このページでは、2004年度後期におこなわれている広島大学総合科学部開設の講義 「中南米社会文化研究」の内容の一部を紹介しています。







講義予定
第1回(10/7) 授業内容などにかんするオリエンテーション
第2回(10/14) 広島大学全学シンポジウム「広島大学は平和について何を教えるべきか?」
          (青木は、午後の分科会1「貧困、環境、平和」に参加)
第3回(10/21) ビデオ「友だちになろ!in Mexico」
第4回(10/28) ラテンアメリカ史概説(ビデオ)
第5回(11/4) 「ラテンアメリカ」とは何か:「文化」を考える
第6回(11/11) 「発見」・「征服」期:ヨーロッパ人は「インディオ」をどうみたか
第7回(11/18) 植民地期:「インディオ論争」
第8回(11/25) 独立期・国家形成期:「インディオ」の「発見」と「創造」
第9回(12/2) 19・20世紀の世紀転換期:社会問題としての「インディオ」
第10回(12/9) 「インディオ」から「混血」へ
第11回(12/16) レポートについて
第12回(1/13) 国民統合・文化ナショナリズム:先住民教育を中心に
第13回(1/20) ネオ・インディヘニスモ
第14回(1/27) まとめ:先住民が提起する今日的課題
第15回の授業は、各自、文献調査・収集、レポートの執筆をもってかえる

第2回 広島大学全学シンポジウム「広島大学は平和について何を教えるべきか?」
     分科会1 「貧困、環境、平和」


 この分科会は、松岡俊二教授(国際協力研究科)が基調講演をおこない、その後、大学院生2人を含む 4人がコメントをするという形式であった。松岡氏は、現代の「平和」を考えるうえで、従来の「戦争と平和」 という二項対立的な枠組みではなく、「平和」のためには世界の「貧困問題」をどのように解決するかという 視点が重要だと指摘する。そして、一日1ドル以下で生活する人々の割合など具体的な数字をあげつつ、 現在の世界における貧困の状況を説明し、それを克服するためのさまざまな取り組み(たとえば、ミレニアム 開発目標、平和構築のための枠組みなど)を紹介した。さらに、近年さかんに提唱されている「人間の 安全保障」という概念を提示し、とくに「開発」のための能力を開発することが重要だと述べた。 コメンテーターからは、「貧困の現状をはじめて知った」、「お金がないと心は豊かになれないのか」、 「断食をして空腹のつらさを知った」などのコメントが出された。
 ここで疑問に思ったのは、「一日1ドル以下の生活」とは実際にどのような生活なのか、「貧困」はどの地域 においても同じような問題としてあるのか、「貧困」の克服とは「空腹を満たすことなのか」といった点である。 「一日1ドル以下の生活」とはたんなる「空腹」という問題なのか、アフリカとラテンアメリカの「貧困」は はたして同じなのか。このような疑問から、この講義では、急きょ予定を変更し、第3回の授業において、 メキシコの「貧困」問題の一端であるストリート・チルドレンの問題をとりあげることとした。路上に生きる 子どもたちが実際にどのような状況に置かれているか、長年の取材をつうじて具体的な姿をとらえたドキュメ ンタリー・ビデオをみながら、「貧困」に暮らすということはどういうことなのかを考えたい。

第3回 ビデオ「友だちになろ!in Mexico」 (「ストリートチルドレンを考える会」 制作)


 このビデオについては、本年度前期の演習で取り上げたときに感想を書いているので、それを参照のこと (中南米ゼミ第12回)。また、「貧困」についても演習で 取り上げた(中南米ゼミ第5回)。ここでは、受講学生の みなさんに書いてもらったコメントを読みつつ感じたことを書きたい。
 ブラジル史を専門とする知り合いの研究者が、雑誌のコラムで、ブラジルの人身売買や少女売春の問題にふ れつつ、次のようなことを述べている。

  人身売買や少女売春と聞いて驚かない程度には、ブラジル社会を知っているつもりであったし、
  教室でそのような問題を安易に取り上げたところで、少なからぬ学生には、人間性を揺すぶられ
  るかわりに、第三世界の「後進性」を例証するセンセーショナルな話題として受け取られ、彼ら、
  彼女らの第三世界蔑視と「日本人」としての優越感を補強してしまうということを、このごろ悟っ
  たからである。(鈴木茂「赤道の南から 1 レシーフェ」『歴史評論』519号、1993年7月、p.87)

 今回の授業が、学生のメキシコ蔑視と「日本人」としての優越感を補強してしまったとは思わない (少なくともそうは思いたくない)が、やはり、どこか遠い見知らぬ国のこととして学生には感じられたであ ろう。路上に暮らす子どもた ちの悲惨な状況に、少なからずショックを受け、人間性を揺さぶられた学生が多かったとは思うが、しかし、 それは、自分とはあまにもかけ離れた、理解できない、想像もおよばない、さらには自分とは無関係のことと 思えたかもしれない。それはそれで仕方のないことであるし、それを批判する資格というか自信など、わたし にはない。ただ、こうした「遠い国」の問題が、どこかで必ずや自分たちの身近な問題につながっているの ではないか、というほんの小さな予感のようなものだけでも感じてくれれば、今回の授業は成功だと思う。 多くの学生が、「ストリート・チルドレン」をあつかったビデオをみて、「貧困」、「家族」、「愛情・友情」、 「ボランティア」、「援助・支援」などなど、多くの問題について考えた。そして、自分は何をすべきか、 何ができるかと問うた。しかし、誰もがそこで立ち止まってしまう。もちろん、このわたしもである。 だからこそ、こうした問題について考え続ける姿勢を持ち続けること(いうほどに簡単ではないが)、さしあ たり、ここからしかはじまらないのではないか。
 印象に残ったコメントのひとつに、「ストリートチルドレンというのは、先進国である日本に住む私達にとっ ては教材なのだろうか」というのがあった。つまり、この授業そのものがはたして妥当なのかという指摘 であり、さらには、メキシコを研究対象として論文を書いたり授業をしたりしているわたし自身の問題にも つながっている。もちろん、研究対象とどう向き合うかという問題は、これまでも問い続けてきたし、 今後も問い続けることになるだろう。この点については、これからの授業のなかでも考え、そして、学生の みなさんにも問いかけていきたい。
 ちなみに、このビデオの制作者であるジャーナリストの工藤律子氏の著書『ストリートチルドレン− メキシコシティの路上に生きる』岩波ジュニア新書、2003は、取材するなかで、工藤氏が、ジャーナリスト として、さらにはひとりのおとなとして、人間としてどう子どもたちと向き合うかという問題に悩み、苦しみ、 みずからの回答を求めようとする真摯な姿勢が伝わってくる本である。