柴谷篤弘氏の著書『構造主義生物学』について
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- はじめに
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柴谷篤弘氏の『構造主義生物学』を読んで、いろいろ考えるところがあったので、まとめて書いておこうと思った。
前半は、柴谷氏(および池田清彦氏)の「構造主義生物学」に関する、僕なりのまとめ。後半はそれに関する僕の考え。
氏の意図をうまく汲めていないところや意図に反するところもあるかもしれないが、その点は勘弁して下さい。
- 「構造」とは
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一般的にいうと、「構造」は「『事物の組み合わせ方、システムのあり方、関係性』を決める規則(法則)あるいは枠組み」というようなもの。といってもイメージが湧きにくいので、生物学的な例をいくつか考えてみる。より基礎的な「構造」から順に、
・遺伝暗号体系:「コドンとアミノ酸の対応を決める規則」という構造。
・細胞システムにおける構造:たとえば「袋状の脂質二重膜とその中に囲われた種々の原形質」といった構成要素の秩序だった空間的配置の形成に関する規則。あるいは様々な物質・エネルギー代謝経路に関する規則(関係する物質の種類、それらの相互作用の規則)など。
・真核細胞における「構造」:上記の細胞の「構造」を基盤にして成立した、核やミトコンドリアなどの細胞小器官の形成に関する規則や、有糸分裂に関する規則、等々。
・多細胞生物における「構造」:細胞(および細胞間物質)間の関係性に関する新しい規則、たとえば細胞の空間的配置(分裂、移動、接着など)に関する規則、機能的相互作用(誘導、情報伝達など)に関する規則など。
・特定の高次分類群における「構造」:上記の細胞の空間的配置や機能などの「構造」に、さらに強い拘束性をもつ(特殊な)規則が付加されたもの。たとえば脊索動物における組織器官の特徴的な配置規則(たとえば背腹軸にそった内胚葉、脊索、神経の配置の規則性)や、棘皮動物における5放射相称体制など。
というような具合になる。池田清彦の言う「構造列」は、このような「ある構造を基礎にしてさらにその上に構造が成立する」という様子をあらわす概念だろう。団まりなの言う「階層」もこれに近いかもしれない。もちろん、これらは1直線にならぶ列ではなく、分岐する列である。
- 柴谷、池田らの「構造」の特徴
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つぎに、柴谷、池田らの「構造」の特徴をいくつか挙げてみる。
1.「恣意性」。構造は下位のレベルの法則から演繹されたり、あるいは歴史の「法則」によって必然的に成立するようなものではなく、下位のレベルと矛盾はしないがそこから導き出す事はできない恣意性をもつ。よって生物現象は「構造(列)」に還元する事はできるが、さらに下位のレベルの要素に還元する事はできない。
2.拘束性(柴谷は「共時性」とも言っている)。構造は成立すると、その構造の下にある事物を強く拘束する。この拘束は可能性の限定であると同時に、その構造の下での新たな進化を可能にする。
3.構造は一気に定立する。(「一気に」という言葉はちょっと曖昧で、どのくらいのタイムスケールなのかはっきりしないが、1世代でも構造は成立しうるということらしい。)ある新しい関係が成立したときにそれが新しい「構造」として存続できるかどうかは第一次的には「内部選択」によるのであって、ダーウィニズム的な集団レベルでの理論は構造の成立には関係しない。
4.構造は脳の中の仮構であり、外部世界に実在するものではない。どこかにある実体ではなく、目に見えないものである(たとえば物理法則が「目に見えない」のと同じような意味で)。
- コメント
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以上の議論に関して僕が考えたことを以下に。
- 1について
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モノーが『偶然と必然』で、アロステリック酵素の例などにもとづいて、生物現象の記号的な恣意性を論じていたことを想起させる。モノーもまた、現在の生物に見られる様々な現象は物理化学的法則から演繹される必然ではなく、偶然の産物であるという議論をしていた。個々具体的な「構造」(と仮にみなされたもの)が本当に下位のレベルに還元できないのかは、思想や物の見方の問題というより事実の問題であって、具体的な研究によって明らかにされるしかないだろう。ある時点で「構造」として仮構されたものが、実は(還元可能という意味で)「構造」ではなかった、というような認識の進展の仕方はあり得る。
- 2について
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「構造」は比較を通じて認識されるものだが、様々なものごとの比較から抽象された単なる「共通性」であっては「構造」の名には値しないだろう。共通性が構造であると認識されるための条件として、この「拘束性」が効いてくるのではないかと思う。単なる「共通性」は偶然にも生じ得るが、「構造」の共通性はその拘束性に由来するはずだ。(この点は「本質主義」的ですね)。
- 3について
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ネオダーウィニズム(進化の総合説)では(少なくとも現状では)、「集団内の」「遺伝子の増減」という観点(集団遺伝学)から進化を説明しようという傾向が強く、またそれと関連して漸進論的な進化観が主流になっている。しかし「構造は一気に定立する」のであれば、場合によっては1世代でも重要なイノベーションが生じうるということで(有望な怪物!)、小さな変異が自然選択され、それが蓄積されることによって遂には大きな進化的変化に至るとするダーウィニズム主流の漸進主義とは明らかに対立する。
実際にダーウィニズムが想定する漸進的進化、すなわち小さな変異の積み重ねで大規模な形態・生理的イノベーションが起こる、というプロセスが起こった事は証明されていない(と思う)。特に高次分類群の起源ともなれば、たとえば動物の各門の体制が本当に漸進的進化で成立したのか(したとしたら、どのようなプロセスで?)、誰も明確に答えられる者はいないだろう。
「構造が一気に定立する」例として、柴谷は共生関係の成立や雑種形成の例などをあげている。確かに異なるシステムが融合する事で新しい構造が一気に成立するということは、可能性としてはありそうだ。真核細胞の起源もそのようなプロセスをたどった可能性があるし、小さいレベル(雑種による種形成など)では実際に観察もされている。つまり「有利な突然変異が徐々に蓄積して…」というストーリーと、「システムの融合がたまたまうまくいって…」というストーリーは、現在の所どちらも排除できない。現実には、おそらくどちらも起こったのだろう。問題は進化的イノベーションの成立においてどちらがより主要な役割を果たしてきたのかということで、その答えはまだ誰も知らない。
- 4について
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この議論は僕にはいま一つ掴みきれない。もちろん構造は「もの」ではないが、その「関係」は外部世界に現実にあるのでは? と思う。人が認識しているのは動的で複雑な関係の一部を凍結して切り取ったものにすぎないとか、構造はあくまでも仮説であって、認識の進展によって覆る可能性がある、というくらいの意味ならば了解できるが、でもそれは科学一般に言えることだし…。
- その他1:「階層」「構造列」と「下等」「高等」について
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進化論を少しでもかじった者にとっては、「下等」「高等」という言葉が危うい、というのは一種の「常識」だ。「進化は進歩ではない」「『下等』な生物もその環境では見事に適応しているのだから、ヒトの価値観で『下等』というのは間違い」という決まり文句には、もちろん一理も二理もある。ところが一方で「下等」「高等」という言葉は職業的な生物学者の間でもごく日常的に使用されているという現実もある(「高等植物」「下等脊椎動物」「lower invertebrate」など)。これを単なる「無知」「偏見」と片付けて良いのだろうか?
団まりなの言う「階層」や池田清彦の言う「構造列」は、「下等」「高等」という言葉に馴染みやすい内容をもつと思う。「階層」が上の生物群、新しい構造を成立させた生物群は、下位のものに対して「高等」である、というのは自然な言い方に思える。問題は「下等」「高等」がある種の価値観を含む用語として受け取られかねない、というところにある。しかし「階層」も「構造列」も分岐するものである事をふまえ、かつ、「下等」「高等」が事実の問題であって価値の問題ではないということを明確にすれば、我々が日常的に使用しているこれらの用語も正当性をもつのではないかという気がする。
- その他2:量的変化と質的変化について
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量的な変化が質的な変化に転化する場合があるというのは事実だが、生物進化における進化的イノベーションがこの図式で捉えられるのかどうかは明らかでない。たとえば動物の目(Order)内ないしそれ以下のレベルでの形態の多様性は、遺伝子の発現量や蛋白質の活性など、同一システム内でのパラメータの「量的な差」として理解できるかも知れないが、綱(Class)や門(Phylum)以上のレベルの多様性になると、これは発生のシステムそのものの「質的な差」(具体的には、卵割パターンの変化、プロモータのエレメントの変化、利用するシグナル分子の転換など、様々な原因によって要素間の関係が変化することによって生じる差異)としてしか理解できないように思われる。ではそのような質的な変化は、量的な変化の累積によって生じたと考えられるのか? そう考えることも可能ではあるが、「一気に」質的な変化が起こったと考える事もまた可能だと思われる。
- その他3:本質主義?
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構造主義は「本質主義」であり進化的思考とは相容れないという批判がある。たしかに「真核生物を真核生物たらしめている『構造』」などという言い方における「構造」は、「本質」そのものにも聞こえる。でも考えてみれば、「真核生物」を「真核生物」としてそれ以外の生物と一線を画して特別の高次分類群を設定するということ自体がすでに、「本質主義」ではないのかという気もする。(線を引くということは、そこに「本質」の差異を認めているわけだ。そこに線を引く根拠は自然の中じゃなくてヒトの頭の中にあるんじゃないの? という批判は当然ありうる。)でもまあ、ストイックな系統思考者はそもそも高次分類群なんてものを考えないのかもしれないけど、一般の生物学者はなかなかそういうわけにはいかない。そもそも「外界に対する興味の持ち方」自体がヒトの認知機構に依存しているわけだから、そこから完全に自由になる事はできないのではないかという気もするし。まあ僕自身は「理論形態学」なんて言葉に魅力を感じてしまう人間なので、かなり「本質主義」的なところはあるのでしょうね。
- その他4:役に立つのか?
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構造主義生物学が実際の研究において役に立つのかどうかは不明である。ただ生命観、進化観について、構造主義生物学を知る以前よりはいくぶん広い見方ができるようになったという点では、僕にとって「役に立って」いるかもしれない。ちょっと列挙してみれば、遺伝子中心的な生命観、進化観から距離を置くのに役立ったし、漸進主義的な進化観が必ずしも正しいとは限らないと考える一因にもなった。構造列の考え方は(団まりなの「階層性」とともに)生物の進化を階層の上昇として捉えるという点で頭の整理に役だつし、構造の恣意性の考え方は生物現象の必然性/偶然性(あるいは還元可能性/不可能性)について考えるときに役立つかもしれないと思う。
従来の分子生物学的、ネオダーウィニズム的な生命観に対するオルタナティブな生命観がいくつか存在している(青土社あたりから本がいろいろ出ている)。日本では、河本英夫、郡司ペギオ幸夫、松野孝一郎などの論者がいるが、彼らはより生命の一般理論的なものを目指しているように思える。その点、柴谷、池田の「構造主義生物学」は「形」そして「発生」の問題に常に目を向けているように感じられ、その点で僕の興味により近いという印象をもっている。
- 文献
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柴谷篤弘『構造主義生物学』:東京大学出版会、定価2800円+税、1999年10月発行、ISBN4-13-063318-X
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彦坂 暁 (akirahs@ipc.hiroshima-u.ac.jp)