者は言っていないのか.

[答] このこと自体は,先行研究でも言われていることであるが,図形の証明の想起という点でのみが強調されている.今回の発表は,アレテーにかかわることとして,想起説の原点を『メノン』にみる,という点が違う.

[問] アレテーは,徳,卓越性であるとすると,誰かの徳,卓越性であると思うが,誰か(という基体)が要るように思うが,完全な仕方では,神のみぞ知る,というのであれば,アレテーは,神自身の属性であり,完全な仕方では,神が神自身を知る,ということになるのか.

[答] そういうことになると思う.

[問] アレテーは知識ではないから,教えられない.教える人は知っていなければ教えられないからであるが,この場合,アレテーの想起が考えられるというけれども,そもそも認識できないのに,想起できるのか.

[答] 完全な仕方ではなくて,思わくまでは教えられる,少なくとも,正しい思わくまでは想起できる.



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