原民喜の精神的位置

――生誕96年祭記念講演――

広島大学教育学研究科教授・「広島に文学館を!市民の会」代表

水島裕雅


 「広島に文学館を!市民の会」は今夏(2001年7・8月の12日間)、旧日本銀行広島市支店で「原爆文学展―5人のヒロシマ」を開催しました。原民喜、峠三吉、大田洋子、正田篠枝、栗原貞子と5人の作家、詩人を集めた、広島では初の体系的な文学展でした。酷暑の季節にもかかわらず三千三百人余の入館者を迎えることが出来ました。花幻忌の会が3月、旧日銀の一般開放第一号企画として開いた「没後50年・原民喜回顧展」の方は二週間で四千二百人以上もの入館者があったと聞きました。こうした文学展に、これほど多くの市民が足を運んでくれたことを考える時、私は今日、原民喜をはじめとするヒロシマの詩人や作家たちの残してきた言説の重要性が、ますます高まってきていると実感するのです。

 実は、今回のテーマとして「原民喜とダダイズム」といったことを当初、考えていました。現在、大学で手がけているテーマが「中原中也とダダイズム」であり、そのテーマで講義もしています。中也は、若いころに高橋新吉の詩に触発されてダダイズムに傾倒していきます。原民喜の文学的出発点にもダダイズムがあり、あるいは原民喜はフランス象徴詩の代表ともいえるボードレールと松尾芭蕉を並べて、「世界最高の詩人」と敬慕していた、という義弟・佐々木基一の一文もあります。そんなことを考えていたのですが、あの「9月11日」の同時多発テロと、今日にいたる米国の報復戦争のニュースを追い、伝えられるブッシュ大統領やビンラディン氏の発言に接して、あらためて原民喜が残した言葉の重みをかみしめ、今回はその話をしようと思いました。

 ビンラディンは「異教徒の軍隊がムハンマドの地から出て行かない限り、アメリカに平和は訪れない」と言い、ジハード(聖戦)を呼びかけます。その中には原爆の被害を受けた広島・長崎市民にとって見逃すことの出来ない言葉も含まれています。例えばこの発言。「米国はテロを非難するが、それは自分たちの罪を我々になすりつけようとしているだけだ。イラクでは60万人の子どもたちが、アメリカの経済制裁で食糧も薬もなく、死んでいる。ボスニアではイスラム教徒をセルビア人が虐殺するのにまかせた。広島・長崎では原爆を落して住民皆殺しにした事を忘れてはならない」として、米国こそが最大のテロ国家だと非難しています。

 ブッシュ大統領も「報復のためのあらゆる武力・兵器の使用」を議会に求め、議会もこれを承認しました。「あらゆる兵器」の中には核兵器が含まれるであろうことも排除は出来ないと思うのです。

 新たに炭疽菌の恐怖などもあります。21世紀は、これらの事件を契機として、さまざまな無差別大量殺戮兵器が使用されかねない可能性を生み出してしまったといえます。20世紀に開けられてしまった「パンドラの箱」からは、依然として「悪の象徴」である核兵器などが害毒を流し続けているといえるでしょう。こうした状況に、もし民喜が生きていたとすれば、どのように発言しただろうか、と思うのです。

 

〈エッセイ「戦争について」〉資料@

 幾つかのエッセイや詩に即して民喜が残した言葉について考えてみたいと思います。まず「戦争について」。初出は「近代文学」昭和23年9月号です。「われわれは戦争をかく見る」という特集の、いわば巻頭論文の形で載っています。敗戦から三年が経過し、日本は一見平和に戻ったかに思えた時期に、民喜は「人類は戦争と戦争の谷間にみじめな生を営むのであらうか」と書いています。ここには終戦による開放感は見られません。重苦しい予感に満ちた文章です。

 冒頭の十行詩「コレガ人間ナノデス」に続いて、かつてラジオから流れてきた日本軍による香港入城式の事に触れて、「戦車の轟音のなかから、突然、キヤーツと叫ぶ婦人の声を聞いた僕は、まるで腸に針を突刺されたような」感覚を覚えた、と書いています。つまり、ラジオを通して人が殺されている光景が伝わってきたわけです。民喜は常に、虐殺され、言葉を奪われた弱者の側に立ってものを見ようとする姿勢を持ち続けていたことを、この一文は示しています。「あの時から僕には、もつともつと怖しいことがらが身近かに迫るだらうとおもへた」と書いています。彼は学生のころから自分の俳号を「杞憂」と名乗っていたことでも分かるように、絶えず悪い予感におびえていたのです。感覚鋭く、人類の未来を見据えながらー。

 第一次大戦中の欧州に生まれたダダイズムも、文学者たちが「言葉で立ち向かうことしか出来ない」烈しい思いに駆られ、既成の社会常識を打ち壊していく運動でした。民喜もいち早くその思想を取り入れて文学活動を始めたのであって、原爆に遭ったから「原爆作家」になったわけではありません。戦前からたくましい精神を持った「抵抗作家」だったと私は評価しています。当時の軍国主義にあって、自らの内面を書き続けることによって体制に抵抗してきた作家だったと読み取っています。

 この「戦争について」という一文には、彼が原爆や戦争についてどう思っていたかが端的に、短い文章の中に表されています。最後の部分に「ただ一つだけ明確にわかっていることがら」として、「あの広島の惨劇のなかに横はる累々たる重傷者の、そのか弱い声の、それらの声が、等しく天に向かつて訴へていることが何であるか」だと述べています。つまり、「暗い予感」に打ち震えながらも、無辜の民の嘆き、原爆によって死んでゆく広島市民の嘆きを伝えるために死力を尽くして作品を書かねばならないという彼の、作家としての使命感がこの文章には込められています。弱者からの眼差しを文学の根底に据えた精神に深く打たれるのです。

 そうした精神は「平和への意志」(資料A)にも描かれていますが、彼の基本的立場は文学を志した時から一貫しています。その姿勢は、あの戦時中の言論弾圧の時にも変わらなかった数少ない作家の一人でもありました。

 

〈「平和への意志」など〉

 「平和への意志」というエッセイも昭和23年ごろ、「戦争について」とほぼ同じ時期に書かれたものと思われます。さまざまな雑誌が同様の特集を組み、多くの知識人が戦争について語っています。ではなぜ「昭和23年」なのか、歴史を振り返ってみると、この年の6月に「ベルリン封鎖」があり、昭和23年は後に東西冷戦の象徴となる「ベルリンの壁」につながる対立が明確になった年です。「新しい人間が生まれつつある」と思って上京した民喜でしたが、現実には彼のような繊細な人間には厳しい状況が続いていたわけです。挿入されている「三度目の夏に」で再び、「何がお前に生きのびよと命じてゐたのか」と自らに問うています。

 さらに「もしも原子力兵器が今後地球で使用されるとするならば、恐らく人類は完全に絶滅」するだろう、とも記し、人類絶滅の姿を再び描いています。

 実は、民喜は昭和十四年に発表した「曠野」という作品で既に、亡霊さえもが更に滅びてしまう、といった筋書きで、地球の滅びの姿を壮麗に浮び上がらせているのです。この「平和への意志」では「戦争のために存在した環境が人間の心理を病的に歪曲」してきたと指摘し、それに抵抗して生きるには「無限の愛と忍耐」が必要だと、心に重く響く言葉を発しているのです。その言葉は一方で崩れようとする己の「生きる意志」を奮い立たせ、「愛と忍耐」とで「戦争のために存在した環境」という「地獄」と抵抗して生きることを自分に課そうとしていたのではないか、とも思えるのです。

 このように読んでくると、例えばブッシュ大統領やビンラディン氏の声明と民喜の言葉との違いや、ブッシュ、ビンラディン両氏の言葉の共通性などが浮び上がってきます。

 ビンラディン氏は「虐げられた者」の立場を語り、「報復」を主張します。ブッシュ大統領も声高に「報復」を叫び、それは現実のこととなりました。実際に広島で無差別大量虐殺の現場に遭遇した原民喜の言葉に「報復」の二字など、どこにもありません。虐殺された者の「嘆き」や祈りを語り、戦争の環境が引き起こす「人間心理の歪曲」を語っています。平和を求める強固な意志は、愛と耐えざる忍耐だと呼びかけた民喜の言葉に即してみれば、「報復」を主張することの方が、ある意味では容易なことかもしれません。

 

〈民喜の自死をめぐって〉

 昭和26年3月15日付「中国新聞」には、長兄・信嗣氏夫妻の言葉として、民喜自殺のいきさつについて「思想的な行き詰まりか」という記事を載せています。私自身は、エッセイ「死について」(資料B)や、詩「家なき子のクリスマス」(資料C)の中に、その手がかりが隠されていると考えています。

 「戦前から戦後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒して」きた「死の嵐」について述べた「死について」というエッセイには、重要なメッセージが語られているように思うのです。彼の死後に遺稿の形で発表された一文には、「暗黒と絶望の戦時下に、幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願った」とあります。そうしたエッセイを書いている原民喜の「現在」を覆う瓦礫と虚無感。人間の存在をひと息で吹き飛ばしてしまうもの、とは何なのか。

 「家なき子のクリスマス」は多分、朝鮮戦争(1950―53年)の際にマッカーサーが原爆再使用を提案したころに書かれたものと思われます。あの「ベルリン封鎖」に続いて、まさに原爆の再使用が現実のものになりつつあった時代でした。当時の状況は、1998年7月5日付朝日新聞の特集「マッカーサー」でも詳述されています。まさに50年のクリスマスイブ、マッカーサーは東京発ワシントン行きの暗号電で中国、旧ソ連21都市を原爆投下の標的に挙げていたのです。当時の新聞は連日、ほぼ全紙面で朝鮮戦争について書いています。こうした状況を背景に、これらのエッセイや「家なき子のクリスマス」を読み直してみれば、生と死が「紙一重」のところにあった民喜の虚無感も理解できるでしょう。

 

〈民喜の宿題に応えるために〉

 きのうの朝日新聞(2001年11月9日付)に森滝春子さんらのインド訪問の記事がありました。9月末からインドを訪れていた彼女達は、現地の人々から「ヒロシマはなぜ、原爆でやられた分、やり返さなかったのか」と不思議がられたそうです。森滝さんは、そうした問いに、次のように答えた、と述べています。「確かにヒロシマが受けた原爆の被害は人類史上最大のテロ、と言っていいと思う。だが、ヒロシマは受けた被害の大きさによって、核兵器があまりにも人類の存在自体を脅かすものであることを学んだ。だから、人類の英知を集め、報復を乗り超える道を選んできたのだ、と。ガンジーの国でガンジーの非暴力主義が忘れられていると感じた」。

 インドもパキスタンも核開発を競い、カシミール地方の領有権を巡って争いが絶えない。人類の英知も、戦争の狂気の中ではなかなか力を発揮できない、ということも私達は人類の歴史、繰り返されてきた戦争を通じて実感せざるをえない。しかし、人類の英知を集め、広め、実行することによってしか平和は訪れないこともまた確かなことです。民喜は、平和の擁護、平和への協力には「耐えざる忍耐と緊張を一人一人に要請する」と言います。また、この地獄と抵抗して生きるには「無限の愛と忍耐」が必要だと言います。

 私達は、原民喜の死を越えて無限の愛と忍耐を持ちえるでしょうか。彼の思想を人類にまで広げることが出来るでしょうか。それぞれの立場で心がけることなのですが、私自身は民喜の精神の一部でも受け継ぎ、彼をはじめとするヒロシマの文学を広めていきたい、と考えて実践していきたいと思います。「広島に文学館を」という呼びかけも、その一歩なのです。

 (本稿は2001年11月10日、原民喜生誕九六年祭の記念講演を編集部でまとめ、水島氏に捕・加筆を求めた。引用されたエッセイや詩は資料としてまとめた)


資料@「戦争について」(初出「近代文学」昭和23年9月号)

 コレガ人間ナノデス

 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ

 肉体ガ恐ロシク膨張シ

 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

 オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ

 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ

 「助ケテ下サイ」

 ト カ細イ 静カナ言葉

 コレガ コレガ人間ナノデス

 人間ノ顔ナノデス

 

 夕食が済んで病妻が床に横はると、雨戸をおろした四辺は急に静かになる。ラジオばかりが生々しいものをその部屋に伝へてくるのだが、それを聴きながらも、つねにそれを無視しようとする気持が僕にはあつた。それは日本軍による香港入城式の録音放送を聴いてゐた時のことであつた。戦車の轟音のなかから、突然、キヤーツと叫ぶ婦人の声をきいた僕は、まるで腸に針を突刺されたやうな感覚をおぼえた。あの時、あの時から僕には、もつともつと怖しいことが身近かに迫るだらうとおもへた。それから、原子爆弾による地球大破滅の縮図をこの眼でたしかに見て来たのだった。

 だが、今後も……。人類は戦争と戦争の谷間にみじめな生を営むのみであらうか。原子爆弾の殺人光線もそれが直接彼の皮膚を灼かなければ、その意味が感覚できないのであらうか。そして、人間が人間を殺戮することに対する抗議ははたして無力に終るのであらうか。……僕にはよくわからないのだ。ただ一つだけ、明確にわかつてゐることがらは、あの広島の惨劇のなかに横はる累々(るいるい)たる重傷者の、そのか弱い声の、それらの声が、等しく天にむかつて訴へてゐることが何であるかといふことだ。


資料A「平和への意志」(初出誌不詳。執筆は昭和23年夏以降か?)

 二つの特輯が私の心を惹いた。知識人戦線(個性七月号)〈引用者注=昭和23年か〉と平和の擁護(近代文学8月号)〈同年?〉と、これは近頃、最も意義ある特輯だつたが、かうした特輯は今後も絶えず繰返して為されなければならないし、何度繰返しても多すぎるといふことはあるまい。極言すれば戦災死をまぬがれたわれわれにとつて、これこそは最大の、そして最後の課題なのだ。

 1945年8月6日、言語に絶する広島の惨劇を体験して来た私にとつて、8月6日といふ日がめぐり来ることは新たな戦慄とともにいつも烈しい疼きを呼ぶ。三度目の夏に、私は次の如くノートに書き誌しておいた。

 三度目の夏に

 お前が原子爆弾の一撃より身もて避れ、全身くづれかかるもののなかに起ちあがらうとしたとき、あたり一めん人間の死の渦の叫びとなったとき、そして、それからもうちつづく飢餓に抗してなほも生きのびようとしたとき、何故にそれは生きのびようとしなければならなかつたのか、何がお前に生きのびよと命じてゐたのか―答へよ、答へよ、その意味を語れ!

 原子爆弾の惨禍も、それが日本降伏までの時期のものならば、まだわれわれにとつて、描くことも描かれたことについての理解も可能であらう。だが、もしも原子力兵器が今後地球で使用されるとするならば、恐らく人類は完全に絶滅し、陰々として草木が密生する地上を爬虫類のみが徒に跳梁する光景が残されるばかりではあるまいか。

 一人の人間が戦争を欲したり肯定する心の根底には、他の百万人が惨死しても己れの生命だけは助かるといふ漠たる気分が支配してゐるのだらう。無論、過去の戦争においては、さうした事もあり得た。だが、戦争は今後、あらゆる国家あらゆる人間の一人一人を平等に死滅に導くといふことを特に銘記すべきだ。

「人々の心の中でのみ戦争は防止できぬが、人々の心の中で戦争を承認するときは、遂に人類は自滅せざるをえない段階に立ちいたることを、われわれは心に焼きつけようではないか!」(平田次三郎)結局「戦争を防ぐのは我々であり、我々の一人一人である」(杉捷夫)

 平和の擁護、平和への協力は、絶えざる忍耐と緊張を一人一人に要請するであらう。今日己れと己れの周囲を少し静かに顧みれば、戦争のために存在した嘗ての環境が、いかに人間全体の心理を病的に歪曲したか、現に今も傷害してゐるかは、あまりにも明らかなことがらである。この地獄と抵抗して生きるには無限の愛と忍耐を要する。  


資料B「死について」(初出「日本評論」昭和26年5月号=遺稿)

 お前が凍てついた手で

 最後のマツチを擦ったとき

 焔はパツと透明な球体をつくり

 清らかな優しい死の床が浮び上がつた

 

 誰かが死にかかつてゐる

 誰かが死にかかつてゐる、と

 お前の頬の薔薇は呟いた。

 小さなかなしい アンデルゼンの娘よ

 

 僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、

 いつも浮んでくるのはその幻だ

 

 広島の惨劇は最後の審判の絵か何かのやうにおもはれたが、そこから避れ出た私は死神の眼光から見のがされたのではなかつた。死は衰弱した私のまはりに紙一重のところにあつた。私は飢えと寒さに戦きながら農家の二階でアンデルゼンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでゆく少女の最後のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。蟋蟀のやうに痩せ衰へてゐる私は、これからさきどうして生きのびてゆけるのかと訝りながら、真暗な長い田舎路をよく一人とぼとぼ歩いた。私も既に殆ど地上から見離されてゐたのかもしれないが、その暗い地球にかぶさる夜空には、ピタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いてゐた。

 その後、私は東京に出て暮すやうになつたが、死の脅威は更にゆるめられなかつた。滔々として押寄せてくる悪い条件が、私から乏しい衣類を剥ぎ、書類を奪ゐ、最後には居住する場所まで拒んだ。

 だが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戦前から戦後へかけて、まっしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黒と絶望の戦時下に、幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てたものが、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虚無感に突落されることもある。悲惨と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。もともと私のやうに貧しい才能と力で、作家生活を営まうとすることが無謀であつたのかもしれない。もし冷酷が私から生を拒み息の根を塞ぐなら塞ぐで、仕方のないことである。だが、私は生あるかぎりやはりこの一すぢにつながりたい。

 それから「死」も陰惨きはまりない地獄絵としてではなく、できれば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れ盲ゐてしまふことなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節を生き抜いて来た若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとつては大きな慰藉である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くかわからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築いてゆくより外はないのであらう。

 まことに今日は不思議で稀れなる季節である。殆どその生存を壁際まで押しやられて、飢ゑながら焼跡を歩いてゐるとき、突然、眼も眩むばかりの美しい幻想や清澄な雰囲気が微笑みかけてくるのは私だけのことであらうか。


資料C「家なき子のクリスマス」(初出誌不詳)

 主よ、あはれみ給へ 家なき子のクリスマスを

 今 家のない子はもはや明日も家はないでせう そして

 今 家のある子らも明日は家なき子となるでせう

 あはれな愚かなわれらは身と自らを破滅に導き

 破滅の一歩手前で立ちどまることを知りません

 明日 ふたたび火は空より降りそそぎ

 明日 ふたたび人は灼かれて死ぬでせう

 いづこの国も いづこの都市も ことごとく滅びるまで

 悲惨はつづき繰り返すでせう

 あはれみ給へ あはれみ給へ 破滅近き日の

 その兆に満ち満てるクリスマスの夜のおもひを

(出典資料@〜Cは青土社版『定本原民喜全集』による)


広島花幻忌の会『雲雀』創刊号、2002年、2-10頁。