広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2005年度 第25回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2005年1月13日(金9・10時限,B153)
発表者:米森滋子(哲学,M2)
発表題目:トマス・アクィナスのイデア論−人間は神の観念を理解できるか−
配付資料:A3原稿5枚
プロトコル:高橋祥吾(哲学,D2)

1.発表要旨

 トマス・アクィナス(S.THOMAE AQUINATIS, 1224/5-1274)はキリスト教哲学において,神の内に観念としてあるイデアについて論及する.トマスのイデア論は無からの創造という原理を支えるものであり,神の意志とのかかわりにおいて考察されているものである.被造の存在である人間知性が創造主である無限の神の内にあるイデアを知ること,つまり神の本質をみるということは可能であるか,という疑問にトマスは人間の幸福は神をみるところにあり,そして人間は生来神を愛し求める存在であることから人間知性は神の本質をみることができるとする.そこにはトマスが人間知性に,神から分有された類似としての在り方を付与し,高い信頼性をおいているからである.しかし,自然的光である人間知性のみでは神をみるには限界があり,栄光の光という在り方の神の恩寵が必要とされる.栄光の光が知性を強化し,高めるという仕方で人間の形相が神の在り方に近づいていくことが可能となるのである.そのためには自由意志に支えられた徳による神への態勢づけが必要とされる.ただ恩寵の享受は神の意志にのみかかっており,求めて得ることができるという保証はない.それでも人間は有限な知性でありながら,神を愛しつつ知るということが可能な存在なのである.このことに気づくところに,神の内にある観念としてのイデアの理解を図る理由がある.

2.質疑応答

[問] 「イデアは神の観念であり,純粋現実態である神の自己認識という理解...」と言っているけれども,どういう意味なのか.

[答] 「イデアは神の観念である」というのは,経験世界の事物に先立ち神のなかに事物の原型が認識されていることである.「純粋現実態である神の自己認識」というのは,神は質料をもたず,常に現実化している存在で,神はいつも自分自身だけを認識対象としているということである.

[問] 「悟りの恩寵」という表現をされているが,このときの「悟り」とはどのような意味か.

[答] 直観的に知ることである.

[問] トマスの論述の意図は神の存在証明なのか,そしてその影響はどうなのか.

[答] 神の存在を立証したうえでの論述である.彼の影響は当時から強かったと思われる.

[問] 「愛は愛を原因として育まれる」と言うが,それは人の愛は神の愛を原因として育まれるということか.

[答] 「愛する」という行為に,人と神の違いはないので,そのようなことは意図していない.

[問] 「類似性として完全性を持つ」とはどういうことか.

[答] 存在するものは,神との類似性を持つことしかできないので,その上での完全性しか問題にできない.完全性には上限は考えられていない.

[問] 神のイデアを人間は把握することができないとするなら,トマス自身は何を根拠に神について論じているのか.

[答] 聖書を典拠とすることもある.しかし,概念的に論じる.(神を語ることはできるが,神を理解することはできない)

[問] 神のイデアと神の本質は,本当に全く同じなのか.

[答] 世界の原因としてのイデアという見方と,世界の原因という観点なしでも,神は神であり,神の本質はある.神の本質は,世界の原因性を考慮したとき,神のイデアと同一になる.

[問] イデアは知性であるのか.

[答] 絶対的な神自身でもあるので,知性でもある.ただイデアは神によって認識されるものである.

[問] 通常の認識の場合,認識主体に認識対象は依存すると言われているが,神を認識するという場合にも同じなのか.

[答] 認識主体が人間の場合,神は人間を超えているので,完全な認識は成り立たない.

[問] dispositioを「準備」と訳すのはいかがなものか.

[答] 「態勢付け」とするほうが良いかもしれないが,今回文脈を考慮して「準備」と訳した.

[意見] トマス・アクィナスの同じ言葉に対する意味の多重性や区別を意識して,術語を用いるようにした方が良い.例えば「恩寵」や「愛」など.

[意見] 「イデア」という言葉について,プラトンの用法や,近世における人の観念という意味でのイデアのように,哲学史的な観点も考慮して,中世の「イデア」論の位置付けることも必要ではないか.



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