広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2006年度 第23回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2006年12月15日(金9・10時限,B253)
発表者:根本裕史(インド哲学,D1)
発表題目:ゲルク派における刹那の解釈と時間論
配付資料:A3用紙5枚, A4用紙1枚(片面)
プロトコル:片山由美(インド哲学,M2)

1. 発表要旨

 仏教哲学において極めて重要な意味を持つ刹那の概念について,ゲルク派の学者達はユニークな解釈を行なっている.本発表では,ゲルク派の文献において語られる「極小時間の刹那」と「行為完了の刹那」の区別,および,「無常」の定義として立てられる「刹那」の意味を明らかにした上で,ゲルク派の学者達が提示する解釈の意義と,その解釈が彼等の時間論にもたらしている効果について考察した.本発表の結論は次の三点にまとめられる.

1. ゲルク派の学者達は「刹那」を「それ自身の成立時より以降,第二時には持続しないもの」と定義することにより,それは必ずしも一瞬間のことではないと解釈する.このような解釈は,瞬間的存在だけでなく,相続を有するあらゆる存在が無常であることを論理的に帰結するために要請されたものである.

2. ゲルク派において定着している「極小時間の刹那」と「行為完了の刹那」という二種の刹那の区別は,「微細な無常」と「粗大な無常」という二種の無常の区別に対応している.「行為完了の刹那」および「粗大な無常」は巨視的な視点から眺められたものであり,我々の日常的な時間理解の範囲内にある.それに対し,「極小時間の刹那」および「微細な無常」は微視的な視点から眺められたものであり,より高次な時間理解の領域に属すると言える.

3. ゲルク派の時間論は,この二つの時間理解の様式をいずれも許容する性格を持ったものである.この時間論において現在とは必ずしも「瞬間的な今」とは限らず,一日や一年なども現在と見なされる.このようにゲルク派の学者達は我々の日常的な時間理解も視野に入れた上で,無常や刹那の理論を構築している.


2. 質疑応答

[問]「一瞬間しか持続しないこと」と「それ自身の成立時より以降,第二時には持続しないこと」の相違は何か.

[答]一瞬間とは文字通り,極めて短い時間のことを意味しており,それはゲルク派の学者達が「極小時間の刹那」と呼んでいる時間の最小単位に相当するものである.ツォンカパによると,あらゆる事物(有為法)が刹那的であるというのは,事物が一瞬間しか持続しないことを意味するのではなく,事物がそれ自身の成立時より以降,第二時には持続しないことを意味する.つまり,彼に従えば,ある事物を刹那的存在と見なし得る根拠は,それがこの世界に留まる時間の短さにあるのではなくて,それが生じた後には必ず滅するという点にこそある.この場合,事物が生じてから滅するまでの間に要する時間の長短は全く問題とされない.ツォンカパはこのように解釈することにより,一日や一年といった期間にわたって持続する相続(連続体)に関しても,無常と刹那の理論を適用可能としたのである.

[問]ゲルク派が描いている時間論はインド仏教にも見出されるのか.

[答]「行為完了の刹那」と呼ばれる概念の原形は,ダルマミトラ(Dharmamitra)のPrasphut.apadaaに見られる.また,現在時をめぐるゲルク派の立場がインド仏教文献に見出されないかと言えば,決してそうではない.例えば,刹那現在(khanapaccuppanna),相続現在(santatipaccuppanna),一期相続(addhapaccuppanna)という三種の現在を説くVisuddhimaggaの説は,ゲルク派の説に類似するものと言えよう.

[問]ゲルク派の解釈において,「行為完了の刹那」を刹那滅論証に適用することは可能か.

[答]「行為完了の刹那」とは,ある一つの行為や作用が終了するのに要する時のことを意味する.例えば,壺が作られた後,ハンマーによって破壊されるまでの時間を「行為完了の刹那」と見なすことができる.しかし,壺がそのような意味において刹那的であることは,誰もが単に知覚するだけで理解可能である.従って,「行為完了の刹那」は論証の対象にならない.刹那滅論証において論証の対象とされるのは,あくまでも「極小時間の刹那」によって特徴付けられる刹那である.同様に,無常の論証においてもまた,論証の対象となり得るのは「粗大な無常」ではなく「微細な無常」である.

[問]「極小時間の刹那」と「微細な無常」は勝義諦に対応し,「行為完了の刹那」と「粗大な無常」は世俗諦に対応すると言えるのか.

[答]刹那と無常に関するこの理論は,二諦説とは全く関係がない.

[問]刹那が前中後の三部分を伴っているとはいかなることか.また,これに関連して極微もまた,刹那と同様に分割可能なものとされるのか.

[答]ジャムヤンシェーパの説明によると,時間の最小単位とされる刹那も前中後の三部分を伴っているので,実は分割可能なものであるとされる.これはナーガールジュナのRatnaavaliiに見られる理論であり,その背景には「およそ存在するものは部分を有するものである」という中観派の見解---それをゲルク派の者達は「およそ(xが)基体成立であるならば(そのxは)必ず部分を有する(gzhi grub na cha can yin pas khyab)」と表現する---がある.この理論の下では,刹那も極微もさらに分割され得るものと見なされる.

[問]時間の最小単位としての刹那がさらに分割可能なものであるとすれば,事物は一刹那(一瞬間)のみしか存続しないという仏教の刹那滅理論と抵触するのではないのか.

[答]確かにゲルク派の考えでは,一刹那(一瞬間)に存在する事物もまた,実際には一刹那(一瞬間)を構成する複数の時間単位にわたって存続することになるため,一見すると伝統的な刹那滅論に反するようにも見える.しかしながら,ゲルク派における刹那の解釈に目を向けると,彼らの描く刹那滅論においては時間的長短が全く問題視されておらず,事物がその第二時において滅することこそが刹那の意味とされることに気付く.このように「刹那」の意味付けを大きく転換することで,ゲルク派の者達は彼らなりの刹那滅論を立てようとしたのではなかろうか.(この質問に対する回答の内容については,発表後に発表者が訂正を加えた.)

[問]ゲルク派における刹那と無常の理論は,相続の無常性を立てる上で確かに整合性を持ったものであるが,なぜ彼らは相続の無常性を立てようと努めたのか.そもそも相続というものは実在しないのだという結論に導くことは不可能だったのか.

[答]ツォンカパ,ギェルツァプジェ,ケードゥプジェといった初期ゲルク派の思想家達は相続の存在を積極的に認めており,それはDreyfusがゲルク派の哲学的立場を「穏健な実在論(moderate realism)」と呼称するゆえんの一つである.なぜ彼らが相続の存在を認め,そして,自らの理解を正当化するかのように,刹那の意味に関して議論を行なっているのか.これについては思想史的な観点から検討する必要があると思われる.今後,サキャ派などの解釈と比較しながら考えてみたい.



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