質問・意見等へのコメント

 1   (ab 2001.01.04.)

工事中(2012.09.30. 00:44 a. m. 現在)


2012年度集中・高知大学人文学部「西洋古代思想論II」

質問・意見等へのコメント

入力できたところまでを掲載しています(問だけで答がまだ,という項目もあります).順次掲載してゆきますので,自分の問への答がまだ,という人はしばらく待ってください.質問がある場合は,akyah59@hiroshima-u.ac.jpまで.@は,半角の@に置き換えてください.


番外編:アリストテレスの『詩学』について

諸般の事情により,原典(この場合は,ギリシア語)で読めない場合は,以下の翻訳で読むのがよいでしょう.

アリストテレース『詩学』・ホラティウス『詩論』松本仁助・岡道男訳(岩波文庫)
アリストテレス『詩学』藤沢令夫訳,『世界の名著 8 アリストテレス』所収(中央公論社)

翻訳で読む場合,翻訳がひとつしかない場合は仕方ありませんが,複数の翻訳があるならば,できるだけ複数の翻訳を読んで比較することが大切です.どれかひとつを基本にして読み進めるうちに,どうもよく分からない箇所とか,アレッ?と思う箇所がでてきたら,その箇所を別の翻訳で読んでみることです.また,特に,悲劇については,次の本の第3章に相当する部分(「悲劇ーアリストテレスの理論を手がかりに」)が参考になると思います.図書館などで探してみてください.

田中美知太郎『古典への案内ーギリシア天才の創造を通してー」岩波新書C17<青624>,1967年初版

また,「カタルシス」について,日本語で読めるものとして,次の本の中に,「カタルシス」の諸解釈についての研究が含まれています.

今道友信『アリストテレス』講談社(人類の知的遺産8), 1980年;『アリストテレス』講談社学術文庫1657,2004年:文庫版では,「カタルシス」については,pp. 477〜482を参照.



2012年9月10日(月)

[問] 両腕に時計をつけている理由が気になって仕方ありません.

[答] どうもすみません.左腕のは,光を動力源とする電波時計(受信局は,東日本,西日本,北アメリカ,イギリス,ドイツの5局)で,光をあてていないと止まってしまうのでつけています.また,右腕のは,自動巻の時計で動かしていないとこれも止まってしまうので,つけています.もともと,ヨーロッパに出かけた時に日本時間用と現地時間用に2つ使いはじめたので,日本にいるときはひとつでよいのですが,前述の理由でどちらも止まらないように2つもって歩いています.

[問] しゃぼん玉はいつどのような場所で吹きますか?きっかけは何だったのですか?

[答] 自分の部屋で吹いたりしています.6階の窓から外に吹いて,風に飛ばされて行くのを眺めるのが好きです.以前,学生に携帯用のシャボン玉セットをもらったのがきっかけです.

[問] 先生は神様の存在について,どうお考えか気になりました.先生にとって神はいるものなのかどうなのか?

[答] 「神様」という表現をされると,信仰の対象としての神のように受け取れますが,授業の中で,「神」「神的なもの」という場合に,区別しておくべきことがあります.すなわち,
・ギリシア人のいう「神」「神々」「神的なもの」(これは,後のキリスト教の神とは異なる)
・現代の私たちが(信仰がある場合)信じる「神」(これは,キリスト教に限らず,それぞれが信仰する対象)
これらを区別して,西洋(古代)哲学史の研究をする必要があります.自分で「哲学すること」(哲学)と「哲学史」の研究をすることは切り離せない関係にありますが,先の「問」を自分の哲学では,「神」をどう考えるか,という「問」であるとして,答えるとすれば,この世界には,何かわからないけれども,人間の理解を超えた超越的な力あるいは存在があるかもしれない(あると確信するところまではいっていません)が,それは,特定の既存の宗教の「神」とは異なるので,「神」という名称で呼ぶことはできない,という立場です.近現代の哲学者たちの中には(特に18世紀以降),こういう超越的存在を「神」とは呼ばず,「超越者」とか「絶対者」とか「自然」とかいう呼び方をしている者が少なからずいます.

[問] 先生は高知県が好きですか?

[答] 高知の「しょうが」が好きです.

[問] アリストテレスの四原因説について,四原因のそれぞれの内容はわかりましたが,それらを用いてアリストテレスは何を説明したのですか?アリストテレス以前の哲学者についての批評?

[答] アリストテレスは,四原因の考え方に基づいて,自然やその他の事象を説明するわけですが,特に,『形而上学』の第1巻は,アリストテレス以前の哲学者たちを紹介し批評したアリストテレスに至るまでのギリシア哲学史になっています.中公バックス・世界の名著『ギリシアの科学』(高知大学の図書館にあります)は,藤沢先生による『形而上学』の第1巻の翻訳が含まれますので,是非,読んでみてください.

[問] プラトンの著作は,パピュロスに記されたものが残っていたのでしょうか?

[答] ローマ時代まで残っていたのはそうです.その後,更に,羊皮紙などに書き写されて現代にまで伝えられています.

[問] 322 A. C. は思想のルネサンスのようだと思った.「polisによる生活形態から,imperiumの形態に変化した」(プリント参照)が起こったことが大きな原因であるとは思うが,他の理由はあるのか.

[答] 他にあるかもしれませんが,はっきり,これ!と指摘できるものは思いつきません.やはり,政治・国家の形態(規模)が変化することによって,人々の問題とすること,関心の向かう先が変化したことがもっとも大きな要因であろうと思います.
 なお,ひとつ気になるのは,通常,ルネッサンスというと,ブルクハルト以来,14世紀から16世紀にかけて,ヨーロッパで起こった古典復興と人文主義のことを指すのだと思います.あくまでも比喩的に使っていることは理解できますが,この考え方は,前提として,古代ギリシア・ローマの文化があり,その後,暗黒の中世があり,その後,ルネサンス(再生)が起こる,という考え方があります.しかし,まず,私の認識としては,中世は決して暗黒でなくて,古代の文化とキリスト教の文化が共存する独自の思想を展開しており,論理学などの分野によっては,いわゆるルネサンスの時期よりも高度な水準に達していたのであって,単純に,ルネッサンスという言い方は通用しないと思います.授業に課されたのは,「西洋古代思想」論ですが,それとは別に,いや,むしろ,西洋古代思想を正確に捉えるためにも,中世に対する理解を見直す必要があると思います.その点で,意味のある質問をしてくれたと思います.

[問] アリストテレスは錬金術でもやっていたのか?

[答] 錬金術というのは,ヨーロッパ中世や近世初頭(例えば,パラケルスス)に関して言われるので,古代では,それに相当する技術があったかもしれませんが,錬金術という名称では呼ばれないと思います.

[問] 哲学は「神学の侍女(はしため)」と呼ばれているのに,神の捉え方がそれぞれ違って,正直困る.

[答] 哲学は「神学の侍女(はしため)」というのは,ヨーロッパ中世(およびそれ以降)にあてはまることです.「神学の侍女(はしため)」の「神学」は,キリスト教神学です.同じく「神学(theologia,テオロギア)」と言っても,キリスト教成立以前の,ギリシア人にとっての「神学」は,「神」「神々」「神的なもの」の内容がキリスト教とは異なるので,同列には語れません.「神の捉え方がそれぞれ違って,正直困る」ということですが,「困らない」ように,神学の対象となる「神」の意味を区別して考察することが哲学史研究のしごとのひとつです.

[問] ギリシア哲学がキリスト教に与えた影響が大きいとの事でしたが,具体的にはどういう部分でしょうか?

[答] キリスト教は,ヘブライ語で書かれた旧約聖書と(「コイネー」と呼ばれる)ギリシア語で書かれた新約聖書をもとに成立していることからもわかるように,ギリシア語による表現・考え方が重要な要素になっています.例えば,「三位一体」の考え方にも,「父」と「子」と「聖霊」は,「実体(ousia,ウーシアー)」としては同じ一つの「神」であるが,「位格(hypostasis,ヒュポスタシス)」としては,「父」と「子」と「聖霊」である,という場合,ギリシア哲学の用語が使われていて,これなしには理論的説明ができなくなっています.

[問] 「知」と「思惑」のところは「結局のところ人間は確実な知は得ることはできず,思惑にすぎない」という認識でいいのでしょうか.それとも「人間の根底に「知」というものが,言いあらわすことはできないけどそなわっている」ということですか?

[答] クセノパネスのところでは,前者でも後者でもなくて,現時点では,「人間は確実な知は得ることはできていなくて,あるのは思惑にすぎない」けれども,「知」を確実に得られるかどうかわからないけれども,得られないとも,得られるとも,決まっていないのだから,得る努力を怠ってはならない,という立場です.

[問] ギリシャ語やラテン語は勉強しておいた方がいいのでしょうか.

[答] ギリシア語(現代ギリシア語をやっている人は「ギリシャ語」と書く傾向があります)やラテン語は,必要があれば(つまり,読む必要があれば)やっておいた方がよいでしょう.今では,学習のための本がいろいろ出版されていますが,独学するとどうしても分からないところがでてくるので,できれば,授業があればよいですね.例えば,ハイデッガーのSein und Zeitを読もうとすると,本文はドイツ語ですが,ギリシア語やラテン語の引用がたくさん出てきます.

[問] ギリシア神話は古代ギリシアの哲学家の思想に影響を与えているのでしょうか.

[答] もちろん,神話の内容はギリシア人に共通の常識として哲学者にも周知のことですが,哲学(philosophia,ピロソピアー)と神話(mythos,ミュートス)とは,対比的に捉えられます.アリストテレスは,ヘシオドスらのように,神々が生まれることによってこの世界が形成されていく様を神話的に語る人々を,論証的(哲学的)に語る人々と区別しています(『形而上学』, Metaph. B4, 1000a18-22; 赤井清晃「問答と探求としての哲学史ーアリストテレスにおけるディアレクティケーの観点からー」,渡邊二郎監修,哲学史研究会編『西洋哲学史の再構築に向けて』,昭和堂,2000年,所収,特に,pp.57-58参照).一方,プラトンには,「エルのミュートス」(『国家』10巻)のように,「ミュートス(神話・物語)」という表現方法があり,これは,死すべきものたち(すなわち,人間)には,論証したり,証明したりできないような事柄を,「まことしやかに」説明する手段として重要な役割を演じているのですが,内容は,プラトンが説明したいと思っている事柄で,直接,ギリシア神話とは関係ありません.プラトンの場合は,内容的には,むしろ,ピュタゴラス派やオルペウス教の教義に由来すると考えられています.

[問] ピタゴラス教団について少し興味があるので,授業で軽く触れてほしいです.

[答] 授業用資料では,p. 11およびpp. 15-17を見てください.より詳しくは,チェントローネ『ピュタゴラス』岩波書店を図書館で探して読んでみてください.

[問] 哲学者が残した書類は偽物が紛れていることもあるそうですが,本物という認定は誰がしているのでしょうか?

[答] その哲学者を研究している学者(研究者)がしていますが,研究者によって意見が異なったり,間違っていたりすることもあります.簡単にいうと,著作が複数ある場合,一方を基準にすると,他方はどうみても同一人物の著作・主張とは考えられない,という判断をします.

[問] 午前中の講義であったタレスをなぜアリストテレスが取り上げたかということですが,あれは簡単に言うとアリストテレスの四原因説がいかに優れているかを示すために比較対象にされたからということですか?

[答] アリストテレスの四原因という観点から見ると,アリストテレス以前の人たちの見方は,4つの原因のうちのいくつかだけにしか着目していないとみることができるので,質料因だけに着目しているようにみえるタレスらを取り上げた,ということでしょう.しかし,実際,タレス自身の立場からすると,水は,アリストテレスの言うような単なる質料因である,とは言いがたい面(生命の原理としては,形相因,動因的な側面がある)もあるので,注意が必要です.

[問] 大昔の文章があまり残っていないのは残念ですが,なぜプラトンの著作物だけこんなに残っているのでしょうか?なにか権力が絡んでいたりするのでしょうか?途中の脱線の話がなかなか楽しかったです.広大はシャボン玉禁止なのでしょうか・・・・

[答] プラトンの著作がほとんどそっくり残っているのは,たしかに奇跡的ですが,特に,権力云々ということではなくて,よく読まれていたからでしょう.アリストテレスの場合も,公の著作ではないですが,リュケイオンでの講義ノートの類がたくさん残っているのも,奇跡的です.当時の人々の注意を惹き,よく読まれた著作は,その分だけ,手書きの写本(コピー)も多く作られるので,それだけ後の時代まで伝えられる可能性も大きくなります.どいう脱線でしたっけ?特に,シャボン玉禁止ということは聞いたことはありません.シャボン玉を飛ばしているのは,学生,教員を通じて,たぶん,僕しかいないと思うので,禁止するまでもないのでしょう.

[問] 自分は神に試されていて,自分以外の人間は皆そのための役者かもしれない,というお話がおもしろかったです.私はそのように考えたことはなかったですが,外国など自分がまだ実際に言ったことのない国は(ニュースなどで報道しているけど)本当に存在しているのか?と思ったことがあることを思い出しました.(国家ぐるみで,その国を「実在していること」にしているとか)

[答] この話は,哲学のように,自分が直接,感覚知覚で体験できない対象を,とりあえず,どのように想定して,理解しておくか,という問題です.(3日目[9月12日]に宿題として出した,数列:2, 4, 6, 8・・・の一般項は,2nだけではない,というのもこれと通じるものです.この例で,直接分かっているのは,第4項まで,つまり,2, 4, 6, 8までで,これは,確かに2n[nは,1以上の自然数]とすれば,整合的に理解できますが,第5項以降,つまり,[・・・]の部分は,どうなっているのか見えていないので分からないわけです.ですから,第4項まで,つまり,2, 4, 6, 8までならば,2n以外にも整合的な解釈が可能だということを否定できないということです.)

[問] アレクサンドロスによって個人的倫理も変化したというのが興味をひいた.アレクサンドロスの考えに世間がある意味で感化された,ということなのか.アレクサンドロスの行った政治による変化なのだろうか.

[答] そういうことではなくて,別の人の質問にもありましたが,「ポリスpolisによる生活形態から,帝国imperiumの形態に変化した」(プリント p. 6参照)ことが原因で,政治と個人的倫理が分裂した,ということです.ポリスpolisは,都市国家の規模ですから,市民権をもつ市民の全員参加の国民議会が可能で,政治ということと個人の倫理が一体となっていましたが,アレクサンドロスによって出現した,広大な国土の帝国imperiumでは,もはや,国民が全員参加する議会など不可能になり,政治のレベルと,個人的な倫理のレベルが分裂した,といことです.つまり,都市国家の規模のポリスpolisでは,人はいかにして,よきポリスpolisをつくることができるか(政治),という問題と,人は個人としていかにして,よく生きるか(個人の倫理),という問題が,別々のことではなかったのに対して,広大な国土の帝国imperiumでは,かりに,帝国の政治が腐敗していても(政治),その中で,少なくとも個人としては,よく生きる(個人的倫理)ということは,別の問題として追求され得るようになった,ということができます.ですから,アレクアンドロスの考えが云々,ということではありません.

[問] センター試験用の倫理を学んでいたのですが,先生の授業はこの人はこう,あの人はああ,といった決めつけやカテゴライズがなく,新しい目で見ることができました.歴史は「たられば」を言い出すとキリがないですが,実際に残っているものから事実を考えられているようで,「研究」のような感じがしました.

[答] 定説とされていることや,哲学史の本に書いてあることでも,その哲学者の言葉を読んでみると,本当にそうか?と思うことがあるので,他人が書いていることを鵜呑みにしないで,自分で確かめることができることは自分で確かめるようにすることです.それをどこまでやるかは,程度問題でもあり,自分が置かれている状況にもよりますが...

[問] 先生は弦楽器以外の楽器は演奏なさらなかったのですか?私はずっとトランペットをふいていました.

[答] 中学までピアノを習っていました.高校からチェロやちょっとヴィオラにさわった程度でさっぱりです.思い出したように,アルト・リコーダーを吹きますが,これもさっぱりです.管楽器については,演奏はできませんが,オーケストラ曲をチェロだけのアンサンブル用に編曲することをたまにやっていますが,移調楽器が多いので,実音を確かめるのに,慣れないので時間がかかります.ヴィオラのハ音記号や,チェロのテナー記号にはなれましたが...高校生(普通科)のとき,ブラバンでクラリネットを吹いていた友達に,校内合唱コンクールのピアノ伴奏を頼んだのですが,彼はニ長調の伴奏譜を見ながら,一音下げてくれと言うと,即座に,ハ長調でちゃんと弾くし,管弦楽団(部活)がベートーヴェンの「エグモント」序曲をやったときには,スコアを見ながら,そのまま,ピアノで弾いてしまうというやつで,つまり,管の移調楽器の実音がすぐにわかる(まぁ,スコアを読む人には当たり前のことですが)ので,これなら,すぐに,オーケストラの練習指揮者になれるなぁと脱帽したことがります.これくらいできるやつが高校時代2人ほどいたのですが,2人とも,音楽家にはならずに,普通の大学にいって,普通に勤めています.



2012年9月11日(火)

[問] デモクリトスの原子論で魂も原子で構成されており,それに運動があるとすれば,何によって運動が起こるのかということは規定されているのですか?人に自由意志はあるのでしょうか?

[答] それぞれの原子自体に固有の運動があるとされています.しかし,その運動があらかじめ決まっているとすると,自由意志はありえず,決定論になってしまいます.おそらく,それを解消するために,後のエピクロスやルクレティウスは,一応,原子には固有な動きがあるけれども,説明のつかない仕方で,本来の動きから逸脱する・逸れる(原子の傾きclinamen principiorum)が起こる,と言っています.

[問] 神という概念はどうして生まれたのですか?ギリシアやキリスト教や他の宗教でも,どうして「神」は全て「神」という言葉であらわされるのでしょうか?

[答] 無神論の立場である,エピクロスやルクレティウスでは,自然現象などの,人間にとって脅威となる事象を引き起こすものとして,「神」が考えだされた,とされるので,世間一般の人々が「神」だと思っているものは,人々の考え出した観念(頭の中の考え)に過ぎない,ということになります.ギリシア人も,theos(テオス,神),theoi(テオイ,神々),theoion(テイオン,神的なもの)という言葉を使っているので,それをそのまま,日本語に訳すと,「神」となってしまうわけです.日本語で「神」と言われたときに思い浮かべるものと,ギリシア人が「テオス」と言うときに思い浮かべているものが必ずしも一致しないのかもしれません.

[問] 原子のことについて長く話されていたからか,哲学や思想というものがそもそもどのようなことを指していたのか自体よくわからなくなりそうでした.原子については,ものの存在について考えていたら出てきた話という解釈で大丈夫なのでしょうか.

[答] 「哲学や思想というものがそもそもどのようなことを指していたのか」ということですが,原子論について考えるのは,十分に,哲学のするべき仕事です.授業の最初で,ギリシア哲学の特徴の1番目に,哲学は全ての学問の総体である,ということを述べましたが,その中には,現在の区分で言えば,文科系,理科系のものがすべて含まれます.それは,今でも変わらず,論理学や科学哲学は,広い意味での哲学の分野です.哲学や思想というと,文科系と思われるかもしれませんが,必ずしもそうではありません.現に,私は,論理学と科学哲学・科学思想史の授業も担当しています.ですから,ギリシア語やラテン語だけでなく,数学や論理学の知識も必要です.

[問] 「a」がギリシア語で否定の接頭辞なら「アリストテレス」など「a」で始まる人名でも「否定の接頭辞a+動詞」から成っているものはありますか.

[答] 欧文に引用符をつけるときは,「a」とやらずに,"a"としてください.邦文ならば,「あ」で結構です.さて,ギリシア語で,a+〜という場合,aが否定の接頭辞である例をいくつか指摘しましたが,人名の場合は,ちょっとないのではないでしょうか(調べてみないとわかりませんが).Aristotelesの場合は,人名(固有名)なので,意味を詮索しても仕方ないのですが,強いてやれば,aristo-は,「よい」の最上級「もっともよい」で,telesは,「完全」という意味かと思われます.従って,arito-の a は,否定の接頭辞ではありません.「否定の接頭辞+動詞」についてご質問ですが,abouleo(アブーレオー)というのが,「欲しない」という意味の動詞で,語尾が変化していますが,a+boulomai(ア+ブーロマイ)からできています.ギリシア語に由来する英語の例で,atheist(エイシスト)は,「無神論者」という意味で,a-は,否定の接頭辞,theistのthei は,「神」の意味です.正確なことは,大きな辞典で語源を調べてください.

[問] 魂や神という言葉を使われてしまうと,どうしてもオカルト的な意味にとってしまいそうですが,当時の人も間違えて解釈したりしたんでしょうか?

[答] 「神」については,先の質問で触れましたが,「魂」の場合は,現代の言い方では,「意識」くらいに理解すればよいかもしれません.ただし,「魂」が不死であるということは,肉体が死んでからも,「意識」は存続する,ということになりますが.「魂の不死」を証明するとか「神の存在」を証明するとかいうことは,例えば,17世紀のデカルトにとっても,オカルト的な意味ではなくて,まじめに,問題として考察されていたことを知る必要があります.

[問] アナクサゴラスは,太陽は石,月は土と言ったが,すでに,その頃,そのような考え方をする人はいたのだろうか.いなかったとしたら,アナクサゴラスは非難されたりしなかったのだろうか.

[答] 天体を神的存在とみなす人々からは非難されたことだと思います.

[問] 「神の如くあれ」は,具体的にどのようにあればいいのか.

[答] 「神の如くあれ」というのは誰の発言ですか?差し支えなければお知らせください.
(Email address: akyah59@hiroshima-u.ac.jp)
メール・アドレスの@は,半角の@に置き換えて使用してください.

[問] 「魂はもともと神的なもの」で,「至福の者たちの中」にあったとあるが,哲学の域で人間の身体はもともと完璧(神的)だったとするものはないのか.

[答] 身体が完璧(神的)とまでは言わないかもしれませんが,精神よりも身体を上位に置いて考えるのは,19世紀になりますが,ニーチェあたりにありそうです.

[問] 今日の授業とあまり関係が無いのですが,ギリシア哲学(B. C. 500〜)がこれだけ発展し,中世(17世紀〜)での哲学の盛り上がりの間の時間的間隔が大きすぎると思うのですが,これは何か理由があるのでしょうか.A. D. 500〜1500年頃に哲学者が多くでてこなかった理由が知りたいです.

[答] 今回の集中講義は「西洋古代思想論II」なのですが,西洋古代よりも,むしろ,「中世」の理解に問題があると思われますので,少し長くなりますが,基本的なところから考えてみましょう.まず,時代区分の問題ですが,西洋哲学史では,古代をA. D. 5世紀くらいまでとし,それ以降,1500年くらいまでを中世とします.それ以降が近世ということになります.ですから,「中世(17世紀〜)」というのはまずいです.しかし,時代区分は,人為的なものですから,学者によっては,中世を400年〜1300年くらいまでとし,それ以降を近世とする人もいます.いずれにせよ,A. D. 500〜1500年頃に哲学者がでなかったわけではありません.もっとも,この時期は神学者でありかつ哲学者という場合が多くなります.ちょっと,思いつくだけでも,以下のような人たちは重要です.
ボエティウス(c. 480-524)
シンプリキオス(c. 500-533以後)
オリュンピオドロス(6世紀)
ヨアンネス・ダマスケヌス(650-750)
アルクィヌス(c. 730-804)
アル=キンディー(c. 801-c. 866)
ヨハネス・エリウゲナ(c. 810-877以後)
アル=ファラビー(c. 870-950)
イブン=シーナー(980-1037)
アンセルムス(1033-1109)
ロスケリヌス(1050-1125)
シャンポーのギョーム(c. 1070-1121)
アベラール(1079-1142)
サン=ティエリのギョーム(1058-1148)
クレルヴォーのベルナール(1090-1153)
サン=ヴィクトルのフーゴー(c. 1096-1141)
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179),この人は女性です.
ペトルス・ロンバルドゥス(c.1100-1160)
アヴェロエス(イブン・ルシュド)(1126-1198)
マイモニデス(1135/38-1204)
フィオーレのヨアキム(c. 1135-1202)
グロステスト(1168以降-1253)
ヘイルズのアれクサンダー(1185以降-1245)
アルベルトゥス・マグヌス(c. 1100-1274)
ボナヴェントゥラ(c. 1117-1274)
ロジャー・ベイコン(c. 1119-c. 1292)
トマス・アクィナス(c. 1125-1174)
ライムンドゥス・ルルス(1235-1316)
ガンのヘンリクス(1240以前-1293)
ブラバンのシゲルス(c. 1240-c. 1281)
エックハルト(c. 1260-c. 1328)
ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1265/66-1308)
ダキアのボエティウス(?-1270)
ペトルス・ヒスパヌス(?-1277)
オッカム(1285-1347/49)
ビュリダヌス(1295-c. 1358)
というように,1400年以前にも,多くの人たちが,哲学,論理学,自然学その他の分野でめざましい研究を行なっています.この時期の哲学・思想は,けっして17世紀以降に劣っているどころか,領域によっては,近世の哲学を凌駕していると思います.最近,少しは日本語訳(もちろん,ラテン語で読むのが一番よろしいが,まだラテン語を学んでいないならば,日本語訳でもよろしいでしょう)が一般の人にも読めるようになりましたが(平凡社の『中世思想原典集成』全20巻,図書館でさがしてみてください),まだ多くの人に知られていないのが残念です.そして,古代・中世全体について見通しを得るためには,例えば,クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリーが,特に,中世については,クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社ライブラリーが,よいかもしれません.これらの本には,巻末に参考となる文献表がついていますから,それらを更に読み進めて行くことができます.

[問] 古代から原子の存在を考えていたとは驚きでした.
見えないものを発見する,考えた出す人間の頭の良さに感心します.
昨日と今日でギリシャ語とアルファベットの対応表を作り,少しギリシャ語が読めるようになった気分です.

[答] デモクリトスらの原子論は,古代原子論といって,近代以降の原子論とは異なりますが,不可分のもの(アトモン)と空虚(ケノン)を想定する点で,原子論の基本的条件をすでにそなえています.パルメニデスらのエレア派の「あるもの」と「あらぬもの」の条件に応えて発想されたとしても,たしかに,よく考えついたと思います.
自分で作ったギリシア語の文字のラテン字体(アルファベット)対応表については,田中美知太郎・松平千秋『ギリシア語入門』(岩波全書)などの文字一覧で,確かめておくとよいでしょう.アリストテレスも『形而上学』第1巻で,デモクリトスの原子を説明するのに,ギリシア語の文字(当時は大文字しかなかった)に例えています.AとNは形が違うとか,ZとNは,向きが違うとかいうように.

[問] 今回の講義で触れた「転生」は,仏教等の輪廻転生と同義のものと考えていいのでしょうか?

[答] とりあえず,同じと思って結構です.ただ.「仏教等の」という点ですが,インドの場合,本来の原始仏教に「輪廻」があったわけではなく,仏教成立以前に,すでに,ウパニシャッドで,「輪廻」ということが言われていて,後に成立した仏教がこの考えを受け入れた,ということだと思います.その点で,ギリシア人のいう「転生」は,仏教に対するウパニシャッド的な関係にあると思います.

[問] 原子論の倫理的問題に非常に興味がわきました.ピュタゴラスの思想が仏教に類似している点も,理由が明らかになればよいのですが.偶然とは思えません.

[答] デモクリトスの原子論的世界観では,倫理的な問題がどう考えられるかが重大な問題だったのと同じように,マルクスの弁証法的唯物論の立場でも,唯物論の中で,いかにして倫理学が成立するかが問題になります.有名な話ですが,そのマルクスの卒論に相当する論文は,デモクリトスとエピクロスの原子論に差異についてのものであったのは,示唆的です.

[問] 〜派など違う学派の哲学者の人はあまり仲がよくないのですか?

[答] 理論的に,学問上,立場や主張が違う,ということと仲がよい・わるい,ということを区別できるとすれば,必ずしも学派が違うと仲がわるい,ということにはならないと思いますが,学問上,立場や主張が違うならば,議論をするとき以外は,いっしょにいたくないのが人間ではないでしょうか.

[問] デモクリトスの原子論は,人間の倫理面などに言及しているとは思わなかった(魂の再形成,教育の可能性)ので,少しおどろいた.

[答] すでに言及したように,原子論にとっては,人間の問題,善悪などの価値判断,倫理的問題がどのように扱われ得るのかが,むしろ,重要な問題になりますから,残されているデモクリトスの断片の多くが,倫理的問題に関するものであるのも当然かもしれません.

[問] 原子論の話が,今日一番興味をもつことができた.
宇宙の周期も,今,私たちがいるのはどこなのか考えると,完全な「愛」の時ではないと思った.

[答] エンペドクレスの宇宙の周期のほうですが,おそらく,完全な分離に向かう途中か,完全な混合に向かう途中のいずれかになるのでしょう.日本語で「愛」と言われたときに,何を考えるかが問題です.さしあたり,混合する力が「ピリアー(愛)」と呼ばれ,分離する力が「ネイコス(争い)」と象徴的に言われていると解すればよいでしょうけれども,しかし,何故,エンペドクレスは,混合(ミークシス)の力を「愛(ピリアー,ピロテース)」と言ったのかを考えなければなりません.

[問] 先生の哲学者や哲学に関する雑学のような話がすごく面白くて好きです.世間にあまり知られていないような話や,原文と訳の違いなどもっと教えてもらいたいです.

[答] 何を面白いと思うかは人それぞれでしょうが,翻訳があっても,原典が手に入る場合は,できるだけ自分で原典にあたって訳してみることが大切だと思います.

[問] 「あらぬものがある」と「あるものがある」のあるはあるでも違う「ある」について考える内容が深いと思った.原子論の内容が難しかった.

[答] そうですね.「あらぬものがある」は,原子論の「ケノン(空虚)」を「あらぬもの」と言っているなら,アリストテレスならば,確かに,「あらぬもの(空虚)も,あるもの(原子)に劣らず,ある」と言ったでしょうが,これが,エレア派(パルメニデスら)ならば,そうはいかず,「あらぬものは(どこまでも)あらぬ」と言わなければなりません.

[問] p. 28のパンや水を食べて,肉や骨になるのは,何故かという問いに対しての答えが,ヌースだった.ヌースがスペルマタの海に衝撃を与えて,過動運動や連鎖反応が生じて秩序が生まれる.この過動運動や連鎖反応をくわしく知りたいと思った.この理論は,カオス理論の過程に似ていると思った.

[答] アナクサゴラスについてですが,前半の「肉や骨」になる話は,いきなり,ヌースではなくて,アリストテレスの言葉で言えば,「ホモイオメレー(同質素)」という考え方で説明されたところです.ヌース自体は,最初に作用するだけだとすると,その点が評判が悪いのですが,その後の過程についてもよくわからないところが多いので,説明に窮します.発想としては確かに面白いのですが...

[問] 科学なんてほとんど発達していなかった時代に,ここまで自然についての知を深められていたことに驚きました.余程暇だったのか,彼らの暮らしていた世界が自然に密着していたからか...その思索の動機となるものが何だったのかが気になりました.現在は情報がたくさんあって科学も進んできているけれど,一般の人は与えられた知をうけているだけの場合が多い.彼らみたいに,自分で知を獲得できるようになりたい.そう思いました.

[答] ギリシア人のように哲学するためには,たしかに,余程「暇」が必要です.この「暇」をギリシア人は「スコレー」と言いましたが,「スコレー」は,中世の学校の意味の「スコラ」になり,英語では「スクール」になっています.今の学校というか大学は,「暇」どころか.会議や書類作成やらの「家事的雑用(housekeeping chores, W. ジェームズの言葉)」が増えて,思索する時間がありません,とここで言っても仕方ないですが...彼らの思索の動機は,ひとつには,授業の冒頭で言及した,「タウマゼイン」ということがあると思います.多くの情報があるように見えるけれども,本当に必要な情報は隠されたままかもしれず,日常になにも「タウマゼイン」する(不思議に思う)ことなく過ごしていては,自分で何か知を獲得するところまでいくのは難しいでしょう.ですから,すごく大切なことに気づいてくれたと思います.



2012年9月12日(水)

[問] キュニコス学派を何故犬儒学派と呼ぶのでしょうか.また,ダイモンを何故鬼神と訳しているのでしょうか.

[答] キュニコス学派の祖アンティステネスの学校がアテナイの東郊外キュノサルゲス(地名)(Kynosarges: 語源は不詳だが,kynos-という部分は,犬kyonキュオーンに由来すると思われる)にあったから,という説と,シノペのディオゲネス(樽のディオゲネス)の「犬のような生活(kynikos bios キュニコス・ビオス)」に由来するという説があるようです.「儒」は,本来,孔子の教えを奉じる学者のことでしょうが,ここでは,単に「学者」という意味でしょう.ダイモンは,ホメロス以来,時代によって意味が微妙に変化して,ひとことで言うのが難しいので,訳さずに「ダイモン」としたいのですが,ソクラテスやプラトンの時代には,各人ひとりひとりについているもので,人間各人と神々(ゼウスとか)の仲介者的存在を意味するようになります.例えば,ヘラクレイトスには,「人間にとってエートス(人柄)は,運命(ダイモン)である」(Fr. 119)という断片がありますが,「人柄がその人にあれこれ指図して運命をきめる」という程度の意味になっています.ですから,単に「神」とか「神々」というのとも違うので,わざわざ「鬼神」と訳しているのでしょう.ここでの「鬼」は,人間わざをこえてすぐれていること(人間ではないこと)を意味していると思います.これは日本語の問題でもあるので,自分で漢和辞典を引いて調べてみてください.

[問] 哲学者の著作が偽物だと分かった場合,それは価値のないものになってしまうのですか?

[答] 偽物でも,どういう偽物かによって事態は異なります.プラトンの書簡の場合,プラトン自身の書いたものでない場合,そこに書かれている内容はプラトンの考えであるとみなすことはできませんが,実際の書き手の,あるいは,書き手の時代のプラトン解釈を示しているともみなせるならば,哲学史研究の上で,貴重な資料となります.

[問] プラトンの書いたものでまだ見つかっていないものや,わかっていない所もあるが,今後新たな資料が見つかったり,新たな発見により,哲学の世界が変わることはあるのだろうか.

[答] プラトンの場合は,今後,これまで知られていなかった著作が見つかるということはまずないと思いますが(既知の著作の未発見の写本が見つかることはあり得ると思います),ソクラテス以前の哲学者については,これまで知られていなかった断片が見つかるということはあると思います.それは,著作としては知られているものの中に引用されている言葉が,誰の言葉か分からなかったか,誰かのものと認められていたけれども,それが間違っていたことが判明する,というような仕方です.

[問] プロタゴラスが教える「徳」は,なんとなく良い所を見つけてのばすことで生計を立てる術をみつける,みたいな教育法かと思ってしまいました.哲学者は自分個人の意見としてではなく他人が語ったという体をとることがありますが,当時の流行なのか,それとも当時説得力がある方法だからこうしたのでしょうか.

[答] プラトンが『シュンポシオン(饗宴)』の中で,ディオティマから聴いた話としてソクラテスにイデアに関する話をさせるのは,現実のソクラテスはイデア論を奉じていたわけではないので,ソクラテスが自分の考えとしてイデアについて語ると不自然な感じがしたからだろうと思われます.古代に限らず,一般に,自分より権威があると思われる者に依拠して,何かを主張するということは,その権威を認める人たちに対しては説得力をもつので,その効果をねらって採用される方法です.

プロタゴラスに限らず,ソフィスト全般を扱い,特に,弁論術についても考察している本として,次のものがあります.図書館で探して読む価値のあるものだと思います.

田中美知太郎『ソフィスト』講談社学術文庫,学術文庫版初版昭和51年(初版の引文堂書房「教養文庫」版は,1941年)

[問] ソクラテスが政治に関わることを良しとしないダイモンは,キリスト教(の一派)の教えの擬人化だったりするのか.(参考文献『聖書は実際に何を教えていますか』p. 122,ものみの塔聖書冊子協会,2009) 「この世の戦争や政治論争に参加すること」を良しとしない記述から.『新訳聖書』→イザヤ 2: 4,ヨハネ 6: 15,17: 16.

[答] ソクラテスにとってのダイモンは紀元前のことで,キリスト教(の一派)が生じるのは紀元後のことでしょうから,紀元後の人々が,キリスト教の立場から,ソクラテスにとってのダイモンを振り返って,あれこれ言うことはできるでしょうけれども,紀元前のソクラテスにとっては,関係のないことだと言わなければなりません.

[問] プラトンが思考を「魂が魂自身を相手にして行う対話(問答)である」と考えていたことについて,抽象的で分かりづらく感じましたが,問答を弁論術と対比することで,理解できたように思います.

[答] プラトンの思考を「魂が魂自身を相手にして行う対話(問答)である」という発想を,アリストテレスは受け継いで,自分一人で思考する(自分を相手に問答する)場合が,もっとも間違いが少ない,と考えています.実際,音声によることばも使わずに,自分の頭の中で問答するわけですから,誤解が生じる可能性がもっとも低いと言えるでしょう.

[問] プラトンは,ソクラテスの思想の他に,ピュタゴラス派の友人からもその思想の影響を受けているという話をきいたことがあるのですが,対話篇の中にもやはりそういうのが表れていいるんじゃないかと思うのですがどうなのでしょうか.ソクラテスの思想だけからプラトンの思想ができているわけではない気がします.

[答] それはその通りで,プラトンの哲学は,ソクラテスから受け継いだ基本的要因とともに,あと二つ,すなわち,パルメニデスらのエレア派と,ピュタゴラス派の影響があると考えられます.

[問] 実際にパピュロスに記された文字を見てみて,これを解読して現代語に訳すことができたということは過去の思想家と対話できるというすごいことであるが,彼らから言わせれば,それを解読したところでは本当に対話したとは言えないということになると思う.でも,その一歩届かないところを考えてゆくのが哲学であるということを今日は感じた.

[答] すごいと思ったら,自分でもギリシア語を学んで,原典で読むことによってプラトンやアリストテレスらと対話してみませんか.

[問] 写本を活字本にした時に,所々活字本によって違うところがあるといってましたが,そのうちどの活字本が,正しいということはあるのでしょうか?間違って写しても一応は,意味が通るでしょうか?

[答] 「間違って写す」というのは,単に綴りを間違うということでありません(そういうレヴェルの間違いもありますが).つまり,ここで言う「間違って写す」というのは,意味不明になるように綴りを間違う,ということではありません.どういう事態かというと,その逆で,原著者の表現が,難解な表現で一読しただけではすぐには理解できないような場合,一般の人にもわかりやすい表現に書き直して(実は間違って)しまうということです.ですから,「間違って写された」写本のほうが,一読したところ,意味は通じやすいのです.そこで,写本の伝承も考慮して,一見した所,意味が通じにくくても,オリジナルにさかのぼる作業をすること(原典批判,テクスト・クリティック)が必要になります.

[問] ソクラテスについて考えるにあたって必要不可欠である史料の見極めだと思いますが,思想論というより確かに哲学史という印象を受けました.
参考文献で興味を惹かれたので読んでみたいと思いましたが,大した予備知識もなく読んでもよいものか不安になりました.

[答] 特に予備知識は必要ありませんから,安心して読んでください.Socratic Problems(ソクラテス問題)については,授業で言及しましたが,ソクラテスについて,何をどこまで知ることができるのか,という観点から考察したものとして,次の本があります.

田中美知太郎『ソクラテス』岩波新書263(初版,昭和32年)

[問] CDで聴くことを目的としている現代の音楽を蓄音して蓄音機で再生したものは,CDで聴いたものより劣るのでしょうか.

[答] どのような録音・再生装置を使うにせよ,録音する際に,想定している再生装置で再生してやるのが一番よいと思います.78回転のSP盤は,SP盤のまま再生するほうが,CD化されたものを再生するよりも,音だけでなく雰囲気なども含めて,録音した人たちの意図したものに近いと思うからです.哲学の文献も,もともとギリシア語やラテン語で書かれているものならば,日本語や英語などに翻訳されたもので読むよりも,ギリシア語やラテン語で読む方がよいのです.

[問] 先生の話を聞いていると,古代のギリシャの哲学者達が皆性格悪い奴に思えてきました.
(質問)現存しているプラトンの作品をすべて日本語で読むことはできますか?また一般的に手に入れることは可能でしょうか?

[答] 全集としては,岩波書店『プラトン全集』,角川書店『プラトン全集』,勁草書房『プラトン著作集』があります.岩波のものは図書館にあると思います.自分で買うとなると,古本でも,これらの全集は高価でしょうから,個々の対話篇すべてではありませんが,岩波文庫,角川文庫,新潮文庫,講談社学術文庫などにあります.また,中央公論社「世界の名著」6『プラトンI』,「世界の名著」7『プラトンII』を古本でさがしてみてはどうでしょうか.主な対話篇が含まれています.

[問] プロタゴラスが技術知はプロメテウスから,つつしみといましめはゼウスから贈られたものだと説いた理由は?それぞれの神は当時どのような扱いだったのか.

[答] ゼウスのほうは最高神ですが,プロメテウスは,神々の火を盗んで人間に与え(人間に技術知を与え)たので,ゼウスによって,鎖で縛られ(釘づけにされ),毎日,鷲に肝臓をついばまれていたが,後に,英雄ヘラクレスがきて,鷲を射殺し,助けおろした,ということになっています(アポロドロス『ギリシア神話』第1巻,VII参照).プラトンは,『プロタゴラス』でこの神話(ミュートス)を利用しているのでしょう.



2012年9月13日(木)

[問] アリストテレスも見苦しい反論をするものだということが分かりました.イデアについてよく理解できていないので,この後の用事を済ませたら勉強しようと思います.

[答] イデア論批判として「第三の人間」(アリストテレスの呼称)の紹介に対する感想としては,「見苦しい」というのは新鮮な表現で,少し感動しました.私は,アリストテレスを中心に勉強してきた者なので,プラトン学徒の方から「喝」を入れられた気分です.ありがとうございます.

[問] キリスト教が現れてイデア論が衰退したということは,キリスト教の考え方がイデア論より説得力があったからということになるのですか?

[答] 授業では,「キリスト教が現れてイデア論が衰退した」とは言っていないと思いますが,この主張はどこから得た情報ですか?まず,「キリスト教」と「イデア論」が何を指すかによって問題が変わってきますが,例えば,13世紀のトマス・アクィナスの『神学大全』第1部第15〜17問題では,神のはたらきの中で,知性に関して,イデアが取り扱われています.このイデアは,いわば,神がもつイデアですから,もちろん,プラトンのイデアとは異なりますが,これも,或る意味でイデアについての論ですから,単純に,「キリスト教が現れてイデア論が衰退した」ということにはならないと思います.哲学史や思想史の記述を読んでいると,このように,「〜が出て,〜になった」というように,単純化して理解しようとする傾向があります.単純化して安心したい気持ちはわからないではないですが,現実はそう単純ではないことが多いのです.

[問] 神より上位の事物としてイデアを定めるという考えが斬新に思われた.今までは神を最上位(あるいは神を基点)とする世界観が西洋の一般的思想と考えていたため,イデアを根源する(根源とする?)今回の話は意外に思えた.

[答] 授業で言及したのは,プラトンの『ティマイオス』で語られる,宇宙論で,制作者(デーミウールゴス)が,イデアを範型(模範,手本)として見ながら,はじめからある場(コーラー)にこの世界を造る,ということで,この場合,制作者を神とすれば,その神よりもイデアのほうがより上位にある,ということになります.この考え方は,世界の創造主としての神があればよいユダヤ教,キリスト教の立場からは,そのまま受け入れることができる考え方ではありません.しかし,このプラトンの『ティマイオス』の世界の制作者(デーミウールゴス)と範型(模範,手本)としてのイデアの関係を,ユダヤ教の中で調停しようとしているのが,c. 20 A. C.(B.C.) 〜 c. 45 A. D. のアレクサンドリアのフィロン(ピロン)です.ユダヤのフィロン(ピロン)とも言われます.ギリシア語で著作を残していますが,ユダヤ人の哲学者です.ユダヤ教では,神が世界を創造します(この点はキリスト教も同じです)が,この創造論と,ギリシア哲学,特にイデア論を,フィロンは折衷した形で,世界の創造主としての超越的・絶対的な神と質料的な世界を媒介する中間的存在としてのロゴスが必要であるとし,それを或るときは神のもつイデアと呼んだりします.

[問] 世界の造り手が善を意志してこの世界を造ったと言われるという部分に興味を持ちました.
神の頭の中にイデアがあるのか,神よりも上の存在としてイデアがあるのか,など,いろいろな感じ方,考え方があっておもしろいと思いました.

[答] プラトンの『ティマイオス』をぜひ,読んでみてください.

[問] ティマエウスは,善なる世界を創造主がつくったと説いたということだが,西洋の思想家の中に,善悪の2元で世界の構造を考えた人はいなかったのか興味を持った.

[答] 先の質問でも言ったように,正確には,プラトンの『ティマイオス』という作品のなかで,エジプトの神官の話として,語られる話です.善悪の二元論に関しては,古代から中世にかけては,アウグスティヌスが一時期入信し,その後,キリスト教に回心してから,はげしく批判したマニ教の考え方が善悪の二元論です.古代ペルシアのゾロアスター教に由来するマニ教は,現象界の善悪を明暗(最上神としての光明と,その対極に位置する暗黒)に対比して説き,中央アジアでもっともさかんだったようですが,西はローマ帝国から東はインド,中国にまで及び,ローマ・カトリック教会も禁令を発していますが,13世紀くらいまで,その勢力伸長を押さえきれなかったようです.アウグスティヌスの『告白』を読んでみるとよいでしょう,(山田晶『アウグスティヌス,告白』(世界の名著14)中央公論社,1964年)

[問] 哲学というか,西洋古代思想にはキリスト教ありきだと思っていましたが,キリスト教ではない「神」のことを言っていたんだなとわかりました.

[答] わかっていただいて,ほっとしました.キリスト教ではない「神」のことを表現するために,ギリシア人の場合は,「神々」とか「神的存在」という日本語をあてたりします.

[問] イデア論は,イデアを認識することが可能な主体としての神の存在を唱えた神論だという解釈もできるのでしょうか.

[答] 議論の主な対象が「神」であれば,そう言えますが,イデア論は,むしろ,我々人間の立場から,この世界がどう説明できるか,というほうに向いていると思います.

[問] キリスト以前に,神的存在を認めていたようだが,これは本当に神的存在がいるとソクラテスなどは考えていたのだろうか.
ただ説明のつけられないものを,ただそういうものを置いただけなのだろうか.

[答] 「キリスト以前」というのは,「キリスト教成立以前」と理解してよいでしょうか.ソクラテスなどのギリシア人は,「キリスト教」のような一神教ではなくて,「神々(テオイ)」と,ソクラテスの場合は,「ダイモン」と呼ばれる個々人についている「神的存在」も認めています.それらに関して,「説明のつけられないものを,ただそういうものを置いただけ」と言えるかどうかは,難しい問題ですが,「そういうものを置いただけ」という以上の何かへの洞察があると思います.それは,宗教についての哲学的考察(宗教哲学)の仕事になる思いますが,広い意味で,これも哲学の対象です.

[問] 人間が神々と行進している超天空界は天国のようなところなのですか?

[答] 「天国」と言って何を理解されるか分かりませんが,少なくとも言えることは,質料的(物質的)な制約からは解放されているところ,言い換えれば,魂(と言ってわかりにくければ,精神だけの存在)だけで存在しているようなところです.

[問] p. 72の3300行目に「人間は生まれる以前に,超天空界で,神々とともに行進しており・・・」とあるが,人間は生まれる前の魂の状態の時は,神と同格ということですか?

[答] 存在自体が同格ということにはならないでしょうが,あり方として,超天空界に在る,という点では同じです.

[問] 結局プラトンは善のイデアを知ることができたのでしょうか?
イデア論は人の価値判断に普遍性を提示したという点では有用であると思うが,それは人為的な希望によるものであり,絶対の必然性をもつまでには至らなかった.だが私が人である以上普遍の価値に憧れをいだくことは避けられないだろうと思う.

[答] 現世で,生きているうちに,イデアを認識できるのか(「イデアの今生(こんじょう)認識」といわれます)ということ自体,問題なのですが,以下は,学問的な話ではなくて,テクストを読んでの印象というか感じなのですが,プラトンはかなり自信をもって分かっていたように思いますが,アリストテレスにはどうも,理論的な要請としてしか理解できていないような気がします.しかし,おっしゃるように,「普遍の価値に憧れをいだく」というのは大切なことであり,なぜ,そうなのか,ということになると,イデア論は説得力をもつかもしれません.

[問] イデア論の欠点の指摘で,パルメニデスが登場していますが,彼が言ったことはプラトン自身が考えていたことだったのか,他の哲学者たちから指摘されていたことだったのか,どちらなのだろうかと疑問に思いました.

[答] 年代的に歴史上のパルメニデスが言ったことではないでしょうが,プラトン自身が自己反省的に考えたことや,アカデメイア(プラトンの作った学校)内での弟子達との議論が反映されているのかもしれませんが,すべては,最終的にはプラトン自身によるものでしょう.

[問] 非常の(ママ,に?)面白い講義をどうもありがとうございました.今日の講義は色々と質問したい点が多い,その点で興味深い内容でした.(個人的に)

[答] 「非常の」(常ならぬ)講義をしてしまったようですが,質問があればどうぞ,お知らせください.

[問] 第三の人間論があまり分からなかったので,勉強しようと思いました.

[答] 「主語-述語」関係や「基体-属性」という考え方に基づいて,アリストテレスは有効な反論だと思っているとしても,プラトンの立場からすると,必ずしも有効な反論になっていない,ということができると思います.

[問] イデアの話は難しかった.
全ての人が納得するイデア論を見つけることができるとしたら,とてつもない時間がかかると思った.

[答] イデアをめぐる想起説(あるいは,想起の論)によって,楽観的な気分になり,勇気づけられている人もいるので,それに水を差すつもりはありませんが,万人が納得するイデア論などは,不可能ではないでしょうか.しかし,イデアという着想は,興味深く,哲学の問題を考える上で,難点とともに,利点もあるので,イデアの論によって,何がわかり,何をどこまで言えるのかを考察する原動力になると思います.

[問] プラトンは,当為が善であると説いていましたが,あらゆる当為が善であるという確証があっての主張なのでしょうか?

[答] 「当為が善である」とか「あらゆる当為が善である」という意味がよくわかりませんが,ここで「当為」というのは,英語の助動詞"ought to"を名詞化して言っているのですが,ドイツ語の助動詞"sollen"を名詞化して"Sollen"(ゾレン)と言ったりもします.分かりやすく言えば,「そうするべきである」ときめることやきめたもの,のことです.ですから,これは,「義務」だったり,「本務」だったりします.それは,単に「在る」のではなくて,「在るべき」という価値判断を伴っています.その価値(ここでは,「べき」で代表される)が「存在」(在る)に先立っている,というのが,プラトンの立場です.そのことを「善」のイデアの比喩によって語っていると思われます.その意味で,「あらゆる価値(判断)」の根源が「善」である,とは言えると思います.

[問] 「is」と「ought to」を例にしたイデア論の解説がわかりやすかったです.
プラトンが,イデア論の問題点をパルメニデスとゼノンに指適(摘)させたことや,アリストテレスのイデア論批判を通して,問題点などが見えてきたのが,興味深く自分でもよく考えてみたいと思いました.

[答] ぜひ,考えてみてください.欧文には,欧文の引用符を使いましょう.つまり,"is"と"ought to"です.

[問] 「存在」と「当為」のどちらが根源的か,という疑問に私は,「存在」だと今の時点では感じました.

[答] 授業でみたように,存在"is"と当為"ought to"の例で,当為(べきである)を分析すると,「べき」と「(で)ある」が出てきて,「べき」を捨象すると,存在「ある」が残るから,当為がより根源的に最初からあると考えれば,「ある」も「べき」もこの世界に普遍的に妥当することとして主張できる,とする立場からすると,「存在」をより根源的だとする人たちに対しては,存在"is"をどんなに分析しても,当為"ought to"は出てこない,という批判がなされます.これに対しては,どう反論しますか?「存在」をより根源的だとする立場では,「当為」は,人間が後から人為的に付け加えていることになり,従って,その「当為」は,(「当為」をより根源的だとする立場の人たちにとってのように)この世界に普遍的に妥当することとして主張できない,ということになります.しかし,そういう,いわば,相対的な(普遍的ではない)「当為」を引き受けて生きて行く,というのが,「存在」をより根源的だとする人たちが採り得るひとつのやり方でしょうか.

[問] 「存在のある」と「当為のべき」が少し難しかったです."ある"と"べき"は,本当に違うものなのか,疑問に思いました.存在していることは,そうあるべくしてある,ものなので同じことのように思いました.

[答] あなたがそう思うのならば,それはそれで結構です.そして,あなたは,「当為」をより根源的であるという立場であるということになりますが,そう言われる意味がわかりますか?あなたの言い方に従うと,当為「あるべくして(ある)」と存在「あるものとして(ある)」ということになりそうです.どちらも「ある」が表現に含まれていますが,後者は「ある」だけですが,前者は「べく」が含まれています.

[問] 「善」が先にあるというのは,やはり納得しにくい考えだと思いました.普遍的に「美」という概念が存在するのだという着想は納得できるのですか...

[答] より根源的にあるものとして「善」は認めがたいが,「美」を認めることはできる,という発想は興味深いので,何故そう考えるのか,是非,教えてほしいと思います.ギリシア人にとっては,kalokagathia(カロカガティア)「カロス(美)とアガトス(善)」という一語になった概念がありますが,この場合の「美」は,単に姿・形だけのことではなくて,行為の「立派さ」も指す広い概念です.どちらも広い意味での価値判断にかかわる言葉です.また,「カロス」を「美」と訳さずに,「麗しい(うるわしい)」と訳す人もいます.

[問] 美のイデアに関してだけでも,みにくいものや,人によっては美しくないと感じるものなど,障壁があまりに多いのを感じますが,一方で世界の根本的なものを想定するこの論は魅力的です.

[答] その通りだと思います.しかし,その「世界の根本的なもの」から,哲学的に,論理的に,どのようにこの世界が説明できるのか,という点に苦労しているわけです.

[問] プラトンのイデア論は空想的な考え方であるというようなイメージや反論しか思いつかなかったが,「大のイデア」という反論がとてもおもしろいと思った.

[答] イデア論そのものよりも,イデア論をめぐって論理的な問題を追求することによって得られる知見のほうが,ここでは大切なのです.

[問] 美のイデアによって,事物に美が備わるというのはわかるのですが,事物の方から美のイデアにあこがれるというのがいまいちわからないです.
ここでいう「あこがれる」というのはどういう意味合いなんでしょうか?

[答] 「あこがれる」という動詞は,普通のことばの使い方では,意識をもつ生き物(とくに人間のように理性や知性をそなえる生き物)が,主語となるのですが,ここでは,通常の生き物ではない事物も,比喩的に,イデアを求める,という意味で,その「求める」程度の強さもこめて「あこがれる」という言い方をしています.乾いた砂は,生き物ではありませんが,砂漠の砂の上に,水筒の水を注ぐと,たちまち,すっと吸い込んでしまうのを見て,まるで,砂が水を求めていたかのように思いませんか.

[問] ものを知らない人の中にも,実はその知らないことにかかわる思惑などがあるから,何度も系統的質問をすることで正しい知識が得られる,とありましたが,幾何などといった数学の問題は,それこそ公式などとかないと解けないのではないか,思惑などだけで解けるのかと思いました.
質問する側も,どんな問いで答えを導いたのか,文系の人間としては不思議に思いました.

[答] おっしゃるところの「系統的質問」によって,質問されている者がまだ意識し理解できていない「公式」の内容を理解させてしまう(思い出させてしまう)ということです.

[問] 学習というのは知っているものを思い出すという考えがあるというのは知らなかったです.

[答] これを,一般に,「想起説」とか「想起の論」とか言います.

[問] 自分たちは全てイデア界で既に知っているから,この世でのそれにひかれたりすると考えるとおもしろかったです.
わからないあらゆる世の中のこともイデアを思い出せていないだけで,本当はわかっているはずと思えば非常に前向きに取り組めそうです.
イデア界で好きだったもの以外のものを,この世で好きになることがないのなら,輪廻のようだと思いました.

[答] 哲学的な理解としては,必ずしも,そういうことではないかもしれませんが,今,生きるにあたって,諦めや,消極的な態度ではなくて,逆に,積極的な何かを与えてくれると思えるならば,そういう理解も結構でしょう.

[問] 神という存在に対して,存在の有無,どういう形をしているのか,結局,真実は誰にも分からないのだと感じた.在るものや,真実に対して,どんな根拠があろうとも,何が一番正しいのか,万人が納得する答えを求めることはできず,それらの追求があるからこそ,真実は無いからこそ,人間はいつまでも考えることができるのだと思った.

[答] 「真実は無い」というのは,今,誰もが納得できる形で示すことはできない,という意味で,「ない」かもしれないけれども,今は示せないが,なんらかの形で「ある」と想定すると,どういう探究や研究ができるのか,ということでしょう.以前の質問にもありましたが,はじめから,「神」という表現を用いると,受け取る人によって,理解するところが様々なので,「超越者」とか「絶対者」などと,「神」という言い方を意図的に避ける哲学者もいます.しかし,「神」という表現を用いる場合も,波多野精一は「本書において著者は,宗教体験において主体の対手をなすものを言表すため,便宜上「神」という語を用いた」(『宗教哲学』序,岩波文庫版では,p. 169)とことわっています.


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