非被爆者から被爆者へ

古浦千穂子


(要旨)原爆をテーマにした作品「風化の底」を書いたのは1967年の夏だった。1965年に原爆短歌集『さんげ』を出版した正田篠枝が54歳で亡くなっている。正田さんの被爆による乳ガンの死は理不尽であり、死までの辛さを身近で見ただけに、その死は私の頭の中で未解決のままだった。

 正田さんを死んでゆく男性と生き残る奥さんに分けたことで虚構の世界に入れた。主人公は被爆した女性、そして恋人は非被爆者でヒロシマを取材する新聞記者。廣島を内から外から、当時、非被爆者だと思いこんでいた私の思いを書いた。

 作品は『新潮』12月号に掲載され、『群像』の新年号の創作合評に取り上げられていた。武田泰淳、野間宏、本多秋五に批評してもらっていたのだ。

 その中で本多秋五は「この人は被爆者ではないね」と言っていた。解ってしまうのだと感心してしまった。

 この作品を書いたおかげで声をかけて頂いて1982年、ドイツのケルンで開催された文学者反核大会に出席、「風化の底」を朗読した。シャモニー氏のドイツ語訳の評判は高かった。私としては突然の新しい経験で学ぶことはとても多かった。

 1982年、左下顎のガンになった。海田高等女学校の同級生の見舞いを受けて、8月6日の翌日から被爆者の看病のために町のお寺に動員されたから、私たちは被爆者なのだと聞かされた。6日から見続けた悲惨な人々、場面の中で、私も当事者だったのだ。7キロ離れた海田にいたから非被爆者だと思いこんでいたのは何だったのだろう。

 ガンを患って死まで考えたとき、襲ってきた恐怖だった。知識がないとか、自覚がないとか、無関心だとか、知らされていないとか、あり得る状況である。

 被爆者手帳を手にしたが、その時は当事者意識が強すぎて、とても客観的に自分を見れない。作品にするには時間が必要なのだろう。


講師・作家紹介1931(昭和6)年、広島県生まれ。1945(昭和20)年8月6日当日、広島県立海田高等女学校の二年生で登校していた。サークル誌『われらのうた』で詩を、同人誌『呉文学』『光彩』『湾』で小説を書いてきた。著書:『風迷う』1977年、湯川書房。『マテオの息子』1981年、檸檬社。広島文学資料保全の会編『「さんげ」原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』(現代教養文庫)1995年、社会思想社(編集、執筆者として参加)。