広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2011年度(後期) 第22回a
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2011年12月16日(金9・10時限,B201)
発表者:小川貴信(西洋哲学,B4)
発表題目: デカルト『第一哲学についての諸省察』における「コギト」について
配付資料:A4, 17頁
プロトコル:峰山元太朗(西洋哲学,B4)

1.発表要旨

デカルトは,彼の著作である『第一哲学についての諸省察』の中で,何か確実なものを見つけ,それを学問の基礎にしよう,という試みである,「方法的懐疑」を行う.それは,疑いをさしはさみうるものについてはすべてを疑い,同意を控える,というものである.その末に,私の存在は,私が疑っている限り,その対象として存在しなければならない,とし,これを「明証的に」或いは「明晰判明に」認識する,と彼はする.そしてその私の本質は,「疑うこと」つまりは「思惟すること」であるとする.デカルトはその「考える私」(いわゆる「コギト」)から,いわば「学問の絶対的な後楯」となる,欺かない誠実な神の存在を演繹する.「コギト」に浮かぶ神の観念は,私に作られた観念でも,感覚によって受け取った観念でもなく,私に生得的な観念であり,その作者は神である,という方法によって,それを行う.ただ,「この明証的に,或いは明晰判明に認識するものが真である」,という「明晰判明知の規則」は,神の存在が証明され,その誠実さが言われた後,すなわち「第四省察」でなければ言われえない,と『省察』の「概要」でデカルト自身が言っているのに,彼は神の存在が証明される以前の「第三省察」冒頭で,その「明晰判明知の規則」を宣言してしまっている.ここに「デカルトの循環」がある.また,「第三省察」終わりにおいてデカルトは,「時間は無数の部分に分割でき,すべての存在は神によって保存されねばならない」という神による「連続的創造説」を採用している.これによって,「コギト」が神を演繹する間にも神によって保存される必要があるのではないかという,これもまた「循環」と呼ばれうる問題が生じる.この問題に対して,ジャン・ヴァール,ジャン―マリ・ベサード,山田弘明が述べているところを,私(筆者)が引用して,考察を加える.  


2.質疑応答

[問] 同時的演繹とは?

[答] 演繹とは結論から結論,このような思考方法が演繹であるが,直感で一瞬で演繹がおこわなれることが同時的演繹である

[問] estとexistrereを使い分けているのか?

[答] esseが「〜がある」existrereが「存在している」という使い分けをしている.

[問] 連続的創造説とは?

[答] アリストテレスでは「時間は連続ではない」スコラ派であるトマスでは「時間はそれぞれ別々に」といっており,時間は神がそのたびに創り直しているという説.

[問] 線的時間はデカルトは認めているのか?

[答] デカルトは連続的創造に従ってなおかつコギトの持続性を認めているため,どちらの線,点もみとめているといえる

[問] 「欺く神」は誰がいったのか?

[答] 前の文の「悪意ある霊」で言われている数学的な自然学の法則は「欺く神」が私たちにそれが正しいであるとみせているもので,ここから「欺く神」という表現が出ている.ただし,「悪意ある霊」と「欺く神」が同一のものであるかは説が分かれている.

[問] 神は完全性な存在なのか?

[答] デカルトによると「完全性」にはレベルがあって神はその中でもレベルが最高であり,如何なる場面でも完全で完全性では善である.悪というものは完全性ではないものが悪であるという思想であった.

[問] intelligoを知解と訳しているがなぜか?

[答] 別の単語での「理解」を区別するために「知解」とした.

[問] 193の引用にある如何なる意味でも,という文の意味が分からない.

[答] ここでは「どうしても〜ない」とも訳すことができる.

[問] 観念があるものは実在するのか?

[答] 観念には3つあり,生得観念,外来的観念,作為観念があり,神は生得観念としてある.作為観念ではキメラなど思考の中のものは現実には存在はしない.



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