広島大学大学院文学研究科
比較論理学プロジェクト研究センター
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哲学・インド哲学「論文ゼミ」の記録


2005年度 第28回
哲学・インド哲学 論文ゼミ
発表日:2006年02月10日(金9・10時限,B153)
発表者:松本誠代(総合文化学,M1)
発表題目:Bartolome de Las Casa, Juan Gines Sepulvedaのインディアス論争とFrancisco de Vitoriaの国際法理論について
配付資料:???
プロトコル:???


1. 発表要旨

ラス・カサスはスペインのインディアス支配の不当性を糾弾し,多くの著作によってインディオの権利の擁護とその救済を求めた.インディオに対するキリスト教の布教が,スペインのインディアス進出の大儀のひとつであったが,その布教のあり方をめぐって,ラス・カサスはセプルベダと意見をおおきく異にした.ラス・カサスのその思想の根拠には,多くビトリアの考え方を踏襲しているものが多い.セプルベダは『アポロギア』『第二のデモクラレス』において,インディオに仕掛けられた戦争にたいする正当性をのべる.戦争は,自然法で認められているという立場から,キリスト教世界の護持,もしくは拡大を目的とする戦争は,一定の条件を満たせばすべて正統であると主張し,異教徒との戦争の正当性を説く.ビトリアがサラマンカ大学において行なった特別講義『インディオについて』『戦争の法について』において,これまでキリスト教徒の間にだけあるとされてきた中世以来の法の思想にたいして,それはすべての人間に存在すると述べる.このビトリアの考え方は,戦争の手段を用いず,力を用いず,ただ,信仰によって説かれる福音の説得力だけをたよりにして平和裏に布教は行なわれなければいけないとするラス・カサスによって,受け入れられている.



2.質疑応答

(1)ラス・カサス,セペルペダが典拠としているビトリアについて
[問]発表者は,発表時に配布した資料において,「セペルペダは,アリストテレス,聖書,聖アウグスティヌス,聖トマス・アクィナス,ビトリアの教えを引用しながら自説を論説する」とした上で,その直後に「ビトリアの要旨」なるものを挙げている.しかしその「要旨」の内容は,セペルペダの主張の論拠となっていないのではないか.
発表者はまた,「注目すべきことは,ラス・カサスとセペルペダの対立する二者は,どちらもビトリアの学説を論拠として,これにもとづいて主張したことである」と述べているが,挙げられている「ビトリアの要旨」なるものは,セペルペダよりも,ラス・カサスの主張を補強するものではないか.

[答]ラス・カサス,セペルペダ両者は,ビトリアの同じ文章をそれぞれ典拠としている場合がある.したがって,両者が典拠としているビトリアの文章は,違う方向で解釈しうる余地のあるものと思われるが,詳細については今後の検討課題としたい.

(2)「バルバロ」について
[問]配布資料によると,セペルペダは,「私たちがインディオと呼んでいるバルバロ」と述べているが,このように「バルバロ」とされた人々は,何をもって「バルバロ」とされたのか.

[答]アリストテレスの言うところによれば,「ギリシア語を解さない」ということになるが,ここで言及されている「バルバロ」の場合,例えば,〈異教徒であること〉,〈野蛮であること〉等によるものと思われる.

[インド哲学の側からの補足]インド人から見れば,〈インド古来のヴェーダ文化を享受していること〉,〈アーリア人であること〉,〈サンスクリットを話すこと〉といった要件を欠くギリシア人が,「バルバロ」ということになるだろう.

[問]「バルバロ」とされた「インディオ」のように,「キリスト教を信じないこと」は悪なのか.

[答]キリスト教による教化を未だ受けていないということであれば,キリスト教への信仰を有していないこと自体は「大罪」ではなく,例えばラス・カサスも,「バルバロ」に対し教えを説いて納得させるべきだと考えている.

[問]セペルペダの言うように,「征服」することをもって「改宗」させること,人の心を変えることは本当にできるのか.

[答]恐らく,キリスト教を取り巻く,当時の宗教的事情(例えば,〈サラセン人〉勢力の伸張等)から,〈強制改宗〉もやむなしと考えられたのだとも思われるが,詳細については今後の検討課題としたい.

[西洋中世哲学の側からの補足]例えば,トマス・アクィナスによると,「強制」による改宗はナンセンスということになる.

[問]支配された「バルバロ」たちは,改宗しないまま奴隷として存在することはできなかったのか.

[答]「奴隷化」と「教化」は一体化している.

[問]配布資料の「ラス・カサスの要旨」によると,「奴隷制は人間の本性によるものではなく」,「ただ偶然と運命によって」「うまれたもの」であり,「奴隷制はその証明がない限り前提とすべきものではなく,また人間の自由にはいかなる時効もない」という.では,「奴隷制」が「前提」とされるに足る「証明」とは何か.

[答]例えばアリストテレスは,奴隷として生まれるべき人間がいると言っているようだが,詳細は今後の検討としたい.



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